10
住宅街を時に死者に追いかけられながら逃げ、勇の言っていた工場跡地に辿り着く。
以前は何の工場だったのか知らないが、見た目は大きめの民家サイズのコンクリート打ちっぱなしだ。隣りの敷地に自宅でもあったのか、今は更地のそこに車を止めさせてもらう。
一足先に車から降りたルイスが安全を確かめ、全員を降ろした。
「完璧に廃墟ですね。門も錆びてたし」
「立地は悪くないと思うんだけど、なんでこんな状態なのかしら?」
久佳が不審げにコンクリート打ちっぱなしの工場を見上げる。
「ここ、染色系の工場だったんですよ」
「?染色系だと何があるんですか?」
「有害物質を含んでる染料も扱ってたらしくて。現物を飲んだりしなきゃ大丈夫ですが、あえてそんな工場があった土地を買おうって思えるほど、良い立地でも無いですし」
確かにちょっと小高い丘の上にあるから見晴らしは良いが、歩いて駅まで行くには遠い。車が無いと辛い立地だから、売るとしたら裕福な層になるのだろう。そういう人が買おうと思うには、土地として難がある、という事らしい。
「よく知ってますね、勇さん」
「まぁ職業柄、世間話とか噂話はよく聞きますから。とりあえず軒先を借りて、これからのルートを決めましょう」
勇の提案に全員が頷きかけたが、久佳が手をあげた。
「すみません、ちょっとトイレ行って来て良いですか?」
え?という視線が集まり、久佳は気まずそうな顔になったが、開き直った様に言う。
「だから、トイレです。トイレ」
「でも中入れるかな。流石にドアを壊すのは……」
「トイレなら裏手にありましたよ」
あっち、と指を指したルイスに視線が集まる。なんで、という視線の意味を正確に読んだ彼は、さっき見た、と答えた。
「さっき敷地内をぐるっと確認したら、裏手にトイレのマークがついた場所があったんです。公園の公衆トイレみたいなの」
「ああ、古い工場だから、トイレが外なのかも」
「じゃあ、私、ちょっと行ってきます」
さっそく向かおうとした久佳を「えっ」と田原が大きな声を出して止める。
「ゾンビいたらマズいんじゃ。誰かついて……」
言いかけて、女性のトイレについて行くのは、と気がついたのだろう。声がどんどん小さくなっていく。
「あの、じゃあ、私、小町と一緒に行きます。私もトイレ行きたいし……」
墓地でトイレに行ったからそれほど時間は経っていないが、さっき寝起きに車の中で水を飲んだし、行けるうちに行っておきたい。男性たちの前でトイレに行きたい、と言うのは恥ずかしいものがあったが、膀胱炎になるよりは、と思い切って言った。
「大丈夫だと思うよ。さっき僕が回った時は変なのはいなかったし」
「……まぁ、小町がいれば大丈夫か」
ルイスの言葉プラス浩史がオッケーを出せば、後の面々が何か言えるはずもなく。
咲良と久佳は小町を連れ、工場の裏手へと回り込んだ。
古びた工場の横へ回り少し歩くと、木製の掘っ立て小屋があった。
まさかここ?と久佳と目を見合わせ、開きっぱなしになっていたドアから見えた中にほっとする。
土が剥き出しの地面に、欠けた植木鉢が幾つか。錆びたシャベルがころりと落ちているから、以前は園芸用品を入れていた小屋なのだろう。
「住人が忘れていったのかしら?」
「置いて行ったのかも、ですね。植木鉢割れてましたし。あ、あれでしょうか?」
工場の裏に回り込んですぐに見えた建物は、ルイスが言ったようにまるで公園のトイレだ。小規模だが男性用と女性用があるらしい。
当然二人は女性用のトイレに入ったが、入ってすぐに足が止まった。
「………汚い」
使用者がいなくなってどれくらい経つのか、中はひどい有様だ。落ち葉や雨、土埃が風で舞い込んだのだろう。コンクリートらしい床の上はどろどろで、ついでに植物の種も飛んできたのか、緑が芽吹いている。水道の蛇口は触るのも恐ろしい。
便座の無い場所ですら、これだ。
トイレのある個室は相当だろう、と久佳が恐る恐る手を伸ばし、ドアを開ける。
「!」
予想通りの荒れっぷりに、二人揃って鼻を覆った。
汚いを通り越しているし、それに臭い。鳥が中で巣でも作ったのか、洋式の便座はホラー映画に出てきそうな趣すらある。
「無理」
「ですよね……」
即座に言った久佳に咲良も頷く。せめて和式のトイレならズボンの裾が地面につかないようにして用を足せたかもしれないが、洋式だとどうしようもない。
無言で外に出て、同じように男性用のトイレも確かめたが、こちらもどうしようもないほど汚れていた。
「……ねえ」
「はい」
「さっきの小屋は、どうかしら?」
「小屋、ですか?」
「うん。ドアを閉めれば中見えないでしょ?シャベルもあったし、地面掘れば良いんじゃないかしら」
それは流石に衛生的にマズいんじゃないか、と思ったが、ならあのトイレで用を足せるかと言われれば首を振るしかない。
「……私、ウェットティッシュ持ってます」
小町の散歩用品だが、使うなら今だろう。
腰に巻いた散歩用の鞄からそれを取り出すと、手を取って感謝された。
ウェットティッシュを持ってたから、と先にどうぞと言われて用を足し、見張りを代わる。万が一にも男性陣に見られないようにだ。
音が聞こえない様に小屋から離れ、工場の横の大きな木の所へ移動する。
しゃがみ込んで小町の頭を撫でると、尻尾を振られた。
この前からずっと散歩に行けていないから小町もストレスが溜まっているだろうに、不機嫌になる様子も無い。犬ながら、か、犬だからこそ、か、異常事態だと分かって我慢しているのだろう。
田舎についたら思い切り駆けさせてやらないと、と思いながら、工場の壁に背中を預けた。
「―ですね。中も廃墟だ」
密やかな声が背後から聞こえ、顔を上げる。
ルイスの声だ。という事は、工場の中に入れたのだろう。
工場内の窓から小屋が見えたらマズい、と思って慌てて振り返るが、咲良の寄りかかっている壁に窓は無い。ただ、壁の上部の方に換気扇を取り付けていたらしい穴が、壁の下部に横長の小さな開口部があった。
声が聞こえたのは、下部の開口部からだろう。覗き込んでみれば、ルイスらしき人の靴と、浩史の靴が見えた。
安全を確かめ終えたのか動いていた足が止まる。
「ええ。だが長居はしない方が良いな。窓が無いから、いざという時の逃げ場がない」
「ですね。………それで、中原さんは何で僕を?戦力がここにしかいない状況は、あなたも本意じゃないと思うんですけど」
少し笑い含みに問うルイスの声に、浩史は硬い声で聞く。
「……坂井再生医療研究所」
呟かれた言葉に、咲良の肩が跳ねた。
それは咲良の実父の研究所だ。なぜその名を出したのか。
混乱する咲良がここにいるのを知らないまま、浩史が続ける。
「その研究所を、ルイスさん、知っていますか?」
ピリピリとした空気を漂わせているだろう浩史に、ルイスはしばらく黙ってから「さあ」と答えた。
「その研究所が何か?」
「知っているか知らないかを尋ねているんです。お答えは頂けないか」
「知っていたとして、どうなんでしょう?」
己の返答に不穏な空気が流れるのを感じたのか、ルイスは少し柔らかい声音を出して言う。
「……そこがどんな施設で、あなたとそこにどんな確執があるのかは知りませんが、僕には関係ありません」
「…………」
「僕はもう、アメリカに、戻る気はありませんから」
はっきりとルイスが言い切る。
「それは―」
「中原さーん、先生、ちょっと良いですか?」
勇の声が聞こえ、浩史は言葉を飲み込んだ。唐突に切れた会話に勇が戸惑ったように何か言い、浩史とルイスがフォローするように、大丈夫だと口々に答える。
その声が遠ざかるのを、じっとしゃがんだまま咲良は聞いていた。
今の会話はどういう意味だったんだろう。
ルイスはもしかして実父と関係があるのだろうか?だとしたらルイスと親戚だという桐野も関係があるのか。
やはり、桐野が咲良の異母きょうだいなのか?
溢れてくる疑問に没頭していたせいで、ポン、と肩に置かれた手に飛びあがるほど驚いた。
「ひっ」
「ご、ごめん」
振り返った先にいたのは久佳だ。咲良がルイスと浩史の会話に気を取られている間に、用が済んでいたのだろう。
「こ、こちらこそ、すみません」
バクバクいう心臓を鎮めながら言えば、久佳が気にしないでと手を振り、それからぽつりと呟く。
「……ルイスって人、なんか胡散臭いわよね」
「え?」
「ごめんなさい、ちょっと会話聞こえてて。意味は分からなかったけど、なんかはぐらかす言い方だったから」
「です、よね」
全く事情を知らない久佳が聞いても、ルイスの返答は違和感を覚える物だったらしい。
やっぱり何かあるのかな、と考え込みかけた咲良に、眉根を寄せた久佳が続ける。
「それにあの人、桐野くんて子の事、シン、て呼ぶでしょ?あれも引っかかるなって」
「?」
「英語圏だと、シンってあんまり良い意味じゃなくなかった?テレビか映画で見たんだけど、罪とか罰とか、なんかそういうんじゃなかったかしら」
Sinだと確かに罪、宗教上の大罪を指す言葉だ。
「あ、でも真実の真の旧漢字でシンって読むので……」
「そうなの?親が日本人なのかしら……?よくつけたわよね、英語圏でその名前」
桐野の外見が日本人だから気がつかなかったが、確かによくつけたな、と今更思う。シン、と呼び続けるルイスも不思議だ。
「……まぁ、敵にならなければ頼りになるし、今更いなくなられても困るから、ケチつけるのもね」
窓から落とされそうになった時の事を思い出したのか、嫌そうな顔で首を摩りながら、はぁ、とため息をついた久佳を、小町が不思議そうに見上げた。
足にふわっとした毛の感触が伝わったのか、久佳がくすぐったそうに笑う。
「良いわね、犬。撫でても良い?」
「あ、はい」
まず手の臭いを嗅がせて、と教えると、みんな待ってるだろうから歩きながら、と促されて門へと向かう。
「思ったより毛がしっかりしてるのね」
「元々猟犬なので、藪に入った時用とか聞きました」
「へぇ。私も犬飼いたかったんだけど飼えなかったのよね。子供が出来なかったから、代わりに、て言ったんだけど、義父が反対して」
「アレルギーだったんですか?」
「そういう話は聞かなかったけど、まぁ、なんとなく嫌だったんじゃないかしら。今はもう一人だから飼い放題だけど、そういう状況じゃないしね」
少し寂しそうな顔で苦笑した久佳を励ましたくて、でも、と咲良は言葉を探して繋ぐ。
「田舎なら犬も飼えるかも、です。小町、典ちゃんの、上野さん家の本家さんから貰った犬なので。ブリーダーなんです」
「へぇ。柴犬専門なの?」
「はい。ただ規模を縮小してるから、今は小町の両親と黒柴の番の二夫婦がいるだけかもしれないですけど……」
「黒柴!可愛いわよね、黒いのも」
少し気分が盛り返したらしい久佳にほっとする。
そのまま二人で犬の話をしながら戻れば、浩史やルイスを含めた全員が車のそばで待っていた。
「おかえり。ルートが決まったよ」




