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おきあがり  作者: 鳶鷹
四章
106/136

3



「ママ、おなかすいた」


 それぞれが考え込んで静まり返った部屋の中、小さな女の子の声に、はっとして咲良は顔をあげた。

 山下家の小さな娘が、畳の上をうろつくのに飽きたのか、母親の横にしゃがみ込んでいる。咲良以外にも彼女の声に視線を向けた人たちがいたらしく、女の子はびっくりしたように母親の背中に隠れる様にへばりついた。

 山下の妻は体勢を崩して「こら」と小さく叱ったが、時計を見ればもう午後二時半過ぎだ。話の感じから彼女たちも昼食は食べられていないはずだから、お腹を空かせていても不思議は無い。


「そういや俺らも飯はまだだったわ。なんか食いますか?」


 遼の問いかけにパラパラと数人が頷く。


「そうは言っても台所は無いぞ」


 ご覧の通り、と勇ががらんとした何も無い部屋を指し示す。

 以前は部屋の隅に給湯スペースがあったらしいが、今はそのシンクすら残っていない。当然水道も無いし、火がつけられるガス台も無い。


「携帯用のガスコンロを持ってきたらどうかしら。ミルクも作らないと」


 悦子が自分の腕の中で寝ている赤ん坊を見下ろす。

 つられて咲良は布に包まれた中を覗き込んだ。

 赤ん坊は、すーすーと寝ている。悦子の抱き方が上手いから安心しているのかもしれない。

 

「あれ?この布」


 松井の使っていた抱っこ紐ではない。

 首を傾げると、悦子が声を潜めて教えてくれた。


「遼がね、警戒しちゃって。車の中で全部脱がせて怪我してないか見たのよ。それでびっくりしたみたいで、お漏らしして抱っこ紐が濡れちゃったの」


 遼の気持ちは分かるが、それでは車の中は感染とは別の意味でパニックだっただろう。

 

「それは……大変でしたね」

「でも良い事もあったわ。怪我してないのが分かったのはもちろんだけど、松井さん、抱っこ紐と服の間にこの子の母子手帳を入れててくれたの」

「そう、だったんですか」


 普通なら母親が持っているだろうものをそんなところに忍ばせていたのは、彼女がこういう事態、子供を手放さなければならない事態を想定していたからだろうか。

 自分の手から離れても、この子が不自由をしないように。

 庇う様に赤ん坊を胸の中に抱きしめて落ちた松井の姿を思い出し、胸が痛んだ。

 

「名前は莉子ちゃんだって。女の子よ」


 ぐっすりと眠っている莉子を、小町が覗き込みぺろりと頬を舐める。

 小さな眉がきゅっと寄ったのを見て、起こすかも、と咲良が慌てて小町を抱き寄せるが、そのまままた眠ってしまった。

 

「お漏らしした時にすごく泣いたから、疲れてるのかも。そのうちお腹が空いた、て泣き出すわ、きっと」

「赤ちゃんてそういう感じなんですね」


 へぇ、と頷いていると、勇たちの会話が耳に入ってくる。


「便所は向こうと下にあるが……水道は止めてるはずだから使えない可能性が高い」

「え、でも便所って下水が無事なら水入れれば使えるんじゃないの?」

「そうなのか?ならバケツかなんか探して雨水を貯めとくか。それで一晩くらいは間に合うだろ」

「一晩?」


 勇と遼の会話に、田原が思わずといったように口を挟む。

 結構大きな声だったせいか視線が集まり、田原は首をすくめるが、おずおずと続けた。


「その、一晩って、どういう……」

「明日にはここは引き払うからだろ」


 素っ気ない遼の言葉に異議を唱えたのは久佳だ。


「なんで?ここなら安全そうじゃない。一日なんて言わないで、もっといたらいいんじゃないの?」


 同意するように山下家の妻が頷く。


「雨もしのげますし、ゾンビもいないし、吉田さんの言う通りじゃ」

「でもジリ貧っすよ」

「ジリ貧?」

「あー……えっと、ジリジリ貧乏になってくっつうか、ええと、体力とか食料が無くなるばっかりって話です。飲料水だってペットボトルしかないし、携帯コンロだってガスが無くなったら使えない。便所だって雨が降ってるうちは雨水が使えるけど、そんなバカスカ雨が降るのなんて梅雨の間だけだし」

「でも……」

「助けだって期待出来ない。さっき咲ちゃんが言ってたじゃないですか。政府が機能してないって」

「……………」

「五体満足で動けるうちに、どっか頼れるとこ移動した方が良いっすよ」


 山下の妻は口を開きかけ、視線を落とした。

 

「……うちは、頼れるところが無くて」

「恵美」


 止める様に山下家の夫が声をかけるが、彼女は夫を見上げると「黙ってて」ときつい声をあげる。


「あなたの実家は無理よ」

「でも、こんな事態だし……」

「絶縁の原因忘れたの?あそこに子供たちを連れて行くなんて絶対無理。前に大怪我させられたわよね?」

「だったらお前の実家は……?」

「私の実家は都内だもの、人が多くて行けないわ」


 強い口調で言い切る妻に、山下家の夫は黙り込んでしまった。


「田原は?どっち方面だ」

「え、俺?俺は……」

「特養で両親の実家行く、て言ってただろ?」

「……移動中に電話したら、どっちも出なかった。親父の家の方は、そもそも通じなくて……」

「通じない?」

「電線が駄目になったか、家の電話が、駄目になったんだと、思う」


 前者は周囲で事故があった可能性が高いし、後者は家の中で惨事が起きた可能性がある。田原の硬い声に遼は居心地悪そうに身じろいだ。

 

「だから、出来たら、その、そっちと一緒に行けたら、て思ってる」

「はあ?」

 

 同情する心とは別に、いきなりの申し出に驚いたのだろう。

 嘘だろ?とばかりに大きな声を出した遼に、田原は気まずそうな顔になったが、援護するように久佳が口を開いた。


「私も同行させてもらいたいと思ってる。私の実家はもう無いし、旦那の方は、もう……だし」

「え、ちょっと冗談、」

「じゃないわ」

「でも……」


 遼は助けを求める様に勇を見たが、勇も渋い顔だ。

 久佳も田原も、昨日今日と一緒にいて知らない仲じゃないが、なら一緒に行きましょうと田舎に連れて行ける程、仲が良いわけでも無い。今でこそ田原と遼は普通に話せる程度だが、前は顔を合わせれば喧嘩していた間柄だ。

 

「あの、出来たらうちも一緒に連れてってもらえませんか?」

「山下さん」


 さらに山下家の妻にまで請われて、勇は弱った顔になった。

 田原や久佳はともかく、山下家には小さい子供たちがいる。無下にするのは断るのは躊躇われるのだろう。先に彼らの実家は駄目だ、と言い合っているのを聞いているから、尚更。


「私、母乳が出るので、莉子ちゃんに分けてあげられます。莉子ちゃんは連れて行くんでしょう?」


 恵美、と夫に制止するように呼ばれても、山下家の妻は視線を悦子に向けたままだ。


「莉子ちゃんは感染してないんですよね?さっきそっちのわんちゃんがほっぺ舐めてましたし、それならおっぱいあげられます。粉ミルクは作るのに手間ですし」

「……数も限られてるのよね、粉ミルク」

「母さん!」

「遼、莉子ちゃん七か月なのよ。離乳食を始めたばっかり。まだしばらくは、おっぱいかミルクと併用しないといけないの」

「でも」

「粉ミルクはお湯沸かして作らないといけないから時間も手間もかかるし、飲まなかったら捨てるしかない。哺乳瓶は毎回煮沸しないといけないの。母乳のが効率が良いのよ。あんたがおっぱい出せるなら良いけど」

「俺、男なんだけど!?」


 動揺して声を裏返らせて叫んだ遼に、知ってるわよ、と返して、悦子は勇を見た。


「お父さん」

「………うん。あー……分かった」

「父さん?!」

「赤ん坊の事は俺より母さんだ、遼」

「でも!」


 焦って抗議する遼に、悦子がぴたりと視線を合わせて言う。


「遼、じゃあ莉子ちゃん置いていくの?」

「う………そ、それなら山下さんに預ける、とか」


 流石に赤ん坊を捨て置け、とは遼も言えなかったらしい。

 ちらちらと悦子の腕の中を見てから代替案を出すが、これには恵美が首を振った。


「自分の子供二人だけでも手一杯なんです。頼れるあても無いのに、三人目なんて」

「あの、本当に申し訳ないんですが、どうかお願い出来ませんか?」


 ぺこ、と山下が頭を下げる。

 

「僕の両親は子供の扱いが下手で、うちの上の子に何度か怪我をさせてるんです……それに兄夫婦が同居してるんで、ちょっと………」

「私の方は都内で、もう連絡が取れないんです。うちの夫は腕っぷし弱いし、とてもじゃないけど子供二人抱えて安全な場所を探すなんて無理なんです」


 重ねて願われ、頭を下げられ、よく分からないながらも大事な話らしいと見上げてくる山下家の上の娘にじっと見つめられ、遼が折れた。


「……父さん」

「絶対に安全な道程では無いと思いますが、それでも一緒に来ますか?」


 勇の確認する言葉に、彼らが頷く。


「……分かりました。一緒に行きましょう」



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