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おきあがり  作者: 鳶鷹
三章
103/136

32



「典子!」


 特養の建物から彼らが戻って来る頃には、松井の子供もほんの少しぐずるだけになっていた。

 泣き声が周囲に響くのを恐れて車の中にいた咲良たちに、遼が駆け寄ってくる。


「あ、お兄ちゃん」

「あ、じゃねぇよ!お前、何やってんだ!」


 今まで見た事が無い剣幕で怒鳴った遼に、典子が怯えた顔になった。

 

「おっきな声出さないでよぅ。赤ちゃんが泣いちゃう……」

「その赤ん坊の事だ!お前、そんな、感染してるかもしれない赤ん坊を、無防備に持つな!」


 言った途端に、典子の腕の中で、ふやあああ!と赤ん坊が泣きだした。

 びっくりするほど大きな声に怯んだのか、遼が一歩引いて顔を顰める。反対に典子はきっと兄を睨んだ。


「お兄ちゃんがおっきい声出すからだよぉ!ほら、大丈夫だよー。良い子だねぇ」

 

 よしよし、と腕の中の赤ん坊を揺する典子に、また遼の眉が吊り上がる。

 

「絶対涙に触るなよ!涎もだ。どこから感染するか分からないんだから」

「でも松井さんは大丈夫って言ったよぉ」

「言うだけならいくらでも言えるだろうが!」


 ヒートアップした遼に、だが典子も負けじと言い返す。


「でも小町ちゃんだって反応してないもん!」


 ほら、と注目を集めた小町は、泣いている赤ん坊を心配そうに見上げ、泣き止ませようというのか、柔らかな赤ん坊の手をぺろぺろと舐めている。

 

「でも、」

「遼、落ち着きなさい」

「お母さん」


 仲裁する声に、二人の言い合いをハラハラ見ていた咲良は少しホッとしてそちらを見て、気づいた。

 悦子の横には気づかわし気に孝志が添い、その後ろには勇を背負った卓己がいる。さらに後ろは、田原と久佳に挟まれる形で山下の妻とその子供たちがいて、最後尾にルイス。

 どう見ても人が足りない。

 五十嵐は、新條は、特養の入居者や介護士たちは、と視線を彷徨わせると、遼が気づいて口を開いた。


「……後は、駄目だった。いがちゃんは突っ込んで行って松高先生に………」


 声を詰まらせた遼の肩を、卓己がポンと叩く。


「事情を話すのは後だ。今は一刻も早くここを離れないと」

「え……?なんでぇ、卓ちゃん?」


 不思議そうにしたのは典子や咲良たち、残っていた人間だけだ。退避してきた人たちは慌てた様にそれぞれの車に向かっていく。

 

「起き上がった人が多くてな。全部は無力化出来なかった。閉じ込めてきたが、いつまで持つか分からん」

「そんな……望月さんの奥さんとか、新條さんもぉ……?」

「俺は見てないが……田原くん!君が確認した方の廊下で見たか?」


 どの車に乗るか迷っている田原に卓己が声をかけると、こちらがびっくりするくらい飛びあがられた。


「田原……?」

「ひ、瞳は……瞳は………」


 訝し気に自分を見つめてくる遼に、田原は真っ青な顔で何か言おうと何度も口を開きかけて、視線を彷徨わせる。背後を振り返り、佇むルイスの後ろの特養を見たかと思うと、ぎゅっと目を瞑った。

 カタカタと小さく震えながら涙を堪える様に口を引き結ぶ田原の姿は、彼が見た光景が最悪の物だったのだと連想させるに十分だった。


「わりぃ……言わなくていい」


 遼は気まずげに謝り、卓己を見上げた。


「卓ちゃん、田原なんだけど、」

「運転は出来たな。郷田さんの車は動かせるか?」

「え……た、多分、見てたから……」

「なら君が運転して運んでくれ。郷田さんの車は頑丈だ。持ち主がもう運転出来ない以上、借りても良いだろう」

「じゃあ、吉田さんも乗せて貰ったらどうかな?」


 割り込んできたルイスの声に、郷田の車を見ていた田原は肩を跳ねさせて驚き、それから久佳をちらりと見て頷いた。


「なら決まりだね。特養の車から荷物を移し替えたら、早くここを離れよう。事情を話すのはそれからだ」


 


 逃げる様に七台の車は特養を後に走り出す。

 先頭を行くのは上野家のミニバンで、次にルイスが運転する外国製のバンが続き、孝志が運転するルイスの軽、山下家の車、中原家の車、田原が運転する郷田の車に卓己の車が最後尾だ。

 行くあてがあるのか、間に挟まれた中原家の車からは伺えない。咲良の手元にはもうトランシーバーは無いからだ。


「お父さん、どこに向かってるの?」

「分からない。が、今は行くしかないだろう。そろそろ仕掛けてきたプレイヤーの音も切れる」

 

 言われて窓をほんの少しだけ開けば、遠くの方で鳴っていた盗難防止ブザーももう聞こえなかった。

 咲良たちが遠ざかったからか、ブザーがとまったからか、あるいはトランシーバーが起き上がった死者たちに壊されてしまったか。

 分からないが、引き付けてくれるものが無くなった以上、死者たちが散開するのは時間の問題だ。


「……こっちに来なければいいが」


 祈るように呟く浩史の言葉を聞きながら、咲良も自分の手をぎゅっと祈るように握り合わせた。

 祈ってもそれが必ず叶うとは咲良も思っては無い。無事を祈った同級生が死に、父も感染した。

 それでも祈らずにはいられなかった。


 ―どうか全員が無事に逃げられますように。


 目を瞑って、誰にともなく祈る咲良の膝で、スマホが震えた。


「っはい!」


 相手の名前も見ずに出た電話から、もしもし、と電話越しでは慣れない、けれど知っている声が聞こえてくる。


「白鳥先輩!?」

『今大丈夫かしら?』

「はい。あの?」

『そちらに知らせておきたい事があって―』


 喋り出した白鳥の言葉に咲良は大きく目を見開き、慌ててダッシュボードの中からメモ帳を取り出した。

 言われた内容をメモ帳に書き留めていく。皆に知らせるべき事を書き綴り、最後に、と躊躇いがちに問われた言葉に、咲良は手を止めた。


「え?」






 ひどい。


 ぜ、ぜ、と耳障りな音に顔を顰め、彼女は横たわったまま己の上に覆いかぶさっているものを忌々しく睨む。

 そいつを退かす気力もない。


 元はと言えば、こいつが悪いのに。


 彼女の喉元を掴んだ後藤は、頭から嫌なものを垂れ流しながら、事切れている。

 朝方、ちょっと優しくしてやったら調子に乗って、駄目だと言ったのに無理やりキスをしてきた、女に飢えたおじさん。

 

 馬鹿じゃないの、と胸の内で吐き捨てる。

 彼女の様な若くて可愛い女の子が、本気でこんな男を相手にするはずがないのに。その点、同年代の男の子の方が使いやすかった。 

 特に達也は、彼女をお姫様みたいに扱った。

 恭しく接していた男の姿を思い出し、舌打ちをする。


 置いて行かれた。

 達也君は、私の事、見てたはずなのに。ルイスさんだって。

 

 彼女がゾンビになった後藤に伸し掛かられている姿を見て、達也は腰を抜かしそうなほど驚き、助けを求めて視線を彷徨わせた。

 そこにルイスが現れ、持っていた棒の様なもので後藤を殴り倒したのだ。

 だがその時には既に後藤に喉を鷲掴みにされており、ルイスが殴ったせいでその手にさらに力が入って、彼女の喉は潰された。

 

 苦しくて、でも助かった、とほっとした。

 どっと倒れこんできた後藤は重かったが、これでもう大丈夫、だと思ったのに。

 ルイスは彼女を一瞥すると、田原に何か囁いてさっさと立ち去ってしまったのだ。

 なんで、と動けないまま見つめる彼女を、達也は見つめ、苦しそうに眉を歪め、それから踵を返して立ち去った。

 

 嘘でしょう?達也君!戻ってきて!


 何度も叫んだが、後藤に喉を潰されたせいで、ひゅーひゅーとしか音が出ない。


 帰ってきて助けてくれたら、なんでもしてあげる。

 今まで許さなかったキスでも、セックスでも、なんでも。


 懸命にそう呼びかけようとしたのに、意味のある言葉は何一つ出てこなかった。

 そしてしばらくして廊下の向こうの方でバタバタする音がしたと思ったら、車のエンジン音がして、彼らは立ち去ってしまったのだ。


 ひどい。なんで、私を置いていくの?


 後藤を退かそうともがいても、彼女の力では重たい男の身体は持ち上がらない。

 

 ひどい。なんで?私が何をしたの?


 動けないまま恨み言を募らせ、どれくらい経っただろうか?

 掃除用具を入れるこの小さな小部屋に、ふらりと人影が現れたのを見て、彼女は喝采をあげ、すぐに蒼褪めた。


 違う。ゾンビだ。ゾンビが来た。


 なぜか今まで姿が見えなかった死者たちが、生者を求めてまた施設の中をうろつき出したのだ。

 こないで、という彼女の願いも空しく、一人の元介護士らしいゾンビが、小部屋に入ってくる。彼女に気づいたのだ。

 彼女の身体を隠す様に覆いかぶさって事切れている後藤のおかげで、噛みつく場所が見つからないのだろう。

 散らばった清掃用具の間をふらふらと彷徨う。

 それでもようやく彼女に近づける位置を見つけたのか、死者が屈みこんだ。


「おい、生き残りがいた」


 もう駄目だ、と目をつむった瞬間、男の声がして、彼女は目を見開いた。

 どっという重い音と共に、すぐ横にいた死者が吹っ飛ぶ。

 助かったのだ。

 やっと、助けてくれる人が来た。


 そう安堵した彼女の横に、声の主の男が屈みこむ。

 外国籍らしい彫りの深い顔立ちの男は彼女の目を見て、にっと笑った。

 そして口を開く。


「中原 咲良を知っているか?」




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