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おきあがり  作者: 鳶鷹
三章
102/136

31



 時折死者に遭遇しながら、それでも遠くでまだ音を響かせているトランシーバーのおかげで空いている道を、スムーズに走り抜けていく。

 迂回しながら進んだせいで、咲良は自分がどこにいるか分からなくなっていたが、気がついたら特養の建物の名前が見えていた。


「静かだな」


 桐野が言う様に、特養の周りは出た時と変わらない。二人ほどうろついている死者がいるものの、郷田と違い走ったりはしないタイプらしい。

 先頭の車から降りたルイスに、あっさりと倒されている。


「雨が降りそうだ」


 ぽつりと呟いた桐野の視線の先を追えば、雨を孕んでいるだろう灰色の雲が風に吹かれて動いていた。

 

「厄介だな。雨が降るとスリップしやすくなるし、見通しも悪くなる」


 浩史も車を駐車場の開いてるスペースにいれながら同意する。広い駐車場だから、それぞれが思い思いの所に車を止めていた。

 その中の一つが止まると同時に、ドアを開けて人が飛び出した。

 

「おいっ五十嵐!」

「いがちゃん!待って!」


 走っていく人影に呼びかけ、田原と遼が慌てて車から降りた。

 先に外に出ていたルイスも二人の声で振り返ったが、二人の死者を道路端に寄せていたルイスから走る五十嵐までは遠すぎて制止出来ない。

 田原は五十嵐を追うのを一瞬躊躇ったが、遼が行くより自分が行く方が早いと気づいたのだろう。車から離れて五十嵐を追う。

 田原のあと、遅れて走る遼を卓己とルイスが追い抜くが、先んじて五十嵐が目的地―特養の台所の搬入口へと辿り着いた。準備していたらしい鍵を差して、中に入っていってしまう。


「……大丈夫かな」


 ようやく止めた車から咲良たちも降りると、残った山下と典子が呆然と彼らの背中を見送っていた。

 

「ネイトもいるし、なんとかするだろ。俺たちはどうする?」


 桐野が問うた先は浩史だ。いきなり聞かれて浩史も戸惑ったのだろう。

 あー……と迷ったように声をあげ、何かに気づいたように特養の二階を見上げた。


「お父さん?」

「なんか動いて―!」


 からから、と弱弱しい音がして、窓が開く。

 半分ほど開いたあたりで、窓を開けた人が身を乗り出した。


「松井さん?」


 俯いて前傾姿勢になった顔を髪が覆っているが、体格からして松井だ。胸にカラフルな布の塊を抱いている。

 呼びかけというより呟かれた名前に、松井が顔を上げ、咲良は息を飲んだ。

 松井の顔には噛みつかれたと思しき大きな傷口があった。抉れた頬から顎へと、血が流れる。

 滴り落ちそうになった血を、彼女は緩慢な動作で拭った。

 はく、と口が開く。

 死者特有の噛みつく動作か、と警戒をしかけたが、松井がのろのろと邪魔な髪をかき上げる仕草をしたのに気付き、まだ大丈夫だ、と分かった。彼女は人だ。その証拠の様に、懇願するように典子に手を伸ばし、何事か訴えはじめた。

 だが風のせいと声が小さくて誰も聞き取れない。典子は自分?とおろおろしながら、松井のいる窓の下へとそろそろと足を進める。

 その足を止めるように、松井のいる窓とは違う窓が勢いよく開いた。


「典ちゃん!」

「わっ」


 孝志が焦った様に窓から身を乗り出し、下にいる典子を見、その視線を辿って松井のいる窓を見る。

 咲良たちの方は松井から孝志へと視線が移っていた。大きな窓の開閉音には、周囲を警戒している桐野の注意をもひくだけの音量がある。

 だからその瞬間、松井の方を見ていたのは孝志だけだった。


 咲良たちに横顔を見せていた孝志が愕然としたように大きく目を見開き、口を開く。


「まっ……!」


 確かに聞こえかけた悲鳴に、ドンッ!と重たいものが打ち付けられる音がして、空気が震えた。

 ついで響きわたったのは「ふやあああああ!」という赤ん坊の、くぐもった泣く声。

 

「っ松井さん!」


 振り返ると、駐車場に松井が倒れていた。

 窓から前のめりに身体を出していたはずなのに、空中で身体を捻ったのか、仰向けになっている。じわり、と身体の下に赤く広がっていくものは、血だ。

 咲良たちは弾かれた様に彼女の名を呼びながら、駆け寄った。


「松井さん、」


 大丈夫ですか、とは聞けなかった。

 どう見ても軽傷ではない。顔には死者に襲われたと思しき傷がいくつもあり、身体の下からはどんどん血が流れていっている。

 素人目にも彼女が助からないのは分かった。

 顔を強張らせて言葉を飲み込んだ咲良たちに、自分の容態は察せられたはずだ。

 なのに、松井は微笑んだ。

 いっそ場違いと言って良いほどの柔らかな微笑みに、言葉を失う。


「このこ、」


 松井が大事に抱え込んでいるものを持ち上げる。

 隠す様に被されていたカラフルな布が少しずれ、泣いている彼女の子供が見えた。

 もうそんなに小さくはない赤ん坊を、ぶるぶると震える腕で持ち上げ、自分から遠ざけるように掲げる。

 今にも落ちそうで咲良も典子もオロオロと両手を浮かせた。咲良はこんな小さな子供に触った事も無いから手は泳いだままだったが、職業体験で小さな赤ん坊を抱っこした事のある典子はその不安定な状態が堪らなかったのだろう。

 松井の腕が大きくぶれた瞬間、さっとカラフルな布が風に浚われて飛び、同時に典子が抱っこ紐の間に手を入れ、わあわあ泣き続けている赤ん坊を抱きとった。


「典ちゃん?!」


 ぎょっとしたように上から孝志の声が降ってきたが、典子は振り返らなかった。

 我が子を手渡した松井の、ほっとした顔から目が離せなかったのだろう。

 痛々しい傷だらけの顔なのに、痛みなど感じていないかのように、彼女は微笑んだ。細めた目から、ぽろりと涙が零れる。


「このこ、感染は、してない」

「はい」

「ちゃんと、守った、から、だから、」


 お願い、と囁くような声で訴える。


「このこを、連れてって」

「松井さん……」

「私は、もう、無理、だから、お願い。この子を、」

 

 お願い。繰り返し懇願する言葉に、咲良は泣きそうになる。

 典子の抱える抱っこ紐には、どこにも血がついていなかった。大きな泣き声には力があるし、母親を探す様に突き出された小さな手にも、丸い頬にも、怪我は一つも見えない。

 松井自身はこれだけの怪我を負っても、子供だけは無傷で守り切ったのだ。


「おねがい」


 ぶんぶん、と頷く典子に、ほっとした顔になり、掲げていた両手が下りる。

 そのままアスファルトに打ち付けるように両手が落ちた。 


「松井さん……?ま、」


 開かれたままの目から、光が失われる。

 動かなくなった肩に咲良が手を伸ばそうとすると、ぐいっと手首に巻いたままだったリードが引かれ、遠ざけられた。

 小町が咲良の腕を引いたのだ。うぅ、と小町が唸る。睨む先は松井だった。

 

「典子ちゃん、咲良、こっちに」


 浩史の呼びかけに、典子は涙を堪える様にくしゃっと顔を歪めて立ち上がる。

 典子の腕の中の赤ん坊は、母の死を感じ取ったのか、泣きながらバタバタと暴れ出した。典子が落とさないようにぎゅっと抱え直す。

 小刻みに震える典子の肩を、咲良と浩史が抱き、松井から遠ざけた。

 赤ん坊の泣き声に、典子の「ごめんね、ごめんねぇ」という言葉だけが聞こえる中、桐野が松井へと向かって歩き出すのとすれ違う。

 手にはルイスが持っていたのとよく似た、金属製のパイプの様なものが握られていた。

 桐野が松井の前に立つ。

 振り下ろされるパイプは、浩史に抱き込まれて遮られ、見えなかった。



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