織元唯希:巡り会い
人は、もう出られない部屋にいる時はどういう行動を取るのか。
例えば絶望に浸り、その扉を無理矢理こじ開けようとする。
例えば焦燥に駆られ、一心不乱となって扉を叩く。
例えば諦観して、ただじっと縮こまって時を待つ。
例えば楽観的に、外からの助けを待つ。
人間とは様々な行動を呼び起こす。それは誰しもが同じというわけでもない。それぞれの人間が、それぞれの行動をとるからこそ、人間の本質というものは面白く映るのだ。
そう、例えばこんな行動。
情けで手を差し伸べてみれば、その人間はそれを拒絶して激昂する。同情するなと、そんな気持ちなど捨ててしまえと。折角の機会を、自分で棒に振るのだ。
この行動が、我々にとってはとても面白いことであった。自分が幸せになる選択肢を、態々拒絶してまで離れるなど、可笑しくて涙が出そうである。
人間とは、時に摩訶不思議な行動をとる。
それは我々の興味を惹くには充分な事で、人間だけの"技量"であると、我々は考えている。
「我々の観点」
イグニス・ゲーボルス
「何か勘違いをしているようね、腐った魂の少年」
彼女は真剣な表情から一変、あからさまに不機嫌な顔になって少年に言い放つ。その言葉に、少年は「は?」と愕然して彼女を見た。
彼女は溜め息を吐いて、続ける。
「まず第一に、どうして私と人間を同等のものと扱うのかしら。全く持って侵害よ。私は神で、貴方が憎んでいる人達は人間。然う、全くの別物なのに、何故同じ扱いとして見られなければいけないの?」
「ッ同情とか偽善とか、そんなの神も人間も関係ねぇじゃんかよ!」
「いいえ、関係あるわ。人間がもつ同情と偽善を、私達神がもつ同情と偽善と同じにしないでちょうだい。全く以て別物よ。さぁ、それを踏まえて言うのだけれど……、確かに私は貴方を助けたい。だけどそれは自分の為でもある。謂わば私のエゴなのよ」
捲し立てた彼女は、ほぼ少年を見下すように言い放つ。
ヒュッ、と少年の息を呑む音が響いた。驚愕して目を見開いている少年の視線は、彼女の視線と交差する。
「こんな犯してはならない失態を、私自身が許さない。だから私は貴方の手助けをする。罪から逃げたいとか幾らでも言えばいいわ。罵倒を浴びせてくれても構わない。神は卑屈で卑怯で醜いものだからね。でもーーーーせめて、貴方と私の為に、手を組まない?」
「……手を、組む……?」
聞き返すと、「そう」と彼女は肯定した。
「手を取り合って仲良し小好しでお互いを助け合うんじゃない。お互いに利用して蹴落とし合って助け合うの。どうせ貴方が見てきた人間達は、これから仲良くしようねとか、何かあったら直ぐに言うんだよとか、そんな信憑性のない言葉を吐いたんでしょう?」
「ッ……」
図星だった。彼女の言葉は的を射ていた。
少年の周りに群がっていた人間達は、挙って少年を助けようと必死になった。どうせ出来る筈もないのに自分を頼れと言い寄ったり、そんな勇気はないくせに真っ先に守ってやると自信を持って言ったりと様々だ。そして、その人間達全員が彼を見捨て、楽な道へ身を投じている。
今思えばこれも不幸の軸に嵌った影響だと思うが、ズタボロになっていた少年を半壊にするには充分であった。心が折れ、人も怖くなり、いつしか彼は人から距離を取っていた。もうそんな彼の身を案じるものなど、世界で妹しかいなかった。
少年は歯を食いしばる。あの時の汚い記憶が蘇り、顔が歪む。瞋恚に感情が昂っていると、「だから」と彼女がさらに続けた。
「私を使いなさい、腐った魂の少年。神を利用して、幸福をもぎ取りなさい。もう幸福は貴方の手から零れ落ちている。なら、またそれを掻き集めるだけ。だからその為にも、どんな犠牲を払ってでも私を上手く使いなさい。私自身の償いにもなるし、一石二鳥よ。こんなお誘い滅多にないわ。さぁ、どうするの?」
彼女の誘いに、少年は俯く。
確かに絶好の機会である。あの神をあの手この手で利用出来るなど、この世界で自分にだけしか出来ないのではないのだろうか?それ程までに神という価値は尊いものだ。
だが少年は、まだ彼女を信じきれていなかった。自分の人生を狂わせたというのもあるが、それ以前に、彼は人が信じられなくなっていた。彼に手を差し伸べ切り捨てた人々が頭を過ぎり、少年の心を徹底的に壊しにかかる。
悪夢までみた。少年を裏切った人々達が、少年を求めるように暗黒に引き込む夢を。絶叫が迸り、少年が手を伸ばしても誰も掴まなかった悪夢を。
故に少年は考える。若しかしたら、彼女もその一人なのではと。表面上はこんな事を言いながらも、内心は今の自分を見て面白がっているのではないのかと。
捻くれているのは百も承知だ。だが、そう思っていかなければ精神が保てない。
「……手を組んだとして、具体的にお前はどう償うんだ?」
「貴方が壊れないようにサポートする」
「それは分かってる。だから俺が壊れないように一体何を施してくれるんだって聞いているんだ。今考えている事は何だ?お前はまず、何をして償おうと考えている?」
その問いに彼女は首を傾げ、ポツリと答えた。
「そうねぇ……まずは要因の一つとなっている学校から貴方を離す事かしら」
「……それって、つまり……?」
「転校ね。寮生活が出来る学校がいいわね。家族の事が一番の要因となっているのだからまず家族を排除。その次に学校で……いえ、それよりもこの街から出た方がいいのかしら。トウキョウなら寮制度が多そうだし、まずはトウキョウに移住するのがいいかも。いや、ちょっと待って。確か貴方が受験した場所はトウキョウ……いやでもこのままにしておくのも忍びないし、うん、まずは移住と転校の手続きを……」
「解った、スケールがデカイのは解った。だからもう口を開かないでくれ、頭が追いつかん」
普通は簡単に出来ない事をあっさりと口にした彼女の言葉を遮る。彼女は特に気にもしないで首を傾げた。その姿がさらに少年を困惑させた。
金持ちが普通にダイヤモンドを買うのを目の前で見せつけられているようでいたたまれない。今の少年は、金持ちがダイヤモンド、いや城を普通に買って度肝を抜かれている貧乏人のようだ。いや、実際はそうなってしまっているのだろう。神というこの下界の価値がわからない神と対面しているのだから。
少年は唸りながらも質問を再開した。
「……で、他には?」
「貴方の使い魔となって服従するわ」
「……使い魔、ねぇ」
『使い魔』。本名『服従生物』。契りを交わした魔導士に付き従う生物の総称である。魔力、能力などが低い下級生物を初め、数多くの契約可能の生物がこの世界には存在する。それは悪魔、天使、獣問わず、神も例外なくそれに分類される。
上級生物に魅入られる可能性も十分にあり、一時期は服従生物を従える魔導士『調教師』は、最強の魔導士ではないのかと騒がれた。だが時代が進むにつれ、調教師は廃れ、契約可能の生物は瞬く間に姿を消し、今では調教師は「自分1人じゃ何も出来ない臆病者の魔導士」と罵られる程となってしまった。
最早太古の没落魔導士と言っても過言ではない。そんな魔導士になれるチャンスを、今少年は握っているのだ。
少年は腰に手を当てて聞く。
「服従って言ってもな……お前は俺を守ってくれるのか?」
「もし契約をした暁には、召喚以外の場ではあまり力にはなれないけれど、召喚された場合はそれ相応の力を持って貴方を手助けするわ」
「……具体的にどんな?」
「さぁ、どんなのでしょう?」
クスリと笑う彼女に少年の苛立ちが募る。
こめかみをピクピクと動かしながら、さらに質問した。
「……あれか?やられたらやり返すみたいな事をするのか?俺の不幸成分がそいつらに移っていくのか?」
「うーん。根本的な所は間違っていないのだけれど、惜しい」
「…………じゃあ何だよ」
「要は護衛よ。貴方に害を成すものは全て排除する為の、少々過激な護衛」
口元に手を当てて、彼女はそう答えた。妖艶なる響きが彼の耳に浸透する。とても心地の良い声に少しだけ溺れながら、少年は少しだけ考えた。
「……で、どうするの?契約するの?しないの?」
「…………………………」
「貴方が契約しないと言うのなら、素直に引くわ。私は何もしない。何も出来ない。何もすることが出来ない。貴方の苦痛な人生を唯見守るだけ。それが嫌だから私はここにいるの」
「…………………………」
彼女はふぅ、と残念そうに息を吐く。
「嫌なら嫌って、ハッキリ言えばいいのよ。正直私も強引過ぎたし……もし自分で解決するというのなら、素直に引くわ。壊れかけの精神で解決する事になるのだけれど」
「………………………………………………」
「ボロボロに朽ち果てて濁っていって、人間にもズタズタにされて、手も傷だらけになっている貴方に何が出来るの?」
「………………」
「自分の『趣味』すら投げ出して、ただ生き延びるために何もしない事の何処が面白いの?ただ認められたいだけでがむしゃらに足掻いて、何が良いの?」
「…………………………」
少年は俯いたまま、何も語らない。ジッと彼女の言葉に聞き入っている。
彼女はまたふぅ、と息を吐き、大袈裟に振舞った。
「あーもう仕方が無いわねぇ!良いわよ!迷惑ならそれで!そんなに悩むとは全くの予想外!物語の主人公なら、今頃は私と契約して復讐しているのかしらねぇ。あら、それは主人公ではないわね。でも全く同じ事をーーーー」
「待てよ」
体をくねくねと動かしてまっこと不機嫌に言う彼女の言葉を、途絶えさせる。
少年の一声にピタリ、と動きを止めた彼女は、目を細めて少年を見据えた。金眼が彼の心まで見透かすかのように、とても透き通っており、あっさりと少年の姿を写し出した。
揺れ動く少年の瞳に迷いが生じる。彼女と契約する気がないというのは明白であるが、完全に契約する気はないらしい。
少年はグッと息を詰まらせる。喉に何かがつっかかっているかのようにはくはくと口を動かし続ける。
彼女がジッと、見定めるように待っていると、少年はキッと睨みあげるかのように彼女を見て、やっとの事で言葉を紡いだ。
息が詰まりそうであった。得体の知れない空気に当てられたせいか、心臓がバクバクと音を奏で続けている。ひっきりなしに止まる事の無い心臓の音。それが自分の冷静さを欠かせていた。
ジワリ、と汗が湧き出てくる。ねっとりと粘りつくように滴る汗に若干の寒気を覚える。握り締めている手からも手汗が噴き出す。肩が震える。焦点が合わなくなる。
どうして自分がこんな状態になったのか。彼女のせいか、環境のせいか、心のせいか、いやその全てに原因があるのかもしれない。
ハッキリ言って、理解が出来ない。散々彼女が何故自分と契約したがるのか語ったというのに、未だに何処か頭の隅で理解出来ていない自分がいる。
そもそも何故自分なのだろう。何故神は自分を見放したのだろう。何故神は自分を陥れたのだろう。目の前にその神がいるというのに、まるで全神にその怨念をぶつけているかのように、少年はグルグルと言葉を吐き捨てる。
自分は、普通の生活を送りたかっただけなのに。
ただその一心で、頑張ってきたのに。
結局は努力の無駄であった。両親に認められたいがために兄と同じ中学校に入学したが何も変わらず、だんだんと『趣味』から身を退かなくてはならない状況になり、妹と距離を置く事になり、兄はそんな自分の事を知らずに今も有意義な仕事場で切磋琢磨している事だろう。
そんな人に、彼はなりたかった。
だがもう、それは有り得ないーーー。
だが、彼女の契約を受け入れたら何か変わるのではないか?と不覚にもそう思ってしまった。
あまりにも怪しい彼女を、少しだけ、一滴だけ信じてしまったのだ。直ぐ様頭を振って考えを改めたが、彼女の話を聞き続けるうちにどんどんそちらに傾いていく。
彼女を受け入れれば、自分は普通の生活に、ちゃんとした人間らしい生活を送ることが出来る?
そうすれば、両親も皆、自分を認めてくれる?そう希望を持った。
だがもしこれが罠だとしたら。これが彼女の陰謀だったとしたら、と彼の出来上がった傷心が彼の歩みを邪魔する。
やがて彼女が雑に言葉を連なせた事に、少年は酷く焦った。
拙い、このままでは彼女は本当に去ってしまう。折角のチャンスを逃してしまう。
焦りが募り、募り、募っていく。どうすればいい、どうすれば彼女を留めさせることが出来る。彼女が信用に足る人物だと確信するものは?と少しだけ考えを巡らせた結果、彼はある事を思いついた。
「待てよ」
彼女の言葉を遮る。声が震えていない事が、せめてもの救いであった。
こちらを幾つもの針山で突き刺すような目で見ている彼女を、見つめ返す。
「…………」
声が出ない。出そうと命令を下していても、それが体に、喉に伝わっていない。
言え、言うんだ。たとえ笑われたとしても、言うんだ。
自分の卑怯で、卑屈なやり方を。誰もが呆れるような、それこそ娯楽に飢えているものが匙を投げ出すかのような事を。
ゴクリ、と喉を鳴らし、少年は意を決して彼女に言い放った。
「…………もう少しだけ、考えさせてくれることは、可能か?」
「………………」
彼の願いに、彼女は少しだけ目を見開く。
そう、これが彼の考えていたこと。
今ここで決められないのなら、引き伸ばしてしまえばいい。そうすれば彼女がどんな奴なのかを見定める事は可能である。
問題は、彼女がこれを呑んでくれるかどうか。もし彼女が短気な性格なのであれば、今ここで決めてしまえと言いそうだ。だが彼女が善意を持っているのであればーーいや、自分の意見を尊重してくれるのならば、この提案を受けるはずである。
彼女は顔色を変えずにジッと自分を見つめている。その空白の時があまりにも居心地が悪く、少しだけ目を逸らした。
「……………………ふぅん」
やがて彼女はそう納得したような声を出して、少年に答える。
「そうね……それで貴方が決められるというのならそれでいいわ。まぁ……私が生き急いでいたわね。貴方の意見を尊重すると言っておきながら、自論ばかりを貴方に言ってしまったわ。ごめんなさい。ゆっくり決めていいから、ね?」
「!そ、それじゃあーーー!」
「但し二日の間。これが最低限度。それでもいいのならその提案を呑んであげる」
「いや充分だ、ありがとう」
二日なら、納得のいく答えを出す事が出来る。少年は嬉々としてその条件を呑み、交渉が成立した。
この二日間。彼女が自分の力となるのか、信用出来るのか、見定めなければならない。
少年は荒れが酷い手を擦りながら、静かに微笑んだ。
「……ところで腐った魂の少年。もし貴方が私と契約するとして、契約の詠唱は頭に入っているのかしら?」
腕を組み聞いてきた彼女に、少年はフルフルと首を横に振った。
「全然。召喚魔法なんて無縁の存在だと思っていたし、カス程入ってねぇよ。それよりお前」
「何かしら?」
「そろそろその……腐った魂の少年って呼ぶの止めろよ。俺にもちゃんとした名前があるんだからな」
不機嫌そうに指摘してきた少年とは裏腹に、彼女はまるで作戦が成功したかのような悪餓鬼の表情を見せた。
「ふふっ、それはごめんなさいね。では何と呼べばいいのかしら?」
「ーーー唯希。織元唯希だ。呼び方は好きな風に呼べ」
少年はーーー織元唯希は、濁った瞳を彼女に向けて、名を告げた。