屋上にはお姫様がいるらしい
冬至を迎えて早一ヶ月と少しのある日、僕が自販機で買った大好きな缶コーラを持って学校の屋上へ登ったのは、偶然とは言え必然とも言えるだろう。
「どちら様?」
屋上のドアを開けた瞬間、僕は夕陽に沈む彼女の声を聞いた。
「一年四組の志野です」
とりあえず名乗っておく。こういった自己紹介は大切だ。今みたいに、相手が屋上のフェンスの向こう側に立っていたりする場合は特に。
「ふーん、シノくんっていうんだ。私は三年のタカナシ」
「生徒会長さん」
「お、一年なのに良く知ってるね」
背に夕陽、顔に微笑で飄々と話すタカナシ先輩。
軽い感じで話してはいるが、こちらは気が気ではない。なにせ今自分は、もしかすると、人生において早々あることではない身投げの目撃者になるかもしれないのだ。冗談じゃない。
「ところでタカナシ先輩はどうしてこんなところに?」
おそらく今僕は冷や汗を顔に浮かべているだろう。というか既に、背中から嫌な汗が吹き出している。
「王子様を待っているの」
そう言ってタカナシ先輩はゆっくりと夕陽へと向き直った。
「なんだか、疲れちゃって。勉強して、友達の話を聞いて、先生のご機嫌取って。あぁ、つまんないなぁ」
黙ってタカナシ先輩の話を聞く。恐らく一手、ただ一手すらも間違える事の出来ない状況に、僕はいきなり巻き込まれたらしい。
タカナシ先輩の背中からは、風が吹けば消し飛んでしまいそうな程の存在感すらなかったのだ。
なるほど、確かにお姫様だ。それも、ラプンツェルもかくやという程薄幸な。
「それはまた、何というかその、ロマンチックな話ですね。誰か釣れたんですか?」
「釣れてたらこんな事終わらせてとっとと二人で帰ってるって。あなたが最初の王子様候補」
「ははぁ、責任重大だ」
「真面目にやってよ。状況、分かってるでしょう?」
怒られた。もしかするとこれはもう既に取り返しがつかない状況なのかもしれない。
「芝居掛かった言い回しは得意じゃないんです。さしあたって、どうすれば僕が一生モノのトラウマを抱えずにすむか教えてください」
「私の王子様になって」
いや無理だろう。少なくとも僕は王子様って柄じゃあない。そもそも自分でそう思える奴はとんでもないナルシストか、裏路地で転がってるトリップ中のジャンキーかのどちらかだ。
「なかなか難しそうな条件ですね。ちなみに今のところ僕の王子様度は幾らくらいですか?」
「百点満点中四十点くらい」
えらく高い。欠点回避じゃないか。望みはまだあるらしい。
「ちなみに、来てくれた時点では六十点あったよ」
来ただけで六十点かよ。ていうか減点されてんじゃねえかおい。俺の採点は減点法なのか?
「望み薄なことは分かりました。それじゃあ僕は、王子様を導く小人役にでもなりましょう」
「ダメだよ」
きっぱりと、タカナシ先輩はそう告げた。
「だって、ほら。もう陽が沈んじゃう」
どうやらタカナシ先輩は、陽が沈むと同時に飛び降りるつもりらしい。
現在の時刻が十七時三分。今時分の日の入り時間が正確にはどれくらいなのかは知らないが、多分そう猶予はない。おそらくあと数分で夕陽は稜線へと消えるだろう。まさか学校の西側に山があることにこんなデメリットがあろうとは、昨日までの僕には想像も付かなかった。
「つまり、僕が王子様じゃない場合」
「うん」
どうやら今僕は、見方によれば、タカナシ先輩の生殺与奪権を持っているらしい。言い方一つでなんだかちょっとインモラルな雰囲気になった。確かに自殺はインモラルと言えるだろう。
「いやでもタカナシ先輩、勿体無いですよ。そんなに若くて、美人で、頭も良くて、人望もあるのに。僕だったら…………ちょっと想像出来ないですけど、絶対そんなことしないと思います」
「あなたがどう思うかは私には分からないし、どうでもいい事なの。私の痛みは私にしか分からないわ」
クソ、変に哲学ぶりやがって。こういうこと言う奴にロクな奴は居ないって、毎朝タンクトップでランニングしてる近所のじいさんが言ってたぞ。
「いやそりゃあ、そう言われると僕も何とも言えないんですけどね? やっぱり歩み寄りって大切だと思いません?」
「全然?」
死んでしまえ。いやほっといたら死ぬのか。どうすりゃいいんだ。
自殺志願者を止めるのがこんなに大変な事だなんて思ってもみなかった。警察官の人もノイローゼになる訳だ。
「それじゃあ先輩は、僕にどうしろって言うんですか」
「だから、私の王子様になってって、何回も言ってるじゃない」
「なら、どうすれば先輩の王子様になれますか?」
僕がそう言うと、タカナシ先輩はしばらく考え込んで、フェンスの向こうで僕の事を眺めはじめた。
「うぅん、何て言ったら良いんだろう……波長が合う?」
「超あってます。波長どころか、振動数も振幅だって一致してます。定常波出来てます」
「そういう冗談キライじゃないけど、TPOを弁えてない男の人って、ちょっと、ないかな」
何がTPOだくそったれ。横文字使えば煙に巻けると思いやがって。さてはタカナシ先輩は、僕の事をバカにしているのか?
そこまで思い至って、僕はようやく気が付いた。
もしかしてこのやたらと美人な先輩は、いたいけな後輩をからかって遊んでいるのではないだろうか。
そもそもがおかしな話なのだ。
これだけ良い性格をしている人間が自殺する程精神的に追い詰められている? 中々笑えるジョークだ。
大体、自殺する寸前の人間がこんな馬鹿げた会話をするとは思えない。もっと切羽詰まった感じになるはずだ。
考えれば考えるほど頭の中に疑問符が浮かび上がる。
そうだ。儚げな背中に騙されはしたが、これはきっとタカナシ先輩のちょっとした悪戯心というやつだろう。
きっと、受験疲れか何かでストレス解消を望んでいるだけに違いない。同情はするが、かと言って僕が巻き込まれる道理はないはずだ。
稜線にその身の殆どを隠した夕陽を眺めながら、すっかり忘れていた右手のコーラを一気に呷る。やっぱりコーラはいつ飲んでも美味しかった。
「残念ながら、タカナシ先輩。僕ではタカナシ先輩の王子様にはなれません。他を当たってください」
いい加減疲れた。僕がそう言うと、タカナシ先輩は暫くの沈黙の後、「そっか」とだけ、呟いた。
少し引っかかるものの、これで役割は果たせただろう。これでタカナシ先輩も心置きなく受験勉強に専念出来るはずだ。
「それじゃ、タカナシ先輩。僕はこれで」
「仲良くなれると思ったんだけどなぁ」
その手には乗らないぞ。僕は鉄の心で以ってタカナシ先輩に背を向ける。
背後からは物音ひとつ、しなかった。
ドアを開ける。落ちてた空き缶を蹴り飛ばす。一歩を踏み出す。
「あ、沈んだ」
それっきりタカナシ先輩の声は聞こえず、数秒後にどさりという音が僕の耳に届いた時にはもう、屋上には誰も居なくなっていた。
振り返る。ゆっくりとフェンスへと近付く。
「なるほど、今まで僕は幻覚と話していた訳だ。いやぁ参った。こりゃ傑作。病院行かなきゃな」
そんな訳あるか。
僕は身体中から滝のように冷や汗が出ているのを感じながら、ゆっくりとフェンスから身体を乗り出した。
「なるほど」
見ると、校舎の隣にミートスパゲティじみた何かが転がっていた。
身体中から酸っぱい何かがこみ上げてくる。
僕は嘔吐するのを寸前で堪え、気を紛らわすために稜線の向こうにいるであろう太陽へと呪詛を吐く。お前がもう少しゆっくり沈んでいればこんなことにはならなかっただろう、と。
残光を睨み付けながら、現実逃避を終わらせようとすると、何故か稜線がやにわに赤く輝き始めた。西方が赤く燃えている。なんだ、あれ。
こんな事を気にしている場合ではないはずなのに、僕はどうしてかその輝きから目が離せなかった。
気付けば夕陽がそこにあった。
何かを見た気がする。
意識が暗転した。