私が旅に出た理由(りゆう)
この小説と言えるかどうかも分からないモノを、読もうと思っていただきありがとうございます。
これは、私が実体験した旅の記録であり、どう思ったか、どんな事にであったか、どう行動したかをまとめたモノです。
思った事を書いているモノです、私の旅行記なので、面白味も何も無いかもしれません。
行き当たりバッタリな旅をしよう!
私が、旅をするのは、何故だろう?
別段、外国語が出来る訳でも、何かが見たい訳でもない。
何がしたいかも分からない。
何かを変えてみたい訳でもない。
ただ、このままだと、おかしくなりそうだった。
何かが、壊れてしまうかも知れなかった。
そうする事が正しい訳でもなく、間違っている訳でもなく、計算で出せるモノですらないのかもしれない。
ただ、違う世界を見てみたいだけなのかもしれない。
そう思い、私は、旅に出た。
家族からは、反対されもしたし、賛成してもくれた。
語学が不安な所も有って、反対されていたし、安全かどうかも分からなかった。
身体は丈夫な方ではないが、別段、持病がある訳でもなく、怪我をしやすい事と、怪我をした時に普通より酷くなる事が多い事が不安を煽った様だった。
その事については、自分自身、良く判っており、不安もあった。
海外旅行の経験は、学校の旅行でタイ・シンガポールへ行っただけだった。
その時は、団体だったが、自由行動の時は、一人で気侭に行動していた。
市場に行き、どんな食材が有るのかとか、面白そうな所へ顔を突っ込んだり。
周りは、やれブランド物だ、何だと何かずれていた。
実際は、自分の方がずれているのだが、そう言う事は人それぞれ。
中には、別の所に泊まって、「金が足らないから、助けて!」と言う電話が掛かって来た所もあった。
そう言うのを見ていて、何をしに来たんだ?と思う事もあった。
個人的に、辛いモノは食べられない、タイは辛い国だとは聞いていたが、何かしら食べられる物は有るだろうと考えていた、それが甘い考えだとは知らず。
殆ど、辛すぎて食べられなかった、ひたすらご飯で薄くし、すこぉしずつ食べた。
後は、果物を沢山買い込んで、食べてた。
色々と、見聞きしたり、お互いに言葉は分からなくても、やり取りが出来ていたり。
そんな旅行をしていた。
そんな旅から、就職して、それなりに時間が経った時、どうしても我慢が出来なくなった。
原因は、会社にもあったが、自分にも変えてみたい自分が有った。
その時は、とある病院の地下で仕事をしていた。
延々と皿洗い、薄給、高温多湿、二時間半だけ働け!とか、拘束時間だけは長い職場、いい加減、嫌気がさしていた。
それでも、異動する事で何とかなると思っていた。
その日で最後の筈だった。
一緒に働いていた中国の人が来ていなかった、何か有って遅れるのかと想い、冗談混じりで、密入国で捕まったんじゃないかと言っていた。
まさか、本当に、密入国で捕まっていたなんて。
それで、異動もナシになった。
チョット荒れた、暴れてもどうにもならないから、暴れる事はしなかった、ただ、仕事が嫌になった。
でも、人がいないし、大変な事は分かっていたから、仕事はした。
それを見ていた、当時の上司は、このままではいけないと、会社を辞めて、他の会社に移った方が良いと言ってくれた。
私がいた会社は、業界最大手では有ったが、何だかおかしな所が有った。
関係無い様な所や、赤字必須の事業所を取ってきたり、必要な人数を削っていたり、赤字を減らす為に、品質は良いが割高な食材を使えとか、余計に赤字になるだけだった。
元々は、食材で儲けるつもりらしかったが、関東東京は人件費が高く、対応も何が何だか、働いていても何なんだ?と思う所が有った。
旅から帰っても、条件を良くする事を条件に、復職したが、今だ解らなかった。
ある上司は、連絡しても、ナシの礫、いくら連絡を入れても返事すら返って来ない、最低限の連絡すら無視された。
忙しいのは分かるが、来ると約束した時ですら、連絡なしで無視された。
その為、とても気まずい空気の中、取り残された事が多々あった。
そんな経験があるが、ここでは関係無い。
とにかく、自分と言う存在を知らない世界、全くの未知の世界に行きたかった。
それには、言葉も日本の常識も通じない、何処かへ行きたかった。
そこで死んでも構わない、野垂れ死に上等、という気持ちだった。
兎にも角にも、身体を万全にして、折り畳み自転車を手に入れ、何処に行くか決め、即座にチケットを手に入れた。
決めて一週間後には、日本を離れる事になり、荷物の少なさに家族が心配し、色々と持たせてくれた、役に立つ物から、余計かもしれない物まで。
まずは中東、トルコ・イスタンブールから、ヨーロッパのスペイン・マドリッドまで。
気侭に旅をする事にした。
父は造船関係の仕事上、海外は色々と行っている、本人曰く海側限定でと言っていた。
姉は、客船のカメラマンで世界一周に便乗。
私は、バックパッカー?と言えるかは解らないが、世界一周したいという夢が有る。
ただ、言葉の壁は意外と分厚いが、穴を見つけてそこから何とかしたい。
一人になり、飛行機の中で思ったのは、恐怖。
死んだらどうしよう、まだまだしたい事、読みたい本、知りたい事が、頭を横ぎった。
死ねない、死んでも良いと思っていたけど、まだまだ死にたくない、気持ちが未練で一杯になった。
この先の、希望や欲求が全然湧かなくなった、不安になった、行った先で死ぬかもしれない、強盗に遭うかもしれない、そこに幸せが有るとも思えなくなって来た。
行く時は、希望や未知の世界に憧れてもいたが、いざ出発した時、それらは、反転していた。
持っていた希望や、憧れの分だけ、恐怖した。
そうなった時、思った事は、必要なのは未練だという事だった。
先に進む為の未練があれば、まだまだ死んでいられない、唯それだけだった。
この旅が終わったら、また、何時か旅に出よう、そう、心に決めた。
そうしたら、フッと体の震えが消えて、心も軽くなった。
生きていれば、また旅が出来る、それが力になった。
旅に出るに当たって、用意する物は人それぞれ、携帯を海外でも使えるようにする、最新のガイドブック等々色々あったが、私は、携帯はフケイタイ、ガイドブックはヨーロッパの物と、古本屋でトルコのガイドブックを手に入れた。
バックパックは、最初、デイバックで良いと思ったが、登山用のを持たされた。
折り畳みは、タイヤの小さな物を探し、9インチの物を見つけ、タイヤにシリコンを詰め、チューブレスにして貰った、約13kg。
後は、約3kgのノートパソコン。
その荷物を見た姉は、「こんなので行くの!?」と、怒りながら、色々と持たせてくれた。
ソーイングセット、包帯、絆創膏、医療用紙テープ、圧縮袋など。
祖母は、お守り、胃薬など。
父は、正露丸や、迷った時にどうしたらいいかなどの心得。
母は、着替えやパジャマ、そんなに要らないと言ったが、持たされた。
最後に、祖父には何も貰えないが、形見の物を色々と物色し、役に立ちそうな物を持って行くことにした。
私を知っている人が読めば分かってしまうモノですが、該当する人がいない事を祈っています。
もし分かっても、黙っていて頂けるとありがたいです。
思い出しながら書いています、一応、記録は付けていましたから。