七夕 後編
伊那様主催の和風小説企画の参加作品として書きました。
一部、表現や表記に不備があり、企画後は非公開としていましたが、手直しして再公開いたします。
ご注意頂きたいことは以下の四点です。
登場人物は歴史上の実在人物であり、歴史上の出来事を背景としていますが、この物語はフィクションです。
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天平勝宝六年(754年)、秋のはじめ
互いの胸の内が知れただけでも大した進展だと、山部は自身に強いて言い聞かせ、騒ぎの鎮まった頃を見計らって、明信を連れて社へと戻った。
二人は尤もらしい顔で俊哲を諌め、その夜はそれで、山部は壱志濃王を捜そうともせず大枝へ、明信は顔を腫らした俊哲を連れて交野の邸へと、各々戻った。
内心は名残惜しさに身を切られるような思いだったが、これからの事を考えあわせれば、軽率には振る舞えない。
その夜の床の中で、山部は新たな悩みを抱え込んだ己に苦笑した。
壱志濃王や俊哲のように勢いに任せて、心のままに振る舞えたらどれ程楽だろう。
だが、これが己が性状なのだろう。
山部は以前より足繁く理伯の邸を訪れた。
書庫には以前と同じように明信の姿があり、二人は薄暗い書庫で密やかに逢瀬を重ねた。
明信は情緒豊かに漢詩を読み解いてみせ、山部はその読解力に感嘆した。
山部が漢籍は史記を踏まえて読むと聞いて、明信は嬉しそうに「私もです。そうすればより理解が進んで味わい深いのに。皆、そんなことは煩わしいのだそうです。王は違うのですね」と言った。
秋が過ぎ、冬が訪れた。
摂津亮となって留守がちな理伯と言えども、そろそろ二人が親しんでいるらしい事に気づいているだろう。
たまさかに山部の姿を見ても、これといって何も言われない事が、却って山部には心痛んだ。
理伯が今の山部自身に明信の婿として価値を見いだしているのなら、理伯から水を向けてくるだろう。
それが無いということは、即ち、今の山部を婿として進んで迎える気は無いということだ。
それでも黙認してくれているのは、某か理由あってのことだと思われた。
山部が身を立てる時をくれているとも考えられる。
ならば自身で道を切り開かねば。
種継の言を思えば、宮には紫微中台(光明皇太后宮)と紫微令(藤原仲麻呂)の専横を苦々しく思う勢力がある筈だ。
太上帝に深く親しんできた敬福を家長とする百済王氏としては無論、理伯も紫微令を快く思ってはいまい。
その理伯が自身を無下に扱わない理由は、山部には一つしか考えられなかった。
父、白壁王が太上帝の一嬢、井上内親王と婚姻しているからだ。
今上の思うところは、山部には計り知れなかったが、何れにしても母である大后の所縁で紫微令を咎めること叶うまい。
阿倍内親王が大君の位に着いた後、皇太子が定められない一因は、紫微中台の意に叶い、且つ群臣を納得させられる後継者を見出だせないからだろう。
何よりも今上は内親王に在らせられれば、帝位にあって子を成すことは慣例から言っても有り得ない。
つまり、血筋から後継者と呼べる王族は居ないのだ。
太上帝は病に臥せりがちと聞く。
理伯も、いずれ必ず訪れる太上帝の薨去を思えば、紫微令に与しない者を一人でも味方に着けておきたいのは道理だろう。
山部は思いきって、表向きは母新笠からの酒人女王の誕生祝いの使いとして、平城の都に井上内親王を訪ねた。
幼い頃の無礼に引け目のある山部は、井上内親王は己に良い印象を持ってはいまいと覚悟して臨んだ。
だが井上は呆気ないほど、にこやかに山部に接し、山部の口上に丁重に礼を述べ、祝いの品にいたく感銘を受けてくれた。
赤子のために小さく造らせた銀細工の、形や大きさも様々な碗や皿、箸や匙など、一揃いの膳を井上は大層喜んだ。
「銀は身体に悪しきものを斥けてくれると申します。女王が長く、健やかにお育ちになられますようにと願いを込めまして誂えさせました。お気に召すとよろしいのですが」
山部が言葉を結ぶと、井上は「有り難いことです。人の命は儚いもので御座いますが、親となってみますと、やはり子の幸いは何者にも変えがたいとしみじみ思われます。酒人にも無事に育って欲しいと切に願うところです」と涙ぐんだ。
ふと山部の顔に目を当てて、井上は「王、立派におなりですね。お幾つになられましたか?」と訊ねてきた。
「十八を数えます」と答えた山部に、井上は「そうですか。もうそんなに」と言い澱み、団扇の影で新たな涙を押さえた。
若くしてなくなられた弟親王を連想されたものかと山部は思った。
「吾は幸いにして、この年まで生い立つことが出来ましたが、早世された方はお気の毒なことでした。内親王には今も惜しまれることでございましょう。心中お察しします」
山部の言葉に井上は目を見張り、感に耐えぬように「まことに王はご立派になられました」とため息とともに漏らした。
「十八ともなられれば、出仕をお考えですか?。何か朕にできることなぞございましょうか?」
世上に疎いと言っても、さすがに皇家の生まれだけに、井上は自身に望まれるところをよく承知していた。
この王の訪問も某か訳あってのことだろうと察してはいたが、成長した山部の振る舞いは井上の目に好ましく映り、今は進んで手を貸したいと思われた。
井上の申し出に、山部はやや困惑して躊躇うような素振りを見せた。
「ただ今は学問なぞ修めたいと考えております。いっそこうして無為な身で在ることが、あらぬ野心をも疑われず、幸いなのかも知れませんが、父母への孝を思えばそうも言っておられません。お力添え戴けるのであれば、この上なく幸いですが。さて、どうお願いして良いものか」
井上は深く頷いた。
「賢明なお考えです。今の宮の内を思えば、朕も出仕をお奨めしたくはありません。正直に申せば、朕が推薦する事がむしろ王の障りとなるかも知れないのです。おわかり頂けましょうか?」
山部は井上の眼を見つめ返し「はい」とだけ答えた。
「ですが、そうですね、大学寮でしたら如何でしょう?。本来ならば王のお歳では入寮叶わぬところでありましょうが、その門を開くことならば、朕にでも力添えができそうです。ただいまの朝堂で際立つのは剣呑でしょうが、将来ある学生に毒を盛る者はさすがにおりますまい。やがて時勢は移り行くのですから、学舎で時を待たれればよろしいでしょう」
井上の言葉に、山部は確信した。
巷では安積親王の薨去について、紫微中台に疑いの眼を向けていると聞く。
真実はともあれ、井上内親王も大后と仲麻呂を疑っているのだ。
明けて、天平勝宝七年(755年)、山部は井上内親王の推薦で大学寮の明教科の学生となり、直曹(寄宿舎)へと入寮した。
井上はよほど山部を気に入ったと見え、直曹に住む不便さを案じて、邸で暮らすよう薦めてくれたが、目立ちたくない山部は丁重に辞退した。
「ですが度々伺わせて頂くことをお許し下さい」と言った山部に井上は「勿論です。いつでも歓迎いたしましょう」と答えた。
父、白壁王は成り行きを聞いて、不承不承、山部の大学寮入りを認め、「くれぐれも身の振り方に気を付けるのだぞ」と苦言を呈した。
明信は心細げな顔で「しばらくお会い出来なくなりますね」と言ったが、気丈にも強いて笑顔を造って「恙無くお戻りください」と継げた。
人気の無い書庫で山部に抱き寄せられ、明信は「私はいつでも此処でお待ちしております」とその胸に身を預けた。
大学寮で山部は、漢音(中国語発音)は無論、これまで学ぶ機会の少なかった算道や明法(律令)に力を入れた。
時の大学頭は当代の文章の碩学、太上帝の侍講をも勤めた高丘連河内であり、漢音の講義はことのほか濃密なものだった。
もともと素養のあった明教(儒教)と記伝(歴史)については、改めて学ぶことはそれほど多くも無かったが、何より、周囲に同様に学を修めようと志す同輩が存在する環境は新鮮で刺激的だった。
優秀な成績を修めることは容易かったが、今は父の言葉通りに目立たぬ方が得策だろうと山部は考えた。
大学寮にあって、最も利するのは宮の内情をつぶさに知れるところだろう。
やがて山部にも、官人の間の力関係がおぼろに知れてきた。
紫微中台と紫微令に与し、その恩恵を受けているのは、実際には紫微令の子息たちと紫微令直属の官人だけと見えた。
古くからの名族、同じ藤原氏は無論、血を分けた兄弟でさえも、心中ではその専横を苦々しく思うらしい。
山部には紫微令の思惑は浅い物のように思われたが、それについて語るような愚行はせぬよう、自身に固く戒めた。
山部は新たな目標を見出だした。
大学寮には博士となって教鞭を執る道があった。
まずは得業生(現代でいう大学院生)となることだ。
この年が終わる頃、大海の彼方では、遂に御史大夫安禄山が兵を挙げ、玄宗皇帝が長安を捨てるに至る安史の乱が起こっていたが、その報せはまだ日本に届くことはなかった。
翌天平勝宝八年(756年)、二月に井手左大臣橘諸兄が辞任し、五月には遂に太上帝が崩御された。
これまで空席であった皇太子には、太上帝の遺勅で、中務卿道祖王が立てられた。
山部は折りふしに井上のもとを訪れ、最大の後ろ楯であった太上帝を喪った井上を慰め、大学寮での四方山噺をしたり、幼い酒人女王の相手をしたりして過ごした。
ようやく歩くほどになった酒人女王は大層愛らしく、山部は大枝に残してきた弟の早良王を思った。
時おりは大枝へ帰り、背丈が伸びて大人びてきた俊哲や、相変わらず磊落に日々を過ごす壱志濃王と旧交を暖めた。
理伯のもとを訪れれば、書庫には笑顔の明信の姿があった。
諒闇の中、年は暮れ、明けて天平勝宝九年(757年)。
一年間と定められた太上帝の喪中のため、朝賀の儀も宴も行われない初春に、橘諸兄の薨去の報が朝堂にもたらされた。
今上からは国葬として扱うよう勅があり、丁重に弔われたが、宮を辞して後も、紫微中台と大君の仲立ちであった諸兄の薨去に、朝堂は嵐の予感に満ちた。
三月の終わりに、大君の寝殿に瑞兆が顕れたことをきっかけに、朝堂では紫微令に反感を持つ群臣に対して牽制的な出来事が相次いだ。
まずその月の終わりに、道祖皇太子が廃され、翌月に行われた立太子についての諮問では群臣の推す王族を斥けて、大炊王が選ばれた。
大炊王が紫微令の亡き子息の妻を妃として、紫微令の私邸、田村第に住むことを知らぬ群臣なぞ居るはずもない。
なんという茶番だ。
氏祖(不比等)を真似て、大炊王が大君の位に着いた暁には、己が所縁の媛を皇后として、生まれた皇子を帝位に着け、外戚として権勢を奮おうという魂胆は見え透いている。
諮問の後、大君は紫微中台で几帳を蹴り倒さんばかりの勢いで「大后、これでご満足ですか?」と息巻いて、藤原命婦(仲麻呂の妻、宇比良古)と飯高命婦に押し留められたそうな。
いや、実のところ大君も紫微令に籠絡されておいでなのではあるまいか。
朝堂で囁かれる風評は、大学寮の山部の耳にも逐一入った。
翌月には太上帝の喪が明け、平城宮の改修のため、大君と皇太后は、田村第を里第として移り住み、遅い叙位が行われた。
紫微令藤原仲麻呂は、大納言はそのままに紫微内相(準大臣)となり、軍事権をも委ねられた。
更に、群臣に対しては、軍事行動に繋がる動きを禁じる勅が出された。
曰く、氏族間で人を動員せぬこと。
馬、兵杖を集め、蓄えぬこと。
宮の内で武官以外の者が兵杖を持たぬことの厳守。
宮の内で二十騎を超える兵を集団で動かしてはならない。
一触即発の空気の中、橘諸兄の嫡子、奈良麻呂を主犯とする大逆罪が暴かれ、平城の都は騒然となった。
後に橘奈良麻呂の変と呼ばれる、この大逆罪は未遂に終わったが、関わった者への相次ぐ粛清に朝堂は震撼した。
三関は直ちに固められ、王族高官から庶人に至るまで、許可なく京内から出ることは禁じられた。
相次ぐ密告で宮の内は誰もが疑心暗鬼に苛まれ、獄舎では自白を強要する義杖が振るわれた。
喚問のため、遥々陸奥国から召喚された佐伯全成は首を括り、皇位に近い王族や、紀、佐伯、大伴といった有力氏族の主だった者は次々と罪を被り、獄舎に繋がれ、或いは獄死、或いは遠流とされた。
その中には、紫微内相、藤原仲麻呂の兄、右大臣藤原豊成とその子息たちも含まれていた。
井上内親王の妹、不破内親王が背の君とする塩焼王もこの事変に名を連ねたが、不破に泣きつかれた井上から、大君と皇太后へ内々に恩赦が乞われ、王の呼称を剥奪し、臣籍へ降下することで特に赦された。
秋、八月十八日、悪夢のような政変の名残を払拭する意味を込めて改元が行われ、この日から天平宝字元年と呼ぶことが定められた。
父、白壁王は夏の叙位で位階を進めたが、
山部は既に二十歳(19才)となりながら、秋の叙位にも漏れた。
尤も、今の宮の有り様を見るに、これはむしろ幸いなのかもしれない。
春の勅では正丁(成人)を二十二歳からと引き上げられており、これを鑑みて、父白壁王は山部に休学を奨めた。
大学寮には公廨田(財源となる公田)が設置され、官費により学生の暮らしは保証されるようになったが、変わって式部省の色が濃くなった。
式部卿は北家藤原永手であり、今の朝堂では仲麻呂に与しない唯一の有力者だったが、この事も白壁王には剣呑に思われた。
山部は明教試でも優秀な成績を修め、特業生への途は拓かれていたが、父、白壁王と井上内親王の奨めを容れて休学し、平城の都を一度離れ、再び大枝へと立ち戻った。
七才となった早良は僧侶への道を歩ませると父から告げられていた。
やがては七大寺のいずれかへと住まうことになるだろう。
しばらく共に居てやるが良いと父は言った。
山部が別れの挨拶をして立ち去った後の井上内親王の邸では、四歳となった酒人女王が、訪れたはずの義兄の姿を一心に探して回る姿があった。
井上は酒人をさしまねきながら、白壁王に言った。
「女王はことのほか大枝の若君をお慕いしておいででして。若君もよく女王の相手をして下さいましたので、しばらくは寂しいことでしょう。」
乳母から、王は山背国へお帰りになられましたと聞かされて、酒人女王は哀しげにしくしくと泣き出した。
その姿を微笑ましく見ながら、白壁王は井上に「酒人女王もいずれ、母宮と同じように斎王に卜定されるやもしれません。そうなれば退下の後は山部に嫁すがよろしいでしょうかな」と言った。
井上は笑いながら酒人を抱き上げて「それは良いお考えです。いかがですか?女王は山部王がお好きですか?」と訊ねた。
酒人は急いで涙を拭って洟をすすり上げ、泣き顔をこらえて「はい。酒人は毎日兄様に会いとうございます」と答えたが、それで却って今、義兄に会えなかったことがより哀しく思われて、再び声を上げて泣き始めた。
大枝では母、新笠が山部の姿を見て安堵のあまり涙し、弟の早良王は無邪気に喜んだ。
母の涙を見て、山部は帰ってきて良かったと心底思った。
都を遠く離れたこの地では、暴かれた大逆罪の詳細は知らされず、ただ都では恐ろしいことが起き、王族や官人が次々と罰せられたとしか伝わっていなかった。
壱志濃王は真摯に山部を案じてくれており、俊哲はもう都に戻ることなどないと言い張った。
「祖父様は男泣きに泣かれていた。酷いことだ」
俊哲の祖父に当たる敬福は、出雲守だったが、この事変で都に召喚され、皮肉にも、先帝の元で長く友として親しんできた大伴古麻呂や佐伯全成らを尋問する役目を申し遣った。
理伯は摂津大夫がいまだ都から戻らないため、任地の摂津から離れられずにいるという。
「誰も彼も弁明の機会も与えられず、ただ獄舎で責められ続けて、不利な自白を強要されたそうな。到底人の為すことではあるまいぞ。大逆罪の謀なぞと言うが、現に何も起こった訳で無し。謀議を持ったと言っても現実には、藤大納言の息のかかった者が密告しただけでどんな事実が」
尚も言い募ろうとした俊哲を、壱志濃王が「止めよ、俊哲。山部を窮地に立たせたらどうする」と低く制した。
俊哲はひと息堪えて、俯いて「済まなかった」と言った。
去り際に俊哲は山部に「出来たら早く交野へも顔を見せてくれ。姉者が塞いでいて見るに耐えない」と言い、山部が片方の眉を上げたのを見て笑いだした。
山部は矢も盾も堪らず交野を訪れた。
明信は山部の姿に眼を潤ませてすがり付いて来た。
「毎日織物社に詣でた甲斐がありました。よくこそご無事で」と言いかけて、続くはずの言葉は山部が唇で奪った。
手で、唇で、存在を確かめ合うだけでは到底もの足りず、山部は箍が外れた様に明信を求めた。
熱に浮かされたような声音で「堪えが効かない。許してくれるか」と乞われて、明信はそんな山部を当然のごとく受け容れた。
お互いがそこに居ることに納得するまで、二人は肌を合わせて睦み合い、指を絡め、背を手繰り寄せ合った。
天平宝字二年(758年)
山部は大枝で、弟の早良に漢詩の手解きなどしながら穏やかな新春を迎えた。
種継も山部の帰郷を喜び、昨年から度々大枝を訪れていたが、この年明けには大舎人として出仕する運びとなっていた。
種継が別れを告げに訪れた日、山部は資人を連れず舟遊びに誘い、宮で見聞きして得た情勢について、種継と様々に語り合った。
「王は前の右大臣(仲麻呂の兄、豊成)が難波においでなのをご存じですか?」
種継の言葉に山部は驚いて聞き返した。
「帥殿(太宰の員外帥とされていた)が?。太宰に下られていないのか」
種継は頷いて「はい、お身体の具合がよろしくないとかで、下向を憚られて、ご子息とともに別業に蟄居しておいでだそうです。これが咎められないのは、どうやら皇太后の意向のようなのです」と続けた。
「紫微中台も磐石ではないと言うことか」
山部の言葉に種継は黙したまま深く頷いた。
「豊成殿は南家の総領で、交野殿とも親交が深いと聞きます。交野殿が摂津を離れられないのは、そのこともあるのでしょう」
豊成とともに難波に隠遁しているのは二郎の継縄だが、嫡子はすでに亡く、他の兄弟は先の政変で獄死している。
「継縄殿は王や吾より十歳は年長で、既にお子もお在りだったかと。やはり明教、明法に明るい方と聞いております」
機会があればお訪ねになってみては如何ですかと、種継は別れ際に言った。
山部は頻繁に交野を訪ねたが、理伯の姿を見い出すことはなかった。
山部としては出来る限り早く、理伯に会って、明信への妻問いを申し入れたかったが、摂津まで押し掛けるのは気が引けた。
それでも理伯から例え難色を示されても、引き下がるつもりはなかった。
春もたけなわとなり、ある麗らかな日、交野を訪れた山部は、明信が変わった容貌の赤子を抱いている姿に驚いた。
肌の色は血色が透けるように白く、髪は細く薄く、その色はちょうど秋の稲穂のような色合いで、緩く渦を巻いていた。
「胡人か?」と訊ねた山部に、明信は微笑んで首を振り「坂上授刀衛将監のお子です」と答えた。
狐に摘ままれたような顔になった山部を見て、明信は可笑しそうに笑った。
「祖父様(敬福)が坂上の授刀衛将監のお子をお預かりしたのです」
赤子は明信の腕の中で安らかに眠っていた。
「なんでも曾布(大和国添上郡の坂上氏の本貫地)では、この赤子の形が厭われて、育てるに障りとなるとか。このようにいとけない者を、哀れなことです」
興味津々で赤子の顔を覗き込む山部の表情はいつになく隙だらけで、そんな山部に嬉しそうに目を当てながら明信は続けた。
「母御も既に亡くなられておいでだそうで、今は乳母が付ききりで育てております。たまには息抜きをしてお出でなさいと、守りを替わったのですが」
山部と目が合うと、明信は小さく首を竦めて笑った。
「王がおいでになるとわかっていたら、替わるのではありませんでした」
山部は赤子を抱いた明信の姿を改めてうちながめた。
日々、明信が傍らにあり、いつかこうして己が子を抱いてくれたら。
そうしたら、己はもう大海を航る望みを無くしても生きていけるのかもしれない。
そのとき、学問は将来の立身のために修めるのではなくなり、己が生きる日々を心豊かに過ごすためのものとなるだろう。
そんな日々も悪くないのではあるまいか。
夏が訪れた頃、ようやく、理伯はたまさかには交野へと帰ってくるようになったと聞いたが、山部はなかなか会うことが叶わなかった。
まもなく夏越の大祓となる頃、明信は父理伯から、唐突に、思いもかけない婚姻を告げられた。
難波に隠遁中の前の右大臣、南家藤原豊成は、その子息、継縄の妻に明信をと理伯に望んだ。
理伯はこれを受けて、継縄を迎えるための明信の邸を造らせると告げた。
端的に言うことだけを言い残して、再び摂津へと去ってしまった父の言葉に明信は打ちのめされた。
次に山部が交野を訪れた日、明信は青ざめた顔で父から告げられた婚姻について、訥々と山部に語った。
語り終えて、明信は思い余って涙を溢し始めた。
明信の涙に、山部は立つ足許から地面が崩れるように思われた。
なんと読みの甘かったことよ。
山部は心の内で自身の鈍重さを激しく罵った。
あえて難波まで出向かなかったのは、理伯への遠慮からだったのだが、今はそれが悔やまれた。
敬福も理伯も、豊成と継縄に深く親しんでいると聞いていたと言うのに。
あたら手をこまねいての、この体たらくだ。
領布持つ手で顔を覆っている明信の傍らに山部は跪いて、その両の肩を掴んだ。
「聞いてくれ」
面を上げた明信の白い頬を伝う涙を親指で払いながら、山部は言葉を継げた。
「吾は交野殿に汝の妻問いを申し入れるつもりだったが、たった今、考えを改めた。交野殿には交野殿のお考えあって、その話を受けられたことだろう」
明信は山部の言葉の意図が読み取れず、困惑した眼差しで、縋るように山部を見上げていた。
山部は一時言い澱み、明信の眼の奥を覗き込んだ。
「もし、それでも汝が吾を選んでくれるというなら、共に畿内を出て、何処か遠い地で二人ともに在れる暮らしを捜そう」
明信は息を呑み、その眼には、喜びと不安、罪悪感といった様々な色が明滅した。
逡巡するのは当然だろう。
父母への孝の道にも外れ、先行きには何の保証も無い。
「これ迄のような豊かな暮らしは望むべくもないが、汝と共に在れないなど、吾には容れられない。だが、人生の大事だ。今すぐ決めなくても良い」
山部の眼差しを受け止めて、明信の唇が、何か言わねばと、ためらい勝ちに開いた。
「それでは、王のご家族は、いえ、王ご自身のこれまの来し方が」
言いかけて、明信は言葉を失った。
切れ長の眼が見張られ、山部をまじまじと見つめてから「無為なものとなってしまいます」と視線を落とした。
「それは汝とて同じだろう」
山部は口の端をわずかに上げた。
「吾はこれまで、理に沿わぬことは為してはいけないと己に言い聞かせてきた。だが、一度くらい心のままに振る舞っても良かろう。今がその時だと強く感じるのだ」
明信は再び面を上げた。
その眼にもう涙は無かった。
ゆっくりと頚を左右に振って、哀しげに、けれどもきっぱりと明信は言った。
「大陸へ航る夢はどうなさるのです。王にふさわしい暮らしは容易くは見付かりますまい」
山部は強いて笑顔を造った。
「例え遣唐使となれなくても、学ぶことは幾らもあるだろう。吾はこれまで学問しか知らなかったが、生活の手段をも学ぶべきだろうな。こう見えても身体は頑丈だ。なんとでもなる」
明信の切なげな顔に眼を落として、山部は
「吾は七夕の歌垣の夜、織物社で待っていよう。心が定まったら来てくれ。身一つでいい」と告げた。
山部が立ち去った後も、明信は一人、書庫で思い悩んだ。
王はああ言ってくれたが、何処かへ落ち延びられるものだろうか。
自身が倹しく暮らすことなど苦とは思わなかったが、山部を流民に貶めて、日々の糧に窮するような暮らしをさせたくは無かった。
何より心苦しいのは、互いの心のままに共に在ろうとすれば、自身が山部の将来を断つことだ。
それでも、心は山部の面差しで、その手の温もりで埋め尽くされ、自身のために総てを捨ててくれると言った声が耳から離れることは無かった。
今年、御阿礼を務める妹のために織っていた五色の幡はすでに織り上っていたが、一人になりたい明信は、日が落ちても織機の前に座り、放心していた。
父が南家の嫡子となったその君との婚姻を決めた理由は、先の政変を思えば明信にもよく理解できた。
今は都を追われるような境遇にあっても、南家の嫡子ともなれば、時勢が変われば朝堂の中枢に立つ身だ。
百済王氏の娘が妻として乞われるなど僥倖以外の何物でもない。
きっと祖父様が、この婚姻を推しておいでなのだ。
明信はその君が、学識深いことや年長であること、既に妻も子もあることを聞かされていた。
まだ顔も知らない君ではあるが、山部以外の男君に触れられることを思うと身の毛がよだつ思いがした。
私から父に仄めかしてみてはどうだろう。
明かり取りの連子窓からは、眉月の弱い光が朧に指していた。
歌垣は数日の後だ。
不意に背後から、手燭の灯りが指し、父の声が「このように暗くては機も織れまいにどうした。」と掛けられた。
父が摂津から戻ったことすら知らずにいた明信は驚いて振り向いた。
理伯は空の機と明信の様子に眼を当てて、「大枝の若君がおいでだったそうだな」と言った。
明信は胸に鉛を呑み込んだような思いで「はい、父君に会いたがっておいででした」と答えた。
「それは惜しいことをした。大枝の若君にも、早めに汝の婚姻についてお伝えせねばと考えていたところだ。このところなかなかお顔も拝見できず残念なことだ」
理伯の言葉に明信は、父は山部と自身が親しんでいる概ねを予測しながら、敢えて山部を避けていたのだと不意に思い当たった。
「大枝の君は今は無位無冠であっても、才長けた将来ある身だ。二品の宮(井上内親王)とも所縁深い。不名誉な醜聞なぞ立っては相応しくあるまいからな」
王ご自身も、父から婉曲に避けられているとご承知だったのだろうか。
「私のそれは、婚姻と言えるのでしょうか?。望まれたといっても、既に妹背をお持ちの方と伺いました」
明信の固い声音に、理伯は歩み寄って来た。
見上げた明信の眼差しを受け止めて、理伯は穏やかな声で諭すように語り出した。
「汝が妻となるのだ。なればこそ、汝の背の君の邸宅を普請するのだよ」
理伯は言葉を切り、わずかに眉根を寄せた。
「彼の君は王族にあれば、妻が只人(王族以外)一人とはいくまいな。娘や、その事を考えたことはあるかな?。それが慣習だ」
明信は眼を見張ったまま、凍りついたように身を強ばらせた。
やはり父は王と己とが睦み合う間柄だと確信しているのだ。
理伯は娘の肩に一度手を置いて「しばらくは外出を禁じよう。大枝の君の訪問も断らせる。家の者皆に申し付けておくからな。娘や、そんな顔をするでない。お前が賢明であることは、誰よりもこの父がよく承知しているのだと忘れるでないぞ」と言い残して立ち去った。
七夕の空は、朝から鈍い色の雲に覆われていた。
理伯の邸の内でも、星合の祭りと歌垣を懸念して、皆が空ばかり気にしていた。
宵を待たずに降りだした雨を、庇で眺めながら明信の思いは千々に乱れた。
こうして庇で庭を見ているだけでも、誰かの視線を感じた。
確かに雑徭や端女たちは、明信の外出を妨げるよう、父から厳重に言い渡されているのだろう。
織物社を思えば、身の内から魂が憧れ出ていくかのように思われた。
明信の眼には、領布をなびかせ、素足のまま転ぶように社へ駆けて行く己が後ろ姿が見えるような気がした。
この雨の中でも、槻の樹の下で王は待っていてくれるだろう。
広げられた腕に身を投げれば、明朗な笑顔で受け止めてくれるに違いない。
固く抱きあった二人に雨は降り注ぐことだろう。
突然、明信の脳裏に「不名誉な醜聞は相応しくあるまいぞ」と父の声がよみがえった。
そう、そして他ならぬ私自身が、あの君に奴婢のような暮らしを強いてしまうのだ。
明信は崩れるように膝を折った。
白い頬を幾筋もの涙が伝わって庇を濡らした。
織物社では降りだした雨に、慌てて祭壇がしまわれ、出ていた人は皆、空を見上げて口々に催涙雨を恨みながら散じていった。
人気の失せた社の外れで、槻の樹の下で山部は一人立ち尽くしていた。
星合は叶わぬか。
胸の内で自嘲的に呟いた山部は、樹影から歩み出て、鉛色の空を振り仰いだ。
険しく寄せられた眉に、鋭角な頬に、広い肩に、雨は激しく打ち付けた。
烏造の頭巾も白丁の生成りの衣襖も雨を吸って冷たく体に張り付いた。
額を打ち、頬を流れる滴は顎の先から滴った。
背後に人の気配が動いたが、それが明信で無いことは山部も承知していた。
果たして「王」と掛けられた声は俊哲のもので、「姉者は、明信は来ない。王にこれを渡してくれと」と差し出された手には、明信がいつも身に付けている白珠で飾られた櫛があった。
山部は心を喪った人のように、その手から櫛を受け取った。
俊哲は無表情な山部を正視できず、眼を逸らした。
「姉者は家を出してもらえないのだ」
言い訳がましいと知りながら、添えられた俊哲の言葉にも、山部は口に出しては「そうか」と答えたのみだった。
否、違う、と山部は心の内で呟いた。
あの聡明な娘が、それ位の策を廻らせることが出来ないはずもない。
明信は来ないことを自ら選んだのだ。
山部は掌の中の櫛をじっと見つめた。
唐突に表情が怒りに満ち、櫛持つ腕を振り上げた山部を押し留めようと、俊哲は一歩踏み出した。
だがその腕が震えていることに気づいて、俊哲は足を止め、俯いた。
かける言葉など有りはしない。
一時激情にかられた山部だったが、明信が俊哲に託した思いを考えれば、その櫛を打ち捨てることはできなかった。
明信が来ないのは、己を疎んじる訳でもなく、その先に待ち受けるであろう貧しく苦しい暮らしを厭わしく思うわけでもあるまい。
そのことぐらい山部とて承知している。
だが、だからといってこの胸の内の嵐が収まるはずも無かった。
明信は他の男のものとなってしまうのだ。
あの眼差しが、見も知らぬその男に向けられ、鈴の声がその男と語るのだ。
身の内を掻き毟られるような苦痛をこらえて、山部はようよう、その腕を降ろし、俊哲に背を向けた。
「帰ってくれるか。そして汝の姉に伝えてくれ。弥栄に(長き幸いが多く在らんことを願う)、と」
俊哲は唇を噛み締め、心の内では、何とも知れぬ理不尽さに悪態を付きながら「伝えよう」と答えて身を翻して駆け去った。
喪失感が激しい目眩のように襲い、山部は思わず槻の樹に両腕を付いて身体を支えた。
息が堰上がるように苦しかった。
微かに震える手に持つ櫛を見遣り、頬に押し当ててみた。
この苦しみが癒える日が来るなぞ、今は到底思えなかった。
槻の樹の根本に腰を降ろし、空を降り仰いで、山部は思った。
雨よ今しばらく降り続いてくれ。
この頬を濡らすのは雨だと、強いて己に言い聞かせよう。
唇に苦いのは催涙雨だからだ。
鉛色の空を仰いで、山部は歯を喰い縛って胸の痛みをこらえた。
八月朔日、大君は遂に御位を退かれ、大炊皇太子が即位した。
遣渤海使、小野田守が帰国し、安史の乱の報をもたらして朝堂を震撼させるのは、この年も暮れゆく十二月十日の事だった。
杖
裁定のための杖
武器として拷問にも使われた。