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禁書棚の鍵開け係

作者: 藤永すい
掲載日:2026/05/06


古い書物のにおいが満ちる地下図書室。


ここには、強力すぎる魔法が記されたため封じられた魔導書や、著者の魔力や怨念が染みつき扱いの難しい書が保管されている。

危険ゆえに、立ち入りは禁止されている場所だった。


「今晩も解読を進めなさい、終わるまでこの部屋から出さないからね」


ボロ布のような服をまとった少女――ラティナは、背後から突き飛ばされた。

華美なドレスを纏った母娘に押され、図書室の中へ倒れ込む。


直後、扉が乱暴に閉められ、外から鍵のかかる音が響いた。


頬に擦り傷が走る。

ラティナはゆっくりと身体を起こし、こちらからは開けられない扉を一度だけ見つめた。


それから何事もなかったかのように立ち上がる。


燭台に火を灯し、昨夜の続きの魔導書を開いた。


泣いても、誰も来ない。


――それは、もう知っている。




「お姉様、掃除もまともにできないの? こんなのがお姉様なんて恥ずかしいったらないわ! さっさと片付けなさいよね?」


義妹ミーシャの金切り声が今日も廊下に響く。


ラティナは何も言わず、箒を動かし続ける。

余計なことをすれば状況が悪くなるだけだと、もう理解している。


だが、ミーシャはそれすら気に入らなかった。

飾られていた陶器を、わざと床へ叩き落とす。

乾いた破砕音。


「まあ! お父様の大切な品を壊すなんて!」


「何の騒ぎ?」


現れた継母ミスティアに、ミーシャは涙声で訴える。


「お母様! お姉様がまたお父様のものを壊したのよ」


継母は破片を一瞥し、ラティナを睨みつけた。


「これはミーシャが――」


「またなのラティナ! 黙りなさい! 人のせいにするなんて、どれだけ罰を受けたら学ぶのかしら?」


継母は手にした扇子で、ラティナのボロボロの上着の背を何度も打つ。ラティナは声を出さなかった。出すだけ無駄だとわかっていたし、それ以上に、もうそんな気力もなかった。


アストリア公爵家は変わってしまった。


かの公爵家は魔導書研究で国を支える名家であったが、現当主が溺愛してきた先妻を亡くしてから、研究にも一人娘にも目をくれず放蕩するようになった。公爵が連れ帰った再婚相手は、研究など一切興味はなく、社交界での立ち位置ばかり気にする女で、その一人娘ともども公爵家に入り込んだ。


公爵家の一人娘ラティナは父と母に憧れ、幼い頃から魔導書研究にのみ邁進してきたせいか、齢十七になるも世間を知らず、継母とその娘に屋敷を乗っ取られていることに気づけなかった。気づいた頃には、屋敷の使用人は継母の言いなりになる者ばかりに入れ替えられており、服や部屋など身の回りのものを一通り奪われ、食べるのも寝るのもままならなかった。


気づけば父が、継母の前夫と同様に原因不明の病で伏せり出したのも、偶然ではなさそうだった。父が寂しさを癒せるならと、自分の寂しさを飲み込んだはずが父も奪われそうになっている。


継母は公爵家に入ってしばらくしてから、公爵家は国から魔導書研究を任されており、当主が放蕩を始めてからはラティナがその仕事を担っていることに気づいた。


継母らは一年前からその担当がミーシャに代わったと国に嘘をつき、実際の仕事はラティナに押しつけ続けている。公爵家はこれまでその研究を担う者が王族と婚姻関係を結ぶことが多かったため、彼女らは王子妃の座を狙っているのだろう。


ミーシャは、仕事を下の者に任せるのも公爵令嬢の仕事でしょ……と言いながら研究自体をラティナに任せ、ミーシャ自身はラティナの解読した結果を報告書にまとめる作業をした。ミーシャは魔導書の内容を理解しているわけではない。ただ、ラティナが残した草案や要点、索引を写し、自分がまとめたように見せているだけだった。


もちろんラティナが全てを担っていた頃よりも報告書の質は劣化した。それでも王城は、アストリア家の提出物を、これまでの実績や関係性から突き返すわけにもいかず、形式が整っている限りは受理してしまうらしい。


この現状をどうにかしなくてはならない。そうは思うものの、昼間は家中の掃除、夜は魔導書解読を、使用人に監視されながら行う日々で、母を亡くした悲しみがまだ癒えない身では、日々をやり過ごすだけで精一杯だった。




公爵家と付き合いのある侯爵家の次男、フェリクスが久しぶりに屋敷を訪れたのは、そんな頃だった。


幼い頃はラティナと魔導書談義をしてきた間柄で、彼自身は宮廷魔導士の一人として働いている。継母の目が届かない廊下の隅で、フェリクスはラティナの手首を掴んで引き止めた。


「ラティナ、その手は」


包帯が巻かれていた。


「転んだだけです」


「先月来たときも、目の下に痣があった。転んだと言っていたね」


ラティナは何も言わなかった。フェリクスは声をさらに低くする。


「今、アストリア家の報告書が宮廷に届いている。ミーシャ嬢が担当しているとのことだったが——本当にそうなのか」


ラティナはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。


「そうです。私ではありません」


嘘だとわかっているはずだった。フェリクスの目がわずかに揺れる。


「俺と結婚して家を出——」


「フェリクス様! 何をしてらっしゃるの?」


唐突にフェリクスの腕にミーシャが両手で抱きつく。フェリクスは慌ててラティナの手を離す。


「お姉様と話しても退屈でしょう? 私とお話ししましょ!」


「……君と魔導書の話ができるんだろうか」


甘えた声でくっついてくるミーシャにフェリクスは冷たい目線を向ける。


「それってどういう意味かしら?」


どこからかやってきた継母が凄んだ声でフェリクスに尋ねる。


「い……いえ。それでは私はこれで」


継母とミーシャに睨みつけられたフェリクスは、逃げるように館を去った。


数日後、フェリクスから手紙が届いた。継母に見つかる前に読んで捨てろという走り書きとともに、こう書いてあった。


申し訳ない。私の家は今、アストリア家から受けてきた資金援助が切られる話が出ている。お前のことは心配しているが、私にできることはない。どうか、うまくやってくれ。


ラティナは手紙を読み終えて、燭台の火にかざした。


何も期待していないから謝らなくていいのにと思う。


どうか、うまくやってくれ。

うまくやれるなら、とっくにそうしている。




手紙の存在を知ってか知らずか、手紙を受け取った直後、継母はラティナを地下図書室に閉じ込めた。


期限が近い報告書は、もうすでにラティナがまとめていた作業途中のものを元にして出すらしい。いつもはミーシャが期限ギリギリにまとめたものを、ラティナが短時間でなんとか確認しいくつもある誤りをこっそり修正していたが大丈夫だろうか。心配だが、今の私には何もできない。


いつも自作の砂時計で朝までの時間を測っていたが、朝になっても扉は開けられなかった。扉を叩いても反応はない。食事も水も差し入れられず、ラティナは棚の隅に転がっていた古いワインで飢えを凌いだ。腹が減った。眠かった。砂時計を繰り返しひっくり返すも、終わりが見えないことに消耗する。


それでも、どうせ時間があるなら、と手近な魔導書を開いた。


著者不明の古い書で、封印の紋様についての考察が記されていた。読み進めるうちに、ラティナはワインを飲むことも忘れた。


そうしていると唐突に扉が開けられた。


「ラティナ様、第二王子オズワルド様がお呼びです」

「第二王子様……!?」




第二王子オズワルドが公爵家を訪れたとき、継母は最上の笑顔で出迎えた。第二王子の来訪など滅多にない。ミーシャを同席させて愛想よく振る舞ったが、オズワルドはラティナを呼ぶよう言った。


「アストリア令嬢ラティナに話がある」


「あの子は体が弱く、今日は部屋で……」


「構わない。部屋に案内してくれ」


継母の顔が一瞬強張った。使用人がバタバタとしだす。


「ラティナ・アストリア。聞こえているなら出てきなさい」


少しの間があって、廊下の角から人影が現れた。


ボロ着の、痩せた少女だった。頬に薄く傷の跡がある。包帯を巻いた手で、まっすぐにオズワルドを見ていた。怯えも媚びもない目だった。


「ラティナ・アストリアです」


「少し話を聞かせてほしい」


継母が口を挟もうとするのを、オズワルドは手で制した。


「二人で、構わないか」




もともと、オズワルドはアストリア家の報告書を疑っていた。


魔導書研究とはいっても、王城に禁書そのものは届かず、封印の状態、危険度、既知の分類、再封印の可否をまとめる定型報告書が届く。

だからこそ、提出者が本当に内容を理解しているかどうかは、文章の端々に出る。


アストリア家の報告書は、数年前まで際立っていた。着眼点が鋭く、定型の報告以外にも先行研究への参照が緻密で、何より文章に研究者としての確信があった。担当者の名はアストリア令嬢ラティナ。当時十四かそこらのはずで、オズワルドはその名を記憶に留めていた。


それが一年ほど前から変わった。内容が浅くなり、参照が減り、文体が変わった。担当者の名もいつの間にかミーシャに変わっていた。


おかしい、とオズワルドは思った。

研究成果自体は従来と変わらないから、報告者のみ変わったことがわかる。意図的にラティナの名前がこの研究から消されようとしているのではないか。


軍の諜報部に軽く調べさせれば、公爵家当主の再婚から家の様子がおかしいらしい。だが、公爵家ともなると王家でもそう易々と手を出すわけにはいかない。


そしてついに誤りだらけの報告書が提出され、アストリア家への疑念は確信に変わる。

翌日、オズワルド王子は公爵家を訪れた。




継母の目が届かない客間で向き合うと、ラティナは最初から表情を動かさなかった。


オズワルドは単刀直入に言った。


「アストリア家の報告書を、実際に担っているのはお前だろう」


「……なぜそう思われるのですか」


断定を受け入れず、まず根拠を問い返した。オズワルドは構わず続ける。


「一年前まで提出されていた報告書と、直近のものを読み比べた。以前は、要点の拾い方に研究者としての癖があった。今のものにはそれがない」


ラティナは少し黙った。


「それが私の書いたものだという証拠にはなりません」


「ならば聞き方を変えよう。先日、ミーシャ・アストリアが提出した報告書は誤りばかりだった。担当者の名前は変わっても内容に誤りがあることはなかった。一年前の報告書を書いた人間ならそんなミスはしない。だから、本当の研究者に何かがあったと考えた。……お前は閉じ込められていたのか?」


今度はもっと長い沈黙があった。


ラティナは窓の外を見た。屋敷の庭が見える。手入れの行き届かなくなった庭だった。


「そうです」


静かな声だった。


「研究は私がしていました。今も私がしています」


オズワルドは頷いた。それから、少し間を置いて問うた。


「望みはあるか」


ラティナはすぐには答えなかった。父の病のこと、継母のこと、フェリクスの手紙のこと——訴えるべきことはいくつもある。助けを求めるべきかもしれない。そうわかっていても、口をついて出たのは別のことだった。


「もっと多くの魔導書を、誰にも邪魔されずに読みたいです」


オズワルドは目を細めた。笑ったのかもしれない。よくわからなかった。


「一年前の報告書を書いた人間が言う言葉として、説得力がある」


立ち上がりながら、彼は付け加えた。


「明日、王城に来なさい。場所を用意する」


それだけ言って、彼は帰った。


ラティナは客間に一人残された。明日、と言った。王城に来い、と言った。それが何を意味するのか、まだうまく飲み込めなかった。ただ、胸の中に三年ぶりに感じる感覚があった。


先が、ある。




翌朝、ラティナは王城に呼ばれた。


継母らは烈火のごとく怒ったが、第二王子からの呼び出しには逆らえない。ラティナは三年ぶりに公爵家の外に出た。空が広かった。当たり前のことが妙に新鮮だった。


王城の中を案内されながら、ラティナは初めて気づいた。オズワルドは護衛を連れていない。王子が一人で公爵家に来て、一人で王城内を歩いている。側近に任せず自分で動く人間なのだと、そのとき初めて腑に落ちた。


案内されたのは、宮廷図書館の最深部だった。


重い扉の向こうに、鉄格子がある。その向こうに禁書棚はあった。


危険な魔導書、解読不能とされた魔導書、著者の怨念が染み込んだ魔導書。軍が管理する機密の魔導書も混じっている。整然と並んだそれらが燭台の灯りに照らされているのを見た瞬間、ラティナは息を呑んだ。


棚が、遠くまで続いている。一生かかっても読み切れない。


「ここの鍵開け番を任せたい」


隣でオズワルドが言う。


「危険な書物の封印を解かず、安全に内容を解読し、整理できる者が必要だ。軍の魔導研究班にも優秀な者はいるが、お前ほど封印紋を正確に読める者はいない」


「……!」


「王城内に部屋を用意する。公爵家の籍はそのままにしておく。父君の病状については私の方で調べさせる」


ラティナはやっとオズワルドに目を向けた。彼は相変わらず感情の読みにくい顔をしている。


「なぜそこまで」


「有能な者を正しく使うのが私の仕事だ。それと」


オズワルドはわずかに間を置いた。


「以前の報告書を書いた者が、今どんな状況に置かれているか知って、放置するほど私は鈍くない」


ラティナはしばらく黙った。それから、鍵を受け取った。古い鉄の鍵で、ひんやりと重かった。


泣かないようにするのに、少し時間がかかった。泣くつもりなどなかったのに、喉の奥が勝手に詰まった。


もうどうしようもないと諦めていた。つけ込まれた私や父が愚かなのだと。だが、やってきた研究が認められ、それで自分も父も救われるかもしれないと思うと、ここ数年で初めて希望のようなものを持てる気がした。




禁書棚での仕事が始まった。


初日、ラティナは開錠の際に魔力の跳ね返りを受けて棚の角に頭を打った。二日目は怨念の染み込んだ写本を開いたまま眠ってしまった。三日目にオズワルドが様子を見に来たとき、ラティナは食事に手をつけないまま床に座り込んで解読を続けていた。


「食え」


「あと一段落したら」


「今食え」


有無を言わさぬ声だった。ラティナは渋々パンに手を伸ばしながら、手元の魔導書から目を離さない。


「これ、解読不能とされていたらしいんですが、暗号の構造がここ最近解析した封印紋と同じで——表層の暗号を剥がすと下に別の層があって、それがまた別の暗号で——隣国が使っている魔法陣に関わる内容が出てくるとしたら多分この層で、今夜中に——」


「食いながら話すな」


「……失礼しました」


ラティナはパンを一口食べて、また話し続けた。オズワルドは止めなかった。椅子を引いて腰を下ろし、腕を組んで聞いていた。


ひとしきり話し終えて、ラティナはやっとパンの残りを食べた。オズワルドがお茶を置いていく。いつの間にか用意されていたものだった。


「面白いか」


唐突に問われて、ラティナは少し考えた。


面白い、という言葉が自分には久しく縁遠かった気がする。毎晩解読はしてきたが、それは義務だった。義務として続けてきたそれが、今は違う感触がある。指先が、次のページに向かいたがっている。


「面白いです」


素直に言えたのが、自分でも少し意外だった。


オズワルドは何も言わなかった。ただ、わずかに目の端が動いた気がした。


また来る、と言って彼は立ち上がった。


「あの」


ラティナは思わず呼び止めた。オズワルドが振り返る。


「……ありがとうございます。報告書のこと、覚えていてくださって」


オズワルドはしばらくラティナを見た。それから、短く言った。


「仕事だ」


そっけない返事だった。でも、扉に向かいかけた足が一瞬止まって、付け加えられた言葉があった。


「続きは三日後に聞かせてもらう」


扉が閉まった。


ラティナは鉄格子の向こうの棚を見渡した。次に開けるのはどれにしようか、と考えながら、この感覚を思い出せないでいたことに初めて気づいた。


母が生きていた頃、魔導書を前にするとこんなふうに胸が動いた。

それがずっと、ただの義務になっていた。


今、また動いている。


三日後、また来ると言った。続きを聞かせてもらうと言った。

ラティナは鍵を手のひらで握り直した。古い鉄の感触が、ひんやりと重い。


次に会うまでに、どこまで読み進められるだろう。

そのことだけを考えて、ラティナはまた魔導書に向かった。


読んでくださってありがとうございました!好きなもの詰め込んだ手慣らしの短編でした。体裁、手が空いたらもっと整えたい…


2026.5.6

誤字報告、本当にありがとうございます!

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〉⸻ 〉六 この部分だけ横線と漢数字の間に改行が有りません。 改行のみの誤字報告はできないので、こちらに記載失礼。
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