その5 白の獣
鉱山の入り口へと急行した忠敬たちがみたものは、混乱の渦中にある現場であった。
警備隊らしき一様の鎧を身につけた男達が、鉱夫たちを次から次へと鉱山の中から避難誘導している。
だが鉱夫たちの表情は、恐怖や困惑だけではなかった。
何故避難しなければならないのか理解しておらず、不満気な者、仕事から解放されて単純に喜ぶ者。
鉱山から流出する人の波に逆らって、今にも鉱山の中に戻りそうな者さえいた。
さすがに実行に移す者はいないようだが、警備隊の誰かに理由を尋ねてはある一点へと視線を寄越して青ざめる。
入り口より離れた場所に建てられた仮設テント。
そこで治療される鉱夫、その程度は頻繁ではないとはいえ普段から見られた事であろう。
事の深刻さを最も表しているのは、地面に寝かせられた上にボロ布を布団のように被せられた鉱夫の姿であった。
ボロ布だけでは隠し切れない血の濁流が、地面を伝って溜まりを作り出している。
顔から足の先までボロ布を被せられても文句一つ言わない姿が、何よりも異変を周りに知らせていた。
ボロ布で隠されているとは言え、忠敬も初めて見るモノ言わぬ人の姿に、我知らず体が震える程であった。
上手く足が動かず蹴躓いたところで、小春に手をとられてたすけられる。
「若、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。直視さえしなければ……」
言葉通り避けようとしても、まるで死体と瞳が共に磁石同士となったように吸い寄せられてしまう。
この後数日の間は夢に見るかもしれないと思いながら、頭を振る。
振り払わなければ、その場から一歩も動けそうにはなかったからだ。
「わしはこの鉱山の警備隊長と顔見知りだ。今から会ってくる。その間にお主らは、件の魔物についての情報を集めてくれ。怪我人から聞くのが一番手っ取り早いだろう」
「分かったでござる。小春殿、若にはまだ早かったかもしれん。今からでも」
「だから大丈夫です。ちゃんと自分で歩けますから。魔物とやらの情報を聞きに行きましょう」
自分を支えてくれていた小春の手を放し、言葉通り自分の足で仮設テントへと向かう。
重傷者は既に応急処置を済ませて運ばれたのか、仮設テントには比較的軽傷の鉱夫が多かった。
その中でも一通り治療が終わり、放心気味の鉱夫へと近付く。
幼い身の忠敬では色々と説得力に欠ける為、相手の精神状態も考えて小春に尋ねてもらう。
「あの、少しお話しを聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」
「はは……とんだ地獄を見たと思ったら、その後には良い事があるみたいだな。こんな美人さんに会えるなんてよ」
三十代頃の鉱夫は、椅子に座りながら小春を見上げていたが、言葉程には幸運を感じていないようであった。
ただもう、今の状況に笑うしかないといった様子である。
怪我の容態は左腕に巻かれた包帯と額の擦り傷、軽傷の部類であるが、表情が剥がれ落ちるように消えていた。
「辛い事を思い出させるようですが、魔物に襲われた時の状況を教えてもらえますか?」
「ああ、そう言う事か……俺たちが採掘した原石を運搬用の台車で地上にまで運んできた時の事だ。奴はまるで空からでも降ってくるように突然現れた」
語るごとに苦痛を伴うように、目の前の鉱夫は頭を抱え始める。
「真っ白な、二本足の獣だった。まるで精霊様を間近で見たような感覚さえ覚えた。口説き落とす相手に使う綺麗や美しいって言葉が霞むぐらい、桁外れの美しさだ。だが触れた部分を切り裂く、刃のような美しさだとは直ぐには分からなかった。台車を引いていた新入りが最初にその爪で切り裂かれるまでは……」
そこで鉱夫の男は、ボロ布で裂かれた体を覆い隠している死体の男へと視線を投じた。
語り続けた唇を噛み締め、拳を強く握る。
「ちくしょう。なんでこんな事に、あいつ……小さな村から出稼ぎに来たばかりで。仕送りで家族を楽にさせるんだって」
もう一度ちくしょうと呟いた鉱夫の男は、それ以上言葉を紡ぐ事は出来ない様子であった。
未だ痛むであろう左手で握られた拳が、震えている。
もしかするとこの男もまた地方から出稼ぎにきているのかもしれないが、それはわからない。
それ以外に特別親しくしていた相手か、これ以上は話を聞けないし、何も言葉にする事は出来なかった。
「貴重な情報ありがとうございました」
最低限の言葉だけを置いて、小春が男のそばを離れる。
他にも目撃した魔物の事を聞いてまわったが、おおまかに同じような話であった。
見た事もないような美麗な魔物。
突然現れたそれは、一頻り暴れると駆けつけた警備隊員を振り切って鉱山の中へと消えていったと言う事だ。
オズワルドの言った通り、目撃証言は仮設テント内が一番多く、それ以外では何も聞く事はできなかった。
分かったのは、雪のように白い体毛を持つ二足歩行の獣が、件の魔物だと言う事ぐらいである。
ただ逃げ込んだ場所が鉱山の中となれば、暗所でその白い体毛は格好の目印となるはずだ。
一度その事を伝えようと、警備隊長のところへ向かったオズワルドのもとへと向かう。
近場にいる警備隊員に居場所を尋ねながら辿り着いたのは、警備隊の詰め所であった。
「ああ、お主ら戻ったか。早速、聞いてきた魔物の情報を教えてくれ」
会議机に置かれた坑道内の地図を前に立っていたオズワルドは、別れ際とは様子が違っていた。
明らかなのは余裕がなくなっている事だ。
その理由は、机を挟んだオズワルドの向かいにいる警備隊長に関係があるのかもしれない。
焦りを浮かべながらも成すべき事を成そうとしているオズワルドに対し、警備隊長は挙動不審にも見える程におたついていた。
思わずこの人は誰なのかと言う視線を忠敬たちが向けると、オズワルドが白髪を乱暴にかき乱しながら言った。
「こやつの事は気にするな。わしの知らん間に、警備隊の隊長が代替わりしとったそうだ。まったく、あやつめ。せめてわしぐらいに一言……それ以前に、引継ぎぐらいしておけ。おかげで隊員が右往左往しているではないか」
どうやら、事件が起こり忠敬たちが駆けつける間にもまだ、避難が終わっていなかったのはその辺りの事が関係しているらしい。
二次、三次の被害が出なかったのは、ただの幸運なのか。
窓の外を眺めてみれば、避難は今になってようやく終わろうとしているような状況であった。
「オズワルドさん、たいした情報は得られませんでしたが。件の魔物は、白い体毛を持つ二足歩行の獣と言うことです」
「白い体毛……ワルフマンの奇形か? それにしても森の番人とも呼ばれるワルフマンが鉱山なんぞに」
「魔物の正体など、どうでも良い!」
忠敬の報告を聞き、違和感に眉をひそめたオズワルドに対し、問題はそこではないと指摘する声が上がった。
発生源は、つい先程忠敬たちが入ってきた詰め所の入り口。
声につられ振り返った先に居たのは、三十代半ばの歳若い男であった。
染み一つない真っ白なシャツの上に黒のベスト、小奇麗な格好の上からやや擦り切れた感のあるマントを羽織っている。
そのマントの止め具についているメダルには、文様のようなものが刻まれていた。
「りょ、領主様!」
これまでずっとオズワルドに脅えるように黙りこくっていた警備隊長が、助けに飛びつくように領主と呼んだ男の前に駆け寄っていった。
だがそれ以上近付くなとばかりに、領主に付き従っていた護衛の手によって遮られる。
「ええい、近寄るな下郎。この鉱山の重要性もわきまえず、魔物の侵入を許した挙句、機能停止に追い込むとは無能極まりない。私は無能は嫌いだ!」
「で、ですが領主様。この鉱山に魔物が現れるなど聞いた事も」
「口答えまで……私を誰だと思っている。領主だぞ。お前達、この無能者を連れて行け!」
そんな領主の言葉を切欠に、護衛の一人が警備隊長の腕を掴もうとしたところでオズワルドが待ったの声を上げた。
「領主さんよ。そいつはちと待ってはくれんか。ただでさえ混乱する現場で、警備隊長を拘束されたとあっちゃ警備隊の隊員たちが動揺する」
「貴様も口答えを……その赤いコート。貴様、オズワルドか。ふん、命拾いしたな下郎。この男に免じて一度だけ許してやろう。寛大な我に感謝せよ。ただし、口を開くな。二度目はないぞ」
護衛から解放された警備隊長は、自らの口を両手で塞ぎながら何度も頷いていた。
一連のやり取りを端で見ていた忠敬たちは、呆れ返って言葉もなかった。
領主が変わり税が引き上げられた事などは耳にしていたが、聞きしに勝るとはまさにこの事。
安全も確認されていない場所に最重要人物が現れては、しかも現場に口を出せば混乱するに決まっている。
しかも窘められた側であるにも関わらず感謝しろとは、自作自演ではないが、呆れるより他に無い。
その事が三人とも隠しきれずに表情に出てしまっていたが、幸運にも領主はオズワルドにのみ視線を向けていた。
「それではオズワルド、領主として命ずる。鉱山を機能停止に追い込んだ憎き魔物を見事討伐してみせろ」
「それは領主から正式に冒険者の組合に依頼と言う事で良いですかな? まあ、有能極まりない領主様ならば、既に組合には依頼済みとは思いますが」
「と、当然だ。私は国王から国の国庫とも言える鉱山を預かる身だ。金の使いどころは心得ておるわ。無用な心配をするでない」
そう断言した後、直ぐに領主は秘書らしき小柄な女性に耳打ちを行った。
どうやら護衛の影になっていて見えなかったが、最初からいたらしい。
それにしてもそんなに堂々と耳打ちしては、これから依頼を組合にまわすと言っているも同然である。
分かっていても見て見ぬ振りをするのも、大人というものだが。
「では、領主様はここでお茶でも飲みながら、ゆるりと吉報をお待ちくだされ。おい、さっさと領主様にお茶を出さんか。気の利かん男だな」
警備隊長を気の利かない男としてしたてあげたオズワルドは、机の上の地図を丸めて出入り口へと向かう。
慌てて忠敬たちもその後を追うが、残された警備隊長は涙目であった。
何しろオズワルドがお茶と言った事から、領主は本当にお茶が出るものだと待ち構えている。
だが警備隊の詰め所に、領主を満足させるようなお茶があるはずがない。
例えあったとしても、素材を満足に生かせる腕を持った者などさらにいない。
警備隊長が領主の機嫌を損ねる事は決定事項。
領主をこの詰め所の中から出さないように、オズワルドがあえて警備隊長を名指した事は間違いなかった。
案の定、忠敬たちが詰め所を後にして程なく、領主の怒声が響き渡っていた。
「なんだか、少し可哀想ですね」
「なに、適材適所と言う奴だ。会議机が使えないのは不便だが、あの男一人の犠牲で有能な領主様がしゃしゃり出てこないだけありがたい。後は、速やかに討伐隊を編成して魔物を討伐してしまう事だ」
「全く、人の上に立つ者がアレでは仕える方も大変でござるな。他人事とは言え、心配になってくるでござる」
確かにあの領主にしゃしゃり出てこられたら、困るのは目に見えている。
警備隊長も困った領主と老練なオズワルドを一手に相手取ってしまったのが最大の不幸であった。
「一先ず領主の事は置いておくでござる。オズワルド殿、俺や若の役目には討伐隊として加わる事も含まれているでござるか?」
「いや、死人が出ている以上、この仕事は銀のカード以上の冒険者限定だろう。お主はともかくとして、坊やお嬢さんは完全に範疇外。雑用以上の事をさせるつもりはない」
「寅之助さんと比べられても困ります」
「まあ、そうなんですけどね」
複雑な心境で小春の言葉に忠敬が同意を示す。
「これからやってくる冒険者たちで四人前後で一組の討伐隊を組み、逃げ遅れた鉱夫を探しつつ魔物を討伐。寅之助にはわしと組んで一隊を構成するつもりだったのだが……事情が変わった」
「もしかして、警備隊の事ですか?」
「なかなか聡いな坊。良く良く周りを見てみれば、警備隊長が代わっただけではなかった。警備隊員の中にほとんど見知った顔がない。これでは安心して討伐のみに気を注げん」
「と言う事は、俺とオズワルド殿は万が一魔物が鉱山を飛び出した時の為の、保険でござるな」
「まったく、ファーガスの奴め。今頃、何処で何をしているのやら。心配かけよって」
それが前警備隊の隊長の名前なのか。
半分恨めしげに、もう半分は身を案じるような呟きであった。
鉱山の入り口前数メートルの所に集められたのは、二十人を超える冒険者と、同数の警備隊員たち。
それぞれが四人前後で隊を組んで、オズワルドの前に並んでいる。
本来ならばそれぞれ命令系統どころか立場さえ違う両者であったが、今のところ目立った混乱は見られなかった。
多少のいざこざの種はあれど、オズワルドに従う事に不満はないようだ。
冒険者たちは忠敬たちの知らぬオズワルドのネームバリューが、警備隊員たちはあの隊長以外なら誰でもといった様子である。
そんな混成の部隊を前に、オズワルドからの説明が行われた。
基本的な方針は冒険者たちが鉱山内部を探索し、逃げ遅れた者が居れば救助を、魔物は発見次第に討伐。
警備隊員たちは鉱山周辺を探索し、他に魔物は居ないか調査する隊と、鉱山から魔物が逃げ出さないように待機する隊に分かれる。
魔物と戦う事に慣れている冒険者と周辺に詳しい警備隊員の特性を考えた区分けであった。
もちろん余計なトラブルを生み出さない為の区分けでもあるのだが。
「以上だ。諸君の迅速な行動を期待する」
オズワルドのその言葉を最後に、各隊が行動を始める。
冒険者たちは魔物を討伐すれば特別報酬が出る為、文字通り迅速に、我先にと鉱山へと向かう。
対して周辺を探索する警備隊員たちは嫌そうにのろのろと、待機組みは気楽そうに雑談を交わす。
なんとも対照的な姿に仕方がないとは言え、オズワルドは頭が痛そうに眉間に皺を寄せていた。
「奇しくも、オズワルド殿の危惧した通りになったでござるな」
「まったくだ。ファーガスの奴、部下まで全員連れていって今さら傭兵にでもなるつもりか。まあ、よっぽどの事がなければ中に入った奴らが魔物を討つとは思うがな」
ただ待つと言うのが一番辛いとばかりに溜息混じりに、オズワルドが呟いた。
「お茶、飲まれますか?」
「ああ、頂こうか。何処かの誰かさんとは違って気が利くお嬢さんだ。そうそう、依頼の事だがな」
小春に差し出されたお茶に一度口をつけてから、思い出したようにオズワルドが言う。
「寅之助には、洞窟内に入っていった者と同じ討伐依頼を。もちろん魔物を討てば特別報酬も出す。お嬢さんと坊には、雑用の依頼として後で報酬を渡す。本当は依頼前に仕事をさせてはいかんのだが……」
「緊急事態なら、規則通りにいきませんよ。それに聞き込みをしたり、警備隊員の人たちを集めたり、本当に雑用しかしていないですし問題ないです」
「お茶を出したり、ある意味何時もと変わらないですよね」
何時魔物が飛びだしてくるとも限らず、立ったままお茶を飲む。
今はまだ静かなもので、お茶を一杯飲んでいる間に手持ち無沙汰となっていく。
緊張感の保ち方が上手いのかオズワルドと寅之助はそうでもないが、忠敬と小春は少し落ち着きがなくなってしまう。
雑用はほぼ終わっているのでここに居る必要もないのだが、一応請け負った仕事なので最後まで見届けたいのだ。
だがそれでも、辛いものは辛い
「若、心血を注いで入り口を監視するから疲れるのでござる。注意はしても体は最低限の準備状態を保てば良いでござるよ」
寅之助の助言でさえも、体に妙な力が入って疲れを増やす要因となってしまう。
少し体を解そうと柔軟運動を開始した忠敬の視界に、一人の女性が映った。
警備隊の詰め所がある方から歩いてくる。
上はブラウスにジャケット、下はタイトスカートと近代的な格好をした小柄な女性である。
「あれ、秘書さんどうかしましたか?」
忠敬の言葉に、寅之助たちも領主の秘書が近付いてきている事に気付いた。
「領主様が事の経過を気になさっていましたので。代わりに私が様子を見に来ました」
「そいつはせっかちな事で。まだ始まったばっかりだ。果報は寝て待てという言葉を知らないのかね。領主様は……」
「お忙しい方ですので、大切な鉱山の一大事とは言えここにばかり目を向けているわけにもいかないのです」
秘書とは言え依頼主に直接監視されているようで、さすがのオズワルドもこの状況は勘弁して欲しいと表情に表れていた。
先程までは適度な雑談で余計な緊張を緩和していた警備隊員たちも、雑談を控え、背筋を伸ばして入り口の見張りを行っている。
これはなんの拷問かと、過ぎた緊張感の中でこちらを飲み込むかのような鉱山の入り口を監視し続ける。
だがこの状況を作り出した秘書は、微動だにしない
領主のもとへと報告に戻るでもなく、何かしろとオズワルドに指図するでもなく。
せめてどちらかの行動を起こしてくれればあしらえるものが、切欠一つ与えるつもりはないらしい。
さすがにそんな状況が一時間近くになろうとすると、
「もしかして、コレが原因かファーガス」
オズワルドの口から今は居ない知り合いへと愚痴が零れた。
変化が訪れたのは、そんな時である。
明確に目の前の鉱山の入り口に変化があったわけではないが、明らかに空気が変わった。
オズワルドや寅之助のような実力者でなくとも分かるぐらいに。
心の中だけに持っていた緊張感以外に、この場の空気を冷たいものへと変える何かが鉱山の入り口より放たれていた。
その何かが、ゆっくりと姿を現す。
誰も踏んだ事のない新雪のような白さを持った体毛を鮮血で濡らし、二本足で立つ獣。
顔は狼に似ており、手足も狼のそれとは変わりがないように見える。
獣が息を吸い込むように仰け反った瞬間、ファーガスが叫んだ。
「ぼけっとするな。退避だ!」
それはより近くに居た警備隊員たちへと向けられた叫びであったが、間に合わなかった。
獣の口から放たれた凍てつく息吹が、放たれ広がっていく。
警備隊員たちがあげた悲鳴さえ、凍てつく吹雪が遮り消し去った。
十数メートル離れていた忠敬たちにでさえ、身が凍るような冷たさが届いてくる。
直撃した者がどうなったかは、あまり考えたくはないものだ。
「こんな事なら潜在魔術の事を……言っても詮無いこと。寅之助、へその下に気合を入れて続け!」
オズワルドの体から吹き上がった荒々しい気の風が、凍てつく冷気の風を薙ぎ払う。
火の入った炉のように熱が込められた体を弾くように、オズワルドが飛び出していった。
潜在魔術の効果に驚いたのも一瞬、刀を抜いて構えた寅之助は自身もまた一本の刀となったつもりで集中する。
精神を研ぎ澄まし、オズワルドに言われた通り丹田に意識を集め始めた。
するとこれまでに感じた事のない熱を、丹田から体の至るところに感じ始め、それが風となって体から溢れる。
気の風はオズワルドに劣り、不安定なものの寅之助も駆け出し、魔物へと斬りかかるオズワルドに加勢に向かう。
「若、秘書殿を連れて下がってくだされ。あの魔物、どうやら迷いの森で出会った狼とは格が違うでござる。小春殿は若の護衛を!」
「分かりました。寅之助さんも気をつけて」
「秘書さん、まずは離れましょう。僕らがここに居ても」
手を取り駆け出そうとした忠敬の手が、逆に引っ張られる。
いや、単純に身動きをとろうとしなかった秘書を引っ張りきれなかっただけであった。
訝しげに見上げた秘書の表情は、まるであの獣に魅入られたようにも見えた。
何を考えているのかと怒鳴らなければならなかったが、秘書の視線につられてそれを見た忠敬もまた、逃げる事を忘れてしまいそうになった。
白い獣は依然として吹雪を撒き散らすが、その吹雪の中をオズワルドと寅之助が引き裂くように駆け回っていた。
凍てつく息吹が潜在魔術の前に効果が薄いと分かると、白い獣は鋭い爪を持つ両腕を振るい始める。
その度に空気が引き裂かれ、冷えて生まれた小さな氷の粒が太陽光と交じり合って光り輝く。
さらにその光の中で、色の違う銀光がオズワルドと寅之助の手によって曲線の軌道を描いていた。
黄金と銀光が入り混じり、血で血を争う闘争を美しく仕上げている。
だが闘争は、どんなに美しくても闘争でしかなかく、獣は獣でしかなかった。
寅之助の刀がやや体毛が薄い腹を斬り裂き、オズワルドの大剣が右腕を斬り飛ばす。
獣は、人のような技術がない。
その証拠が戦闘開始していくらも経たないうちに斬り飛ばされた腕だ。
これが普通の魔物であったならば、討伐の完遂は目前。
異常に気付いたのは、オズワルドであった。
「コイツ、実体じゃねえ!」
肩口から腕をばっさり斬り飛ばしたのに血が出ていない。
斬り飛ばしたはずの腕が、宙を舞いながら僅かに膨張する。
「若、小春殿!」
そのまま一気に破裂した右腕は、寅之助の叫びを意に介することもなく、辺り一帯を包む風雪となって吹き荒れた。
まるで標高数百メートルの雪山に迷い込んでしまったかのように、視界が白に覆われる。
思わず両腕で顔を庇った忠敬は、小春が覆いかぶさって来るのを感じながらも何も出来ないで居た。
ただ、訪れるであろう風雪を耐える。
そのつもりであったが、何時まで経ってもそれが訪れる事はなかった。
「動かないでください。足元の円から出れば、保障は出来ませんので」
呟いたのは、忠敬と小春を守ったのは領主の秘書であった。
三人を囲むように炎が地面に円を描いており、その範囲内だけが風雪を凌いでいた。
「ありがとう、ございます。小春さんも……」
「命がけでしたが、これも役得です」
風雪を凌いでいるとは言え寒い事は寒いので、これ幸いにと小春が強く抱きついてきた。
頬ずりされた頬が冷たかったが、庇われた事は事実なので文句は言わずに黙ってそれを受ける。
「それにしても、これが精霊魔術という奴ですか?」
「護衛された領主ではなく、秘書が狙われる場合もありますので護身程度は身につけています。ですがアレはまだッ!?」
驚愕に秘書の言葉が途切れる。
炎が描く円の向こうにある一面吹雪の世界、その中からあの魔物が顔を出した。
失われた右腕はそのままだが、まだまだ満足に動き回れる姿で。
炎の熱に誘われたか、それとも偶然か。
オズワルドと寅之助の手を逃れた獣は、三人の目の前で唸り声一つ上げずに立っていた。
それを見た時はまるで、全ての時が止まってしまったかのようであった。
身動き一つとれず、雪原の化身のような白の獣を見続け、ふと忠敬の瞳にあるものが映る。
獣の額部分、そこに何か宝石のようなものがある事に気付いたとき、凍れる時の中を小春が動いた。
抱きしめていた忠敬を遠ざけるように突き放し、帯の中に納めていた短刀を抜きさる。
「若、お逃げください!」
まさに自殺行為、握り締めた短刀を体の前に立て、体ごとぶつかるように白の獣へと向かう。
当然、危機を感じて残っていた左腕が振りかぶられた。
「待ッ!?」
「させるかよ!」
薄れ始めた吹雪の中からオズワルドの声と大剣が伸びて、振り上げられようとしていた左腕を右腕と同じように斬り飛ばす。
「小春殿、伏せられよ!」
次に吹雪の中から飛び出してきたのは、寅之助の声と刀。
伏せ始めた小春を斬らぬよう、白い獣の首を、後ろから横一文字に斬り裂いていく。
抵抗を感じさせぬ滑らかさで首を両断した後、討伐完遂の余韻に浸る間もなかった。
寅之助は忠敬と小春をわきに、オズワルドは秘書の女性を抱えて逃げ出した。
どういうわけか、あの魔物は切り裂かれた部分が爆発するように吹雪となって吹き荒れる。
それを一介の生物と同じ位置づけで魔物と呼んでもよいものか。
細かい事は今は全てを投げ打って、全力で遠ざかる。
「火の精霊よ!」
秘書の女性がそう声をあげた瞬間、今までで最大の吹雪が吹き荒れた。
警備隊の詰め所にある会議室にて、忠敬は小春の抱き人形と化していた。
会議机に付属の椅子に座った小春の膝の上での事だ。
今この場には誰もいない。
領主は討伐完了の報告を受けて護衛を連れて帰り、責め苦から解放された警備隊長は事後処理に向かっている。
もっとも事後処理は警備隊員の数人が凍死、重傷者も多く大変なのは変わりない事だろう。
それに事後報告を受ける為に、領主の秘書は残っている。
オズワルドも責任者として大変だが、重軽傷者はともかく冒険者側に死者は出ていない為、楽だそうだ。
それに冒険者は自己責任と言う部分が大きい為、補償と言う言葉とは縁が薄いらしい。
まがりなりにも火急の依頼を終え、忠敬と小春は無事にお役御免。
討伐者の一人である寅之助は、警戒の意味も含めてオズワルドを手伝っている。
二人しか居ない部屋の中に、忠敬が暖かいお茶をすする音と、涙の名残として小春が鼻をすする音だけが響く。
「怖かったです、若。死んじゃうかと思いました」
安心を求めるように後ろから、より強く小春の手によって抱きしめられる。
忠敬の事となると、小春は考えるより先に体が動いてしまう。
チャップの護衛をした時も、いたずらイタチを発見した時には、忠敬を助ける為に突き飛ばしていた。
つい先程、目の前にあの白い獣が現れた時も、敵わないと知りつつ向かった。
結局は寅之助とオズワルドのおかげで無事だったが、その後は一目もはばからずにわんわんと泣いていた。
「もう、だったらあんな事は止めてください」
ついつい冷たい口調となってしまい、言ってから忠敬は後悔にかられた。
そうではない、突き放したいわけではない。
いつも助けてくれる小春には当然の事ながら感謝しているし、ありがたいとも思う。
だが、違うのだと思った。
(僕は、守られてばっかりだ)
自分が子供だという事を理解しているし、守られないで済む力があるとも思わない。
だからと言って、小春や寅之助に命がけで守られて感謝するだけでは終わりたくはない。
けれど今までは感謝をしてそこで終わっていた。
自分はそういうものだと、ここまでは出来てここからは出来ないと見切りをつけていた。
(もしかして、オズワルドさんが言っていたのってそこなのかな? 賢しい振りして見切りをつけるから、出来たかもしれない事を諦める)
子供という漠然とした物差しで物事をはかり、忠敬という物差しを持っていなかった。
だから出来なくて悔しいと言う感情が乏しく、そこから繋がる向上心が薄い。
(今の気持ちは大切にしよう。たぶん、これが悔しいって事だ。けど僕に出来るのかな、出来ないかもしれない事をする事は?)
ぽとりと、室内で雨が降る。
「え?」
何事だと上を見上げれば、泣き止んだはずの小春の瞳が今にも決壊して洪水となろうとしていた。
ぽろぽろと涙は零れ、ちょっと鼻水も流れて折角の美人が台無しすぎた。
「ちょっと、なんで泣いてるんですか。泣き止みましたよね、さっき確か!」
「若が、若がもう小春はいらないって……用済みだって。今までずっと若の為に小春の初めてをとっておいたのに!」
「何を急に、まるで事後みたいな事を言わないで下さい。鬼畜ですか、僕は。それに言ってません。危ない事はしないでくれと言いたかっただけで。ほら、鼻をかんでください!」
取り出したハンカチで涙を拭いて、鼻をかませる。
なんだかつい最近にも似たような事がと、その時は鼻血であった事を思い出した。
本当に、本当にこれさえなければと思いながら、顔を拭き終わると小春の手を取る。
「まだまだ僕には小春さんも寅之助さんも必要です。だから、いま少し見守っていただけるとありがたいです」
「はい、一生若にお仕えいたします」
一生はさすがに長い、とは忠敬には言えなかった。
ようやく泣き止んだ小春をまた泣かせるわけにもいかず、寅之助が呼びに来るまで小春の抱き人形で居続けた。
胸に抱いた悔しさを忘れないように、あの時の光景を繰り返し思い出しながら。
ども、えなりんです。
第五話をお届けいたします。
被害は甚大ながら、討伐完了。
ただ、主人公がまるで役立たず。
この辺りは少しずつ改善されていきます。
どこぞの子供先生のようにはいきません。
改めて、十歳が主人公なのはキツイものがあると思いました。
特に異世界微バトルものとしては……
それでは続きはまた来週。




