その20 幼すぎる妖精
小春とアイゼリアが調査を開始してまる三日、その成果は著しいものではなかった。
冒険者の組合にある雑談用のテーブル、その対面にて多数の依頼書と格闘する素振りを見せている小春を満面の笑みで眺めながら思案する。
分かった事といえば、件の盗賊がまだ新興勢力である事だ。
襲われた商人は二人、商隊は一つ。
迷いの森を利用した神出鬼没さはもとより、目撃情報そのものが極端に少なかった。
ただ一つ気になるのは襲われた商人の数が少ないわりに、商隊が襲われている事である。
通常新興の盗賊は、護衛の少ない商人を襲うものだ。
一人の商人に対して護衛は多くて二人、となると盗賊側は最低でも五人は欲しいところ。
これが商隊となると、商隊にも規模があるが、倍以上の盗賊が必要となる。
襲われた商隊は馬車二つに護衛の冒険者が七人、盗賊が強気に出るにはやはり倍以上の二十人は欲しいところだろう。
だが二人ばかりの商人を襲っただけの盗賊団が、それだけの人数を集められただろうか。
盗賊は護衛の少ない商人を襲い、それを繰り返す事で金の周りが良くなり、話を聞きつけた同業者が集まりやがて盗賊団となる。
もし仮に少ない人数で偶然が重なった事で商隊への襲撃が成功していたとしたら、急がねばならない。
思案を続けるアイゼリアの頬が、ふいに摘み上げられた。
「ふぇい?」
「頑張って割りの良い仕事探してるんだから、目の前でしかめっ面しないでよ」
ちょいちょいと自分の眉間を指差しながら、小春が困り顔で指摘してきた。
額面通りの意味ではなく、セリアという演技が剥がれかけていたという意味の指摘だ。
さすがに三日目にもなると集中力が落ちていたかと、改めてセリアになりきる。
頬を摘む手を振り払い、大げさに両手を持ち上げてらしく見えるように苛立ちを表す。
「もう、どれでも一緒だよ。小春は、本当に凝り性なんだから!」
「感謝してください。そのおかげで、これまで無事にやってこれたんですから」
皮肉げに呟きながら、小春が手元にある数枚の依頼書へと視線を落とす。
振りをして、換わらず周囲へと気を配り始める。
唇を尖らせ不満ありありの顔を作ったアイゼリアは、心の内で感嘆していた。
この三日間、小春と二人で冒険者の組合へ入り浸っていたが、その行動にそつがないのだ。
常に壁を背負い、建物の中を見渡せる位置に陣取り、さり気なく周囲をうかがう。
一度見た人の顔は忘れず、辺りをつけたらさり気なく近付き、会話の内容を盗み聞く。
まだ決定的な証拠はないが、怪しい人物の当たりは何人かにつけていた。
今座っているテーブルも、その怪しい人物が陣取っているテーブルの隣である。
「退屈なら、何か飲み物でも飲みますか?」
これまでにない唐突な提案に一瞬、反応が遅れた。
「飲んでなきゃ、待ってられないよ。」
だがテーブルの中央に勧められたメニューを前に、身を乗り出して覗き込むふりをする。
案の定と言うべきか、同じく身を乗り出した小春が囁いてきた。
「そのままメニューを覗いて動かないで下さい。今丁度、組合へと入ってきた男の人。盗賊のアジトで見た人です。見張りに注意を促がしていた」
アイゼリアは記憶の中に全く残っていないその男を思い出せず、思わず振り返りそうになる首を必死に支えていた。
横目でその男を確認しようとするも、それが誰であるかまでは分からなかった。
「よう、旦那。景気はどうだい?」
「悪かねえな。だが、南はもっと悪かねえ」
二十代を過ぎた頃の青年が声を掛けたのは、四十代近いやや小太りの男であった。
他にも何人か怪しい人間はいたが、彼が最たるものである。
何しろ組合にやってきては掲示板を見に行くわけでもなく、いきなり雑談用のテーブルを占拠するのだ。
そして何をするわけでもなく時間を潰し、今のように新たにやってきた人間と景気の話をして南と答え、立ち去る。
これまで確信は持てなかったが、見覚えのある青年が現れた事で確信に変わった。
「南のカータレットは宝石があるからな。三日ぐらいかけて、知り合いかき集めて出稼ぎにでもいきやせんか?」
「やっとかよ。これで退屈な仕事ともおさらばだ。もっと派手にやりゃいいものを」
男が嗜虐的な笑みを深め、青年の顔色が変わる。
椅子を引いて隣に座ると、出来るだけ声を潜めて耳打ちしていた。
さすがの小春も耳打ちまでは聞こえないが、内容はだいたい想像できる。
あからさまな台詞を吐いた男とは違い、青年の方は注意深く、情報を取り扱う者としての心構えがあった。
拠点の前で見張りにも注意を促していた事からも、それは分かる。
「ちっ、うっせーな。俺はもう行くぜ。お前はどうするんだ?」
「はぁ……どうぞお先に。俺は俺で、期日までにやる事がありますから」
促がされた注意が気にくわなかったのか、男が不貞腐れた様子で立ち上がる。
だがそれでも一応という様子で青年へと誘いをかけたが、素気無く断られ一人で出入り口へと向かう。
その様子を見送った青年は、改めて席を立つと依頼書が張り出されている掲示板へと向かった。
男と青年、どちらもが距離を取った事で、小春はアイゼリアへと確認した。
「恐らく、三日後に拠点へと全員集合みたいですね。どうしますか? 改めて、どちらかを襲って情報を得る必要はないと思いますが」
「情報の収集はここまでです。一度宿に戻りましょう…………もう、物でつらないで。小春がさっさと決めれば済む話じゃない!」
「はあ、分かりましたよ。また何か奢れば良いんでしょ。結局、私が貧乏くじを引くんですから」
「何時もの事、何時もの事。さあ、行こう。直ぐ行こう」
アイゼリアが諸手を挙げて喜ぶ様子を見せて立ち上がり、小春の腕を引っ張る。
小春は溜息をつきながら、アイゼリア扮する少女セリアに連れられ、出入り口へと向かう。
初日のように二人を追うような足音もなく、二人は組合を出るなり駆け足で宿へと向かった。
宿の裏庭にて剣術の鍛錬をしていた二人を、帰ってくるなりアイゼリアと小春が部屋へと引っ張り込んだ。
もちろん、一度先に部屋に戻って変装を解いた後にだ。
現在時刻はまだ昼を少し過ぎた辺りで、少々早い帰還に忠敬も寅之助も何かがあったと察していた。
そんな二人へと、つい先程に冒険者の組合で盗賊の仲間が口にした会話を説明してから、アイゼリアは結論付けた。
「恐らく彼らは、近日中に商隊を襲うはずです。既にどの商隊を襲うかまで、目星をつけている事でしょう」
「やれやれ、ようやく退屈な監視もおさらなか。アレは退屈でしょうがない」
忠敬の首元に戻ったアディの待ち焦がれた感のある言葉に、アイゼリアが頷いて返す。
彼らが襲撃を開始する前に、それを察知出来たのは幸運であった。
結局の所、彼らの盗賊団としての規模を詳細に知る事は断念したが、商隊への襲撃前に壊滅させる事が出来る。
恐らく今回襲う商隊は、かなり大掛かりな商隊となるはずだ。
盗賊団の身の丈に合わない規模の。
彼らは二度商人を襲い、自信を付けたところで商隊を襲い、これに成功してしまった。
これに失敗していたのなら、まだ話は違っただろう。
だが実際には、とんとん拍子に盗賊稼業が上手く行ってしまい、拠点の方も見つかる心配はない。
仮に襲撃に失敗したとしても、各自バラバラに逃げ、拠点に逃げ込めば良いのだ。
だが襲撃が失敗した際に、誰一人捕縛されずに逃げ帰る事など不可能だ。
そうなれば、迷いの森にある抜け道が、見ず知らずの冒険者の耳に入り、やがてそれはベルスノウ全体へと広まる事は避けられない。
「三日後の全員集合の時を見計らい、彼らを壊滅させます。その為にも、一足早く戻り、仁志殿、また精霊の方々にも勇士を募ります」
「確かに一人も逃せない以上、人では多い方が良いです。ただ、精霊の皆を戦力として数える事は難しいと思いますよ?」
「それは……何故でしょうか」
ベッドに腰掛ける小春の膝の上から、戦力の必要さを理解しながらも否定的意見を忠敬が述べた。
尋ね返したアイゼリアの言葉が詰まったのは、否定的意見よりも、忠敬に後ろから抱き着いている小春のせいであった。
ちなみに忠敬が小春の膝の上にいるのは、ご褒美である。
もちろん、忍としての仕事を立派に果たした小春への。
まだ盗賊を殲滅したわけではないので、気を抜くには早いのだが、小春も色々と限界であったのだ。
アイゼリアが共にいたとは言え、この三日間ずっと目に映る人を全て疑い神経を削り尖らせ。
今は無心となって削った精神を補充しようと、忠敬に抱きついて頬ずりしたりしていた。
「若……ああ、若の匂いがします。あとお風呂と添い寝と、出来れば若の筆おロッ!?」
「小春殿、若を堪能するのは構わんが、その口は閉じてくだされ」
「うう、すみません。若が好きにして良いって言われたもので」
寅之助に拳の裏で叩かれ、我に返った小春がさすがに謝罪を口にした。
これが稲葉の家の中での事なら反論したかもしれないが、稲葉家が実質的に仕えるアイゼリアを前にやりすぎたと感じたらしい。
ただ、それでも忠敬を膝の上から解放するつもりはないようだが。
「忠敬、我ならば請われるより前に手伝うつもりでいたぞ。お主を護る事は当然として、あれで共に戦うという事も悪い戯れではない」
「アディさんの事は信じています。ですが彼らが力を奮うと、下手をすれば森が破壊されてしまいます。使いどころは難しいですよ?」
力の行使を禁じられた場合、その身で戦わなければならなくなる。
アディやコマは、まだしもゲンは亀を模倣した姿であり、レインは鳥だ。
前者は動きが鈍く、後者は森の中で自在に飛べという方が難しい。
「一応声を掛けてはみてください。ないとは思いますが、仮に盗賊の一部をとり逃げした場合に、精霊の怒りとして恐怖を与える事も出来ます。彼らは、そこにいるだけで十分意味があります」
「分かりました。特に治療の出来るエチゼンさんの力は借りたいですし、可能な限り声をかけてみます」
「では稲葉家とアイゼリア殿のみならず、森の精霊も総出で盗賊を討伐すると。前回の領主の時と言い、若は戦に恵まれていますな」
侍を目指す身としては、喜ぶべきところなのだろう。
ただやはり実際に刀を振るい、人と刃を交える事には戸惑いがある。
侍になりたいはずなのに、おかしな矛盾が胸のうちで燻っていた。
前回は小春の忠義に報いるのに必死だったおかげで、余計な事は考えなくて済んだのだが。
寅之助のように喜ぶまではいかなくても、いずれ動じない時が来るのかどうかは分からない。
「アディさん、申し訳ないのですがその時はまた、お願いしますね」
「ん、当然の事だ。我に任せておけ」
だから未熟な自分が皆の足を引っ張らないように、アディに助力を願った。
「では今直ぐにでも宿を発ち、稲葉の家へと戻ります」
アイゼリアの決断を聞き、早速忠敬達はベローウッドの街を発つ事にした。
稲葉の家から数メートル離れた茂みの中から、マルーはただ眺めていた。
堅く閉じられた門前には火の精霊であるコマが、じっと座り込んで目を光らせている。
コマが怖いわけではない。
前回、稲葉の家へとお邪魔した時は、空から入ろうとしたところでコマに見つかり、門から入れてもらった。
既に顔見知りの間柄で、怖い等という感情が胸に浮かぼうはずもない。
本当に怖いのは、マルーが住む村の長老であった。
「う……今思い出しても、怖いかも」
昨日に稲葉の家を後にしてから、こってりしぼられた。
長老が誰かに対してあれ程までに怒りを露にしたのは初めての事であった。
周りもどうなだめれば良いか分からず、マルーが持ち帰ったお土産に興味津々。
ようやく解放された頃には、お土産は食べつくされ影も形も残ってはいなかった。
しかもである。
長老の怒りように脅えている間に、わけもわからず二度と会わないと約束させられてしまったのだ。
「思い出したら、お腹すいてきた。もう、いいもん。とっつげき!」
後の事なんて知るものかとマルーは、氷の羽を羽ばたかせ、コマのもとへと飛んでいった。
コマの方も、直ぐにマルーの来訪に気付いたようで、炎の尻尾を振りながら出迎えてくれた。
「いらっしゃい、マルー」
「こんにちは、コマ。ねえ、薫子か仁志いる? 忠敬でも良いけど」
「え、二人なら朝方に出かけたよ? 忠敬達もまだ帰ってきてないし」
「え、嘘……」
マルーの言葉にコマが驚き、そのコマの台詞に今度はマルーが驚いてしまう。
二人の間で奇妙な沈黙が降り、無為な時間が過ぎ去っていく。
先に復活を遂げたのは、二人が出かけた事を告げただけのコマであった。
「夕方には戻るって言ってたけど……さすがに、誰もいないのに入れてはあげられないよ?」
コマは火の精霊なのだが、まるで番犬のような事を言った。
「長老の言いつけを破ってまで来たのに……ねえ、あの畑にあるイチゴで良いから頂戴?」
「駄目、あれは仁志が大切に育てているものだから。本人の了承なしに採ったら駄目」
「なによ、ケチ。別に貴方が育ててるわけじゃないじゃない。一個よ、一個。それだけで良いの!」
「マルーも、知らないうちに自分のものが食べられたら嫌でしょ?」
コマの正論に、マルーが我が侭の勢いを削がれ口ごもる。
何しろ、昨日に持ち帰ったお土産を皆に勝手に食べられたばかりなのだ。
コマの言葉が身に染みてしまった。
一度認めてしまった以上、そんな事は関係ないとはさすがに言えなかった。
せいぜい、なにか言い返したいが何も言葉がなくて唸る程度。
だが元々、我慢という言葉を殆ど知らずに気ままに育ったのがマルーだ。
マルーだけではなく、殆どの妖精がそうである。
気ままに森の果実を食べ、お酒にしたものを飲んで、騒いで踊って。
それが昨日の一件から長老には怒られ、皆にはお土産を食べられ、コマには駄目だと言われ、我慢の限界も近かった。
胸の内に鬱積する思いを器用に受け流す事も出来ず、さらに溜めに溜め込んでいた。
となると、後は胸の内に溜まったそれらを爆発させる事でしか、気持ちを表現する事は残されてはいなかった。
「うー、もう。なんで私ばっかり、なんか胸がもやもやして嫌。なんでよ!」
宙に浮かんだまま、癇癪を起こして暴れ始めてしまった。
あちらこちらへと手足を伸ばし、姿勢制御の方法を失ったかのようにクルクルと回る。
これにはさすがのコマも対応に困ってしまい、どうして良いかと眉根をひそめていた。
だがマルーの癇癪をそう長い間、暢気に眺めている事は出来なかった。
何故なら、マルーが暴れる事で彼女が持つ力までも暴走しようとしていたからだ。
「嫌い、嫌い。皆、大嫌い!」
マルーの背にあった薄いブレード状の氷の羽が肥大化する。
まるで長老が力を行使した時に、枝葉の羽がざわめいたように、マルーの羽が震えた。
甲高い耳鳴りのような音が響き、それに伴うように周囲の気温も下がっていく。
やがて冷えて冷気となった空気の中に、つららを鋭く鋭利にした氷の柱が現れた。
明らかな危険を察知して、コマも自らに宿る火の力を増大させる。
たてがみ、四肢、尻尾とあらゆる場所から炎を猛らせ、マルーの冷気に対抗し始めた。
「マルー!」
この時、コマが叫んだのは明らかな失敗。
少しでもマルーの心情を察して、優しくなだめるべきであっただろう。
だが、コマもまた多感な心というものをまだ理解しておらず、感情の赴くままに叫び、唸る事しか出来なかった。
どちらも気ままな妖精と精霊であり、高ぶる感情を持て余してしまっていた。
「大嫌いなんだから、私の名前を呼ばないで!」
だからこそ、持てる力を振るうしか方法は残されていなかった。
マルーが意図せず生み出した氷の柱がコマへと、そしてその背後にある稲葉家の門へと向かう。
その数、五本。
人が一本でもその胸で受ければ、貫かれ絶命するには十分の代物であった。
コマ自身は氷で貫かれようが本体の精霊石さえ無事ならば、幾らでも復活は可能である。
多少の消耗はするものの、それはアディが証明していた。
だが、彼が住み着き、護ろうと決めた稲葉家の門はそうはいかない。
傷つけられれば跡が残り、その傷が大きければ破壊に至る。
それはとても許容出来ない事であり、コマはより身体より炎を発して門を護りに入った。
渦巻く炎がコマを取り巻き、さらに肥大化して炎の壁として放たれた氷の柱を飲み込んだ。
炎が踊り、水が蒸発する音が耳に残る。
「あ、うぅ……」
「一つ忠告するよ」
あまりの熱量に脅かされながら、ほんの少しだけマルーが正気に戻った。
炎の勢いもそうだが、自分がしようとした行為に自分で驚き、困惑していた。
そんなマルーの前へ、炎の嵐の中から歩み出てきたコマが睨みつける。
「僕はここを護るって決めたんだ。そこを攻撃するって言うのなら、容赦はしないよ? マルーの事は好きだけど、薫子たちみたいに絶対じゃない」
「それでもやる?」
「ッ…………」
さらに眼力を込めて、コマが睨みを利かせた。
完全にマルーを敵と定めた瞳の光に、謝罪を口にしようとしたマルーの言葉さえ止まる。
本当にそれが謝罪の言葉なのかは定かではないが、タイミングは確実に逃していた。
何を口にしようと、何をして謝罪を形にしようとコマは許してはくれない。
マルーに出来たのは先程の癇癪のように、行き場を無くした感情を涙で表現して去るのみであった。
「う、ぐ…………」
稲葉の家に、コマに背を向けたまま何処へともなくマルーは飛んでいく。
向かう先が稲葉の家でも長老がいる妖精の村でもない事だけは定かであった。
感情に任せて泣き叫ぶなど、マルーにとっては初めての事であった。
妖精は生まれた時から外見年齢が大きく変わらず、赤ん坊や、幼少期というものが存在しない。
長老が老人の姿なのも、長老としての威厳の為にわざとあの外見年齢でいるのだ。
マルーも生まれた時には既に今の姿で、長老から村の暮らしを教わって仲間と共に過ごした。
食べていくものは長老が様々な果実を実らせる木々を村の中で育て、皆に行き届いており、取り合うこともなかった。
それをそのまま食べたり、お酒にして飲んで歌って、踊っての繰り返し。
変化はないがそれなりに楽しい、楽しい事だけがある村で過ごしてきた。
だから瞳から零れるものが涙というものである事や、今の自分が抱く気持ちが悲しいというものでさえ知らなかった。
長老に護られ過ごしきた事で、感情の殆どが楽しい事に向き、負の感情を知らずに育ってしまったのだ。
妖精たちはある意味で、とても歪な心を抱えていた。
「ひぐ、えぅ。あう……」
泣きはらし、涙を拭う手の動きもぎこちないまま森の中をふらふらとマルーは飛んでいた。
その間に危険な動物に襲われなかったのは、彼女が泣きはらすままに振りまく冷気のおかげであった。
冷気を生み出す大本の力が強く、危険を感じて襲ってこなかったのだ。
だからマルーは、ふらふらと感情が赴くままに飛ぶしかなかった。
村には戻れず、稲葉の家にもいけず、そのどちらもがない森の北東へと。
当てもなく氷の羽を羽ばたかせて飛んでいたマルーを、我に返らさせたのは空腹の二文字であった。
泣くという行為は思いの他に体力を消耗し、時刻は既に昼過ぎ。
午前中に稲葉の家を訪れた事を考えると、数時間も泣きながら飛んでいた事になる。
くう、と可愛らしい音をお腹から鳴らしてようやく、マルーの涙は流れるのを止めた。
「ここ、何処? ……長老?」
見覚えのない辺りの風景に不安を抱き、戸惑いながらも長老を呼ぶ。
言いつけを破ってしまったのに長老の名を呼んだのは、その存在を感じられなかったからだ。
何時もなら例え妖精の村を出ても、長老の存在は感じられた。
今感じられるのは、随分と精霊の気配が薄くなった迷いの森の息遣いだけ。
「ねえ、誰か。長老、皆。アディ、薫子?」
周囲を満遍なく見渡し、声を掛けるも返ってはこない。
それどころか、今自分が森のどの辺りにいるのかさえ分からなかった。
何か得体の知れないものに心臓を鷲づかみにされたような、孤独感がマルーを襲う。
当然、マルーはその感情を上手く表現する事も、受け入れる事も出来なかったが。
止まったはずの涙が再び溢れようと、瞳の中に溜まり始めていた。
「長老、言いつけちゃんと護るから。コマでも良いよ。もう、暴れないから」
ぐじぐじと鼻を鳴らしながら、とりあえず氷の羽を羽ばたかせて飛ぶ。
そんなマルーを見つめる視線が二つあった。
迷いの森に生息する獣の類ではなく、理性と欲望が同居した人間のそれ。
マルーは知らず知らずのうちに、忠敬たちが討伐しようとしていた盗賊の領域へと踏み込んでしまったいたのだ。
そうとは知らず、無防備にその姿をさらして飛ぶマルーへと盗賊の男達が動き始めた。
一人はマルーを大きく迂回するように背後へ、一人は正面から堂々と藪を出て行く。
薄汚れ、無精ひげまるけの顔で、出来るだけにこやかな笑みを顔に貼り付けて話しかける。
「だ、誰!?」
「おっと、大丈夫。おじさんはこの森の近くに住んでるもんさ。お嬢ちゃん、さっきから泣いてたみたいだけど、お友達とはぐれでもしたのかい?」
突然の事で脅えた様子のマルーを安心させるように、両手に何も持っていない事を強調して盗賊の一人が言った。
泣いている理由を尋ねたふりをして、他にもいるのかと巧みに尋ねながら。
「忠敬達の知り合い?」
マルーは稲葉の人間以外に、人間を知らない。
だから自然とそう尋ねたのだろうが、盗賊の男は内心してやったりと笑いながら頷いた。
「そう、だから怖がる事なんてないよ。泣き声が聞こえて来てみたら、話に聞いた君だったからね。そろそろ昼時だし、お腹でも空いたのかな?」
盗賊の男の言葉に、マルーの警戒心が全く消えていた。
この世に言葉の嘘がある事を知らないが為に、盗賊の男が口にした言葉を額面通りに受け取ってしまったのだ。
薫子や仁志が恐れていた事が、今ここで起こってしまった。
ただし、二人も迷いの森の中に他に人が入り込めるとは予想もしておらず、恐れていた事態が起きるのが早すぎた。
この様子ならば無理に襲う必要はないと、背後に回った仲間へ合図を送りながら盗賊の男はマルーの返答を待った。
「うん、お腹空いたし。帰る道も……その前に長老の言いつけ破っちゃったし、コマがいるから薫子のところにも行けないの」
「そうか、そりゃ大変だ。ならおじさんのところで、ご飯を食べて行くといい。しばらく時間が経てば、長老と、コマ? の怒りも収まってるよ」
「そうかな? やっぱり、人間って悪くないよね。長老、嘘つきなんだもん。精霊も嫌い、優しいのは人間だけだよ!」
マルーが自分から盗賊の男へと近付き、身振り手振りをしながら話し始める。
警戒等と言う言葉は遥か彼方であり、出会って一分も経たない間に信じきってしまっていた。
そして盗賊の男に促がされるままに、その後をついていってしまう。
その先で何が待っているとも知らず、自分が悪意ある人間について行っているとも知らず。




