その16 もう一つの稲葉家の仕事
忠敬たちから遅れる事約一日、昼少し前に仁志と寅之助、小春たちは稲葉の家に帰ってきた。
それを知った時の、アイゼリアは表情にこそ出してはいなかったが待っていましたという感じであった。
稲葉家に居座る事には多少慣れたようだが、正確に精霊の存在を知覚出来る彼女にとってはやはり辛い環境であったようだ。
稲葉家の面々も精霊に対して鈍感でなければ、とても住めたものではなかっただろう。
そんな彼女の為にも、仁志や寅之助、小春は外出の疲れを癒す間もなく、お座敷へとやってきた。
だが既に床の間の手前である上座には、アイゼリアが座している。
卓の向け方も九十度変更されており、上座に対して短い辺ではなく長い方が向けられていた。
よってアイゼリアの正面に座る忠敬と薫子の間に仁志が座り、卓の両側にそれぞれ寅之助と小春が座った。
もちろんアイゼリアが上座下座など知っているはずもないが、だからといっておろそかにするわけにもいかない。
「留守にしていて申し訳ありません」
「いえ、迷いの森以外にも管理を任された事は聞いております。それに私の訪問も突然の事、お気になさらずに」
一先ず不在を仁志が謝罪し、問題ないとアイゼリアが否定する定型的な挨拶が交わされた。
稲葉家よりもアイゼリアの立場が上なので、当然の事だ。
例えアイゼリアが立場を笠に着るような人物ではないにしろ、こういった細やかさを欠く事は出来ない。
敬うべき相手はきちんと敬う、普段からそれが出来なければ心に隙が生まれてしまう。
「それでは、国王陛下よりの命を伝えます」
平時と変わらない淡々としたアイゼリアの言葉を前に、一同が身を正す。
「稲葉家は迷いの森の詳細を調査し、報告せよ。これが国王陛下のお言葉です」
それは忠敬たちが近隣の村々に頼んだ内容と似ているようで、全く違う。
決して片手間では終わらない、困難を極める作業となる事であろう事は明白だ。
稲葉の家を中心と考えると、ウィルチ村まではだいたい十キロ前後。
今回は仁志たちが南へと下り、やはり十キロ前後ある事が分かっており、簡単な見積もりでは半径十キロの森と考えられた。
道のりも決して平坦なものではなく、一度テリトリーに踏み込めば襲いかかって来る獣もいる。
しかも人手は稲葉家の面々に限られ、迷いの森の性質上補充する事は出来ない。
「国王陛下は以前より、領土内にありながら詳細の知れない迷いの森について憂慮すると同時に、期待なさっていました」
「期待は理解できますが、憂慮とはどのような意味でしょうか?」
「カータレットの北にはベルスノウという名の国が存在します。両国を分ける国境は、ノーグ山と迷いの森。互いの国交は、東西に大きく迂回しなければなりません」
「なるほど、確かに迷いの森はノーグ山のように両国の行き来を遮っているが、ノーグ山程物理的な理由からではない。特に精霊魔術の発達如何では、というところですか」
仁志の考えに対して、間違いではないとアイゼリアが頷く。
「今回、我が国は稲葉家と縁を持つ事で、彼の国よりも優位に立ちました。例え行き来が不可能であると結論が出たとしても、知ると知らないでは大きな差があります。最終的には地図の作成を目指してください。いずれ必要になった時には、測量技師をこちらが用意します」
アイゼリアの話を聞いて、仁志はまだ見ぬ国王陛下に対して、並々ならぬ人物かと印象を受けた。
領主から聞いた名は、ベネディクト。
ベネディクト・カータレットという名の三十歳の若き国王陛下だという話だ。
瞬く間に迷ってしまう森が国境にあるからと安心せず、かつ今回のような機会があれば恐れず解明を命ずる。
先日の精霊石の騒動の真の黒幕である事からも、禁忌や謎に対する忌避感は薄いのだろう。
若さ故か、やや危うくも思えるが、稲葉家さえ居なければあの騒動も綿密な計画の下に終息していたはず。
前領主を横領で捕らえ、研究成果は全て懐へ、もしかすると精霊はただの戯れ好きという事さえ知っているかもしれない。
魔術があるような世界にある一国の王でありながら現実主義者、そう仁志には思えた。
いずれ機会があればお目通り願いたいものだと思いながら、仁志は目前のアイゼリアへと口を開いた。
「拝命に異存はありませんが、一点ご確認させていただきたい事があります。国王陛下が期待されているもの。それはおそらく、この森にある未知の資源だと思われますが」
「その通りです。稲葉家の方々はやや世事に疎いようなので、調査には私も同行します」
「外界に触れたのは長い一族の歴史でも稀な為、ご容赦を」
しれっと嘘をつきながら、仁志は尋ねた。
「仮に重要な資源が見つかったとして、所有権はどうされるおつもりでしょうか? 確かにこの地はノーグマン領主の管轄ですが、既にあそこは国庫とも言える鉱山を所有しております」
「確かに、一人の領主への富の集中は避けるべきです。ですが無理矢理にでも迷いの森を取り上げては、他の領主にまで不信が広がります。その時は、領主から自主的に返却してもらう事になるでしょう」
明言こそアイゼリアは避けていたが、その為に領主には返り咲いて貰ったのだろう。
今の領主には、先日の事件で国に手を煩わさせた借りがある。
貴重な財源が見つかったが富の集中を避ける為にと、その領地を王家に返却すれば領主の株は鰻上りとなるはずだ。
富より王家への忠誠をとるという事は、なかなか出来ることではない。
その裏にらる意味はともあれ、他の領主達からも一目置かれる事になる。
他の領主がそれに刺激され、負けてなるものかと王家へのご機嫌取りに躍起になればなお良し。
元々は存在しなかった財源から、王家からの借りを瞬く間に貸しにまで変貌する。
それに新たなる財源といっても、それが確かなものになるシステムを作り上げるのには多大な労力を有するはずだ。
既に鉱山を所有する以上、ノーグマンの領主が迷いの森に固執する理由はない。
しかし、そうなると先日のノーグマンの一件には、領主は絡んでいなかったのであろうか。
「それを聞いて安心しました。仮に資源が見つかった場合の憂いがなければ、こちらとしても全力を尽くす事が出来ます」
今はまだ取らぬ狸のなんとやらだが、迷いの森が王家に返却された場合、稲葉家もまたノーグマンの領主の配下ではいられないだろう。
上手く事が運べば、一領主の配下から、直轄領を預かる国王陛下直属も夢ではない。
「先程も言いましたが、国王陛下はこの迷いの森に大変興味をもたれています。私自身、稲葉家を使い、迷いの森の全貌解明する事を命ぜられました。まずは三ヶ月の時間を掛けて、迷いの森を歩き、大まかな全貌を調査します」
そう言ったアイゼリアは、身に纏っている濃紺のローブの中から一枚の地図を取り出した。
それは冒険者の組合に張られていたものに似ていたが、やや新しいように思える。
もっとも素材が羊皮紙なので陽に焼けた色をしており、判別はつき辛いのだが。
「現在王国が発行している最新の地図です。迷いの森は王都から見て北西。細かく言うと、北北西から西北西にまで大きく広がっています」
「あのアイゼリアさん。森の北側が描かれていないのは何故ですか?」
「既にそこはベルスノウの領地だからです。一応は向こう側で発行された地図がありますが、ベルスノウの国王はあまり迷いの森に興味がないようで、いい加減な地図しかありません。今回の調査で最終的には、森の内部から地図を描ききります」
「そうなんですか、でも森の外周なら今すぐにでも地図に出来るかもしれませんよ?」
忠敬の言葉に、まさかと思いつつもアイゼリアが反応して視線を向ける。
単に子供の言葉だからと否定しなかったのは、忠敬もまた稲葉家の子供だからだ。
昨日の薫子の件もあるし、なかなか侮れない。
念の為、確認するように仁志へと視線を向けると、嘘ではないと頷かれた。
「忠敬、レインに頼むつもりか?」
「はい、レインさんに頼めば背中に乗せて飛んで貰えます。上から森を眺めれば、外周ぐらいなら把握出来ると思います」
「そうだな。アイゼリア殿、レインとは先日の件で宝石に閉じ込められた風の精霊。アディが狼を模しているように、彼女は鳥の姿を模している。実際、忠敬が背中に乗っているところを私は見た事があります」
現代人にとって航空写真等、空の上から下を眺め見る光景はそう珍しいものではない。
だがやはりアイゼリアのように、人が空を飛ぶという発想のない世界では想像もつかない事であるらしい。
やや眉間に皺を寄せながら、一先ずといった感じでアイゼリアが頷いた。
「その件は後でまた。まず稲葉家の方が把握している森の中はどの程度でしょうか?」
そう尋ねられても、地図と現在地を照らし合わせた事はないので、少々返答に窮する。
ただ地図上には小さな文字でウィルチ村や他の二つの村の名前が載っていた。
迷いの森が不完全である為、確かな事は言えないが、森は東西に伸びる楕円の形をしている。
三つの村々の位置から察するに、稲葉家は楕円型の南北で言うところの中央、東よりに位置すると推測出来た。
逆に稲葉家から見てウィルチ村は真東に、サウル村は南南西、ストル村は真西だが一番遠い。
「把握しているのは家の周辺と、東と南の二本の道行です」
「ならば、最初は横断するようにこの場所から真西へ向かいましょう。途中、途中で目印になりそうなものをメモします。例えば、川など」
「あ、川ならば私が見た事あるでござる。稲葉のやや東北東辺り、恐らくはノーグ山方面から流れ出てきているのではないかと」
他に薫子が良く山菜を摘みに行く広場など、知りうる限りを話し始めた。
それを聞いたアイゼリアは、貴重な地図の上に再び懐から取り出したペンとインクでメモし始めた。
実際に測量を始める前の前準備。
三ヵ月後には、地図上の迷いの森が目印の為のメモで一杯になる事であろう。
知りうる情報を全てアイゼリアへと伝えきった頃には、お昼を少し過ぎていた。
とりあえず大掛かりな仕事の前にしっかりと昼食を取ってから、調査開始という事になった。
風を切る音と衣服がはためく音が絶えず耳に響いてい。
さすがに耳障りで、せめてもと衣服を抱きしめると、感じていた肌寒さも少しは薄れさせる事が出来る。
二度も三度も違うとは思わないが、地上よりは確実に寒いのだ。
現在、忠敬とアイゼリアは、レインの背中に乗せてもらい、大空の上であった。
計器もなしに高度は計れないが、仮に地上に誰か人が見えたとして豆粒以下である事は間違いない。
なにしろ前後左右、何処を見ても地平線の向こうまで眺めそうな気がしてくるのだ。
歩いて半日のノーグマンの街はもちろん、まだ見ぬ王都や、西にある海岸線の街等は、眺めるものではなく見下ろす状態である。
「これが空の上、世界が広い……」
「それに冷えた風が心地良い。高所もなかなか、我向きだのう」
普段よりも大きめに宝石の体を揺らしながら、アディが呟く。
「何を当たり前の事を、そんな事も知らなかったのかえ。翼を持たぬとは、まっこと不便な事よのう。妾の背に乗れた事を感謝し敬うが良い」
「ふん、偉そうに……だが、感謝ぐらいしてやっても良いぞ」
言葉程には反目せず、アディは素直に感謝を述べていた。
「確かに、感謝に値します。レイン殿、心からの感謝を」
アイゼリアのお礼の言葉にもまた、はっきりとした感情が込められていた。
生まれて初めて見る光景に魅せられ、表情にも僅かに笑みが浮かんでいる。
この空から国を、大地を、世界を眺められる光景に、無垢にならずにはいられなかったのだろう。
感動に水をさすようで悪いが、忠敬は首を少しだけ回し真後ろのアイゼリアに話しかける。
風切り音のせいで会話はし辛いが、ほぼ密着状態なのでなんとか言葉を交わす事ぐらいは出来た。
「迷いの森は、真下です。北側以外は地図通りですね」
「そうですね。しかし、改めてみてみると、森の形が整然としすぎているような……」
遥か上空より迷いの森を見下ろす事で、全体像を簡単に知る事が出来た。
ただし、森が深すぎるせいでどの辺りに何があるかという情報は、知る事は出来ない。
その二点は予想通りとも言えたが、アイゼリアの指摘通り、確かに森の形が整然としすぎていた。
地図で見たときから楕円の形を取っているとは感じていたが、歪さがないのだ。
まるで誰かに手入れされているかのようにさえ見える。
「考えても分かりませんね。そろそろ降りますか?」
「お願いします。違和感については、詳細を調べる事で分かるかもしれません」
「レインさん、ゆっくり降下をお願いします」
「しっかり掴まっておれ」
空の上へと上ってきた時のように、色鮮やかな翼を何度もはためかせ、少しずつ高度を落としていく。
本当は滑空した方が早いのだが、不安定なレインの背中に乗っている今は勘弁願いたかった。
何しろ命綱一本ない状態なので、忠敬かアイゼリアのどちらかが落っこちれば、ジェットコースター以上の恐怖が落ちなかった方に待っている。
体に命綱を巻く事を格好悪いの一言でレインが却下しなければ、もう少しなんとかなったのだが。
迷いの森を覆うかのような木々の間を巧妙にすり抜け、稲葉の家の庭に降りていく。
何度かレインが羽ばたきを繰り返し、ゆっくりと庭先に足をつけると、早速アイゼリアが飛び降りた。
上空で見た光景を忘れないうちに地図にメモしたいのだろう。
何処で地図を広げようかと周りを見渡し、
「アイゼリア殿、こちらでどうぞ」
寅之助に促がされて窓を開けた縁側へと地図を広げ、その上へとペンを走らせ始める。
「では、妾はもう行くぞ」
「対価としては、何をして戯れますか?」
アイゼリアが地図に夢中になっている間に決めてしまおうと、こっそり尋ねる。
精霊が戯れ好きである事は出来るだけ秘密にした方が良いかもしれないからだ。
「寅之助に妾への愛を囁かせるのも一興かえ。うむ、それが良い。時と場所は寅之助に任せる。妾は、胸躍らせながら待つとしようか」
「え……あ、ちょっとレインさん!」
さらっと爆弾を落として、レインは飛んで行ってしまう。
しかも本人には直接言わず、わざわざ忠敬に伝言を頼んでだ。
恐らくは直接要求しては、その時の寅之助の態度等から、愛の囁き方が多少なりとも予測出来てしまうからだろう。
しかし戯れで愛を囁かせるなど、貴方は何処の暇を持て余したマダムだと、突っ込む暇もなかった。
伝える方の身にもなってくれと頭を抱えていると、メモが終わったのかアイゼリアが地図を丸めて懐に収めていた。
「レイン殿は、行かれてしまいましたか?」
「ええ、つい先程……」
爆弾を置いてとは、とても言えなかった。
とりあえず寅之助の反応が予測できない為、アイゼリアが居ない時を見計らうしかない。
ただなのに高い買い物になってしまい、忠敬が一人困っていると仁志たちが庭へと出てきた。
今回アイゼリアに同行して迷いの森を歩くのは忠敬と寅之助、そして小春の三人。
仁志と薫子はここに残り、まだ途中であった三つの村の管理の為の調査を続行する予定である。
その為、仁志は手短にだが、小春から西側のスルト村について聞いていたのだ。
「アイゼリア殿、こちらの準備も完了しました。何時でも、忠敬たちを同行させられます。微量ながら、携帯食料の方も用意させました」
「助かります」
仁志の言う携帯食料は、風呂敷に包んだ状態で小春が肩から掛けて背負っていた。
残りは薫子が持っており、それぞれ忠敬と寅之助が受け取り背負う。
あまり量が多く見えないのは、実際に食べるものよりも調味料の方が多いからだろう。
歩くのは森の中なのだから臭味等を消す事が出来る調味料さえあれば、意外となんとかなるものだ。
それに戻ろうと思えば、何時でもこの稲葉の家に戻って来る事が出来る。
「では予定通り、ここから西へと森を突っ切ります。途中で特別なものを発見すれば、そこを中心に探索します。何か質問はありますか?」
「アイゼリアさんも知っての通り、僕らは少々世事に疎いです。僕らでは何が特別で、何が特別ではないか判別が難しいと思いますが」
確かにと一つ頷いて、アイゼリアが答えた。
「役割を分けます。寅之助さんには全員の護衛を、火の精霊は森の中では扱い辛いので。小春さんには歩く上で目印になりそうなものを探してください」
「私は何時も通りですな」
「割と、憶えるのは得意分野です」
問題ないと寅之助と小春が頷いたのを確認して、アイゼリアは忠敬を見下ろした。
「忠敬さんには、私と同じく役立ちそうな資源を探してもらいます。私とは違った視点で、時折アディ殿の言葉にも耳を傾けてください」
「違う視点ですか。アディさん、よろしくお願いしますね」
「うむ……人間が好きそうなものなど分からんが、探してはみよう」
胸元で揺れるアディにお願いするも、返事はあまり芳しいものではない。
精霊だけあって物に固執する事はあまりないのだ。
人の世では何が喜ばれるかなど、知っているはずもなかった。
忠敬はさすがに金や宝石が喜ばれる事ぐらい分かるが、そんな物が分かりやすく転がっていれば苦労はない。
だが割り当てられる仕事がなかったので、とりあえずといった感じは受けなかった。
むしろ、稲葉家が持つ独特の価値観を試されているような気がしていた。
「では、仁志殿。彼らをしばらくお借りします。人手不足のところを申し訳ありませんが」
「こちらの仕事は期日があるわけでもありません。お気になさらずに」
仁志の言葉を受けて、アイゼリアが部下を借りる事に軽く目礼してから門へと向かう。
続き忠敬たちも、仁志と薫子に見送られながら、アイゼリアの後を追って歩き始めた。
稲葉の家より西側の森は、忠敬たちにとっても未踏の地であった。
だが東や南に進んだ時のとは劇的に何かが変わるわけでもない。
空は森を構成する木々の枝葉に覆われているのは変わらず、太陽の光も薄く、木漏れ日ばかり。
足元には道らしい道もなく、先頭を歩く寅之助が雑草を踏み分け、藪を払いのける。
後から続く忠敬たちが、辺りを良く良く見渡し、何かないかと視線をめぐらせていた。
既に稲葉の家を発ってから、そろそろ一時間は経ったであろうか。
見つけたものと言えば、幅二メートル程の川であった。
深さも大人の膝丈以上ある川で、寅之助が森の東で見つけた川と本流は同じノーグ山からの水流であろう。
北東から北西へと森を横断するように流れている。
もちろんその川は、対岸へと渡れる飛び石と一緒にアイゼリアが地図へとメモに残していた。
他には特筆するべきものはみつからなかったが、獣の襲撃はそこそこあった。
襲撃という言葉は少し語弊があり、忠敬たちが獣たちのテリトリーに知らず入ってしまっていたのだ。
「勝手を言って済まぬが、通してもらうでござるよ」
そう言いながら寅之助が刀の峰を返して振るう事、三度。
通常の狼よりも一回り大きなワルフ、先日に薫子が襲われそうになった鶏に似たコッコ。
そして今目の前で寅之助が退けたのが、鋭い牙を持つ猪か豚に似た獣であった。
茂みを押し潰すように真っ直ぐ駆けて来る獣に対し、寅之助が高く跳ぶ。
目標を見失ってもまだ前へと突き進む獣の額へと銀光がはしる。
飛び上がった寅之助が、足元を過ぎ去ろうとする獣へと、峰を返した刀を振るったのだ。
獣の突き出た鼻の頭を強かに打ちつけると、その足がよろめいて動きが鈍った。
断末魔のように一度嘶くとそのまま気を失い、腹ばいになって倒れこんだ。
軽い地響きが起こる程であり、まともに正面衝突したらと背筋に寒いものが浮かぶ。
「いかんでござるな」
ゆっくりと地に足をついた寅之助は、倒れこんだ獣を見下ろして一言呟いた。
見事相手の命を奪わず無力化する事に成功したのにである。
不満気に刀を納めた寅之助の様子に、アイゼリアが不思議そうに尋ねた。
「何か問題でも?」
「潜在魔術を覚えたせいか、咄嗟に曲芸染みた事をしてしまった。以前の私なら、高く跳ぶなど隙だらけの事はせず、力任せに刀を薙ぐ事もなかったでござる」
「今は一匹だけでしたけど、二匹目が居たらって奴ですね」
「若に一本取られたでござるな。真にその通り」
それは以前、護身刀を投げた忠敬へと寅之助が注意した時と似たような言葉であった。
さらに寅之助は、跳ぶような動きは控えろと注意した事もある。
自らそれを破るとは面目ないと、寅之助が頭を掻いていた。
「問題点がはっきりとしているのなら、直せば良いだけです。自分で気付いているのならなおさら。貴方ならば、直ぐに直ります」
「それは見込まれていると取って良いでござるか?」
「思った事を口にしたまでです」
簡潔に答えたアイゼリアが歩みを進め始め、やや嬉しそうにしながら寅之助が続く。
そんな二人、特に寅之助を見ながら忠敬がこっそり小春に訪ねた。
「寅之助さんがわざわざ自分の腕前を人に確認するなんて、変だと思いませんか? それに先程の曲芸染みた動きも、潜在魔術を覚えたからって理由もあまりらしくないです」
「良いところを見せたかっただけだと思いますよ。寅之助さんは、年下の可愛らしい人が好みですから」
嫌な事でも思い出したのか、一瞬だけ小春の顔に影がさした。
昔は寅之助が小春を虐めていたらしいが、陽野家や美濃家の確執以外にも小さな恋心あっての事なのだろうか。
それで虐められた小春の方は、溜まったものではなかっただろうが。
「色恋はようわからんが、レインが範疇外である事ははっきりしたな。そこをどう口説き落とすか、見物だの」
その前に、レインが求めた戯れ内容を寅之助に伝えなければならない。
若干忘れかけていた忠敬は、どのように伝えるべきか改めて頭を悩ませ始めた。
レインを人に例えるならば、絶対に暇を持て余したセレブな熟女だ。
派手な色の翼や話し口調、戯れの内容から察した勝手な想像だが。
寅之助の好みの間逆を行く精霊相手に口説けとは、さらに心苦しくなってくる。
「私の好みは若ですから安心してくださいね?」
「どうでも良いです。あ……」
他事に気を取られ、小春の言葉に思わずそんな返事を返してしまい、慌てて顔を上げる。
早速と言うべきか、瞳を潤ませて泣き出しそうになっていたかと思えば、何かを期待するような瞳で忠敬を一心に見つめてきていた。
意味が分からずあっけに取られていると、何故か溜息をつかれてしまった。
「お前の好みなんて聞いてない。俺の後ろに居れば良いんだよとか言って、バシーンと叩いてくれないんですね」
「小春さん……一体、僕に何を期待しているんですか。僕は間違っても女の人を平気で叩くような人間にはなりたくないのですが」
「私はただ、若に隷属されたいだけです!」
半ば本気で、駄目だこの人と思わざるを得ない忠敬であった。
前々から駄目な人だとは思っていたが、最近それが加速している気がする。
「あの人は、何時もああなのでしょうか?」
いつまで経ってもついてこなかった三人を振り返り、呆れたようにアイゼリアが呟いた。
「概ね。けれど、一応やる時はやる人でござるよ。そのやる時はまれでござるが」
「それは知っています」
言葉通り小春がただただ他者に依存し、隷属されるだけの人間であれば、アイゼリアにとっては侮蔑するべき対象であった。
だが小春が命を掛けて忠敬に仕えている事は、言葉通り知っていた。
小春は忠敬を守るために、ジュエルモンスターとなったアディに、小刀一本で立ち向かったの事がある。
他にも、恐怖に心を削られながらも領主の館に忍び込んだ事など。
やや力不足な面もあるが、その忠誠心の高さをアイゼリアは買っていた。
「三人とも、調査を続けます。あまり隊列を乱さないように」
だが少々時は選んで欲しいと促し、再び西へと向けて歩き出そうとする。
そんな時、アイゼリアの瞳にとあるものが見えた。
思わず警戒してしまい、アイゼリアの剣幕にそれは即座に逃げ出してしまったが、見間違いではなかった。
足早に駆け、つい先程までそれが居た場所へと、藪を書き分け歩み寄っていく。
「アイゼリア殿?」
「どうかしましたか?」
寅之助や忠敬の声には即座に答えず、相手が隠れていた藪を形成する草木を注意深く観察する。
草木の葉には、花粉のような黄色い粉末が付着していた。
葉の表面を指先でなぞり、指についた粉末の匂いをかぐ。
多種多様な花の香りが混ざったような、独特な匂いを感じ、やはり先程見たものが間違いなかったと確信する。
草木の葉に付着していたものは、妖精の粉だ。
妖精の体から零れ落ちる粉であり、精霊の動きが活発化され、精霊魔術の触媒や、錬金魔術による物質の変化や熟成を早める効果があった。
妖精の存在自体が希少なので貴重なものであり、小さな瓶一つ分で等量の金と取引される事もある。
「予定を変更します。この場を中心に近辺を徹底的に調査し、妖精を探します」
「妖精、ですか?」
アイゼリアの言葉に小春が首をかしげた為、忠敬が少し補足する。
「どうもこの森には妖精がいるみたいです。母さんも、今朝方に野草を採りに行くついでに見たとか」
忠敬の言葉を聞いても、寅之助と小春は半信半疑であった。
それは無理からぬ事で、忠敬もアディの言葉がなければ妖精の存在は信じていなかっただろう。
やはり物を知らないと、三人の反応から察したアイゼリアは、妖精の存在について簡潔に説明し始めた。




