その15 忠敬の初仕事
ウィルチ村へと辿り着いた忠敬たちは早速、村長宅へと向かった。
家の場所は、以前護衛の仕事を受けたチャップを迎えに行った事もあり、忠敬が憶えていた。
玄関の戸を叩いて、応対に出てきた中年の女性に要件を告げ、中へと入れてもらう。
中年の女性は村長の奥さんだろうか、忠敬たちにテーブルを勧め、お茶を出すと外へすっ飛んでいった。
恐らくは畑仕事に出ていた村長を呼びに行ったのだろう。
勧められるままに食卓テーブルの椅子に座り、いずれやってくるであろう村長を待つ事にした。
その間に参考にでもと村長宅内をぐるりと見渡したが、首を一周させる間に全て見終わってしまった。
それ程までに見るものがない。
目立った家具は忠敬たちが座っている食卓テーブルぐらいで、あとは台所に釜戸や鍋がある程度。
食器類も戸棚に収められる事も無く、台所の脇に積み上げられていた。
奥へと続く扉は二つあるが、外から見た時の家の広さを考えると、どちらも寝床として使用するぐらいの広さしかないだろう。
「忠敬、家ごとこっちに移動させられて良かったわね。私、けっこうアウトドア派の自信はあったけれど、これは無理」
「思っても、口に出さないで下さいよ」
小型犬程度の大きさに変化したアディを、膝元に置いて撫でて遊んでいる薫子を注意する。
確かに格安が売りなだけのキャンプ場にある名ばかりログハウスの方が、まだ豪華だろう。
文明開化の音など、遥か彼方だと思える暮らしぶりだ。
ちなみに、出されたお茶もなんのお茶なのか、白湯のように透明色であった。
味などあってないようなもの。
下手をするとお茶と言う存在があるのも懇意の商人を持て成す必要のある村長宅だからであり、他の家にはお茶すらないかもしれない。
「お待たせしました。私がウィルチ村の村長をしております、ビックと申します」
他の二つの村はどうなのかと、様々な不安を抱えている所へその男はやってきた。
仁志よりも一回り上の、五十代の頃であろう。
肉付きの悪い不健康そうな顔色のビックは、髪の薄い頭部に手を置きながら何度も頭を下げてきていた。
余程慌てて来たのか、頭に置いた手にはまだ農作業でついた泥が付着したままだ。
「お邪魔しています。この度、新たにウィルチ村を治める事になりました稲葉家の者です。どうぞ、お見知りおきを」
「え、治める? ナグルの奴を助けていただいた方々にですか?」
「本来は迷いの森の管理が私達の仕事ですが、それならばと領主様より近辺の村も一緒に管理するよう仰せつかりました。これが今後、稲葉家の使者と言う証の割符です」
印籠にある稲葉家の家紋を見せてから、その中に入っている割符を取り出す。
割符には稲葉と書かれているが、知らない人間からすれば記号かなにかに見える事だろう。
必死に話の内容についていこうと、渡された割符を手にしながら考え込む村長が落ち着くのを待つ。
やはりこういう時に強いのは、女なのだろう。
「ほら、あんたしっかりおし」
村長の妻らしき小太りの女性は、彼の後頭部を強く肘で突き、これでも飲んでと彼の前にお茶を置いた。
熱々のそれを一気に飲み下し、長々と悶え苦しんだ後に、ようやく村長は話をお茶ごと飲み込んだ。
「それでは、これは大切に保管させていただきます。それで、訪問の用件は以上でしょうか?」
「いえ、新たに治める事になった村の事を知っておこうと思いまして……」
さあ本題に入ろうかというところで、忠敬はある事に気づいた。
今一度、さりげなく屋内を見渡し、確認する。
生活を行うだけの最低限の家具が置かれた屋内、ただし生活感がないわけではない。
現代の生活と比べる事がまず間違っているのだが、それでも生活に余裕があるとは思えなかった。
そんな日々の生活に余裕のない人間が、村の全体像、人口や隣家の農作物等を把握しているだろうか。
するはずがない、そもそもメリットがない。
情報があふれ、整理する必要に迫られた現代とは違うはずだ。
「この村はどれぐらいの人が住んでいるのでしょうか?」
「さあ、数えた事はありませんので……たくさんとしか」
試しに尋ねてみるが、やはり答えはもちろん返ってこず、尋ねられた意味すら理解していない様子であった。
しかも忠敬でさえ、ぱっと見て百人規模と考えられたのに、長年村に住みまとめ役の村長でさえたくさんと表現していた。
殆ど、考えた事もないのだろう。
少しばかり、アプローチの仕方を考えなければならない。
「そうですか。では数日の時間を設けますので調査をお願いできますか? 十四歳以下の子供、十五歳から四十歳まで、四十一歳以上。そして男か女か。これに区分けして、住民の数を数えてください」
「はあ……」
気のない村長の返事の最中、台所の奥で話を盗み聞いていた彼の妻の目が厳しくなった事に忠敬は気づいていた。
目は口ほどにものを言う。
そんなわけのわからないものは断れと、そんな暇があるのかと背を向けている村長にメッセージを送っていた。
彼女が村長の頭を小突いた時から薄々分かっていたが、この家でより実権を握るのは嫁の方なのだろう。
しかし本人達を目の前にしてメッセージを送るとは大胆な事だが、やはり稲葉家の使いと言えど命令主が忠敬という子供だからか。
自分が子供である事を理解しているのであれば、別段怒りを抱くまでも無い事であった。
さてどう攻めるべきかと脳を回転させる中で、スロットが停止するように考えがピタリと止まる。
「もちろん、ただでとは言いません」
この時、迷いの森を歩く中で薫子がお土産と言った言葉の意味を忠敬は理解した。
「調査代としてこれを差し上げます。どうぞ」
やはりそうだったのか、忠敬の意中を察して薫子が捕まえていた鳥とその卵を差し出した。
忠敬の方を見る事もなく、何も言わずにだ。
目の色が変わる、もちろん台所の方にいた村長の妻の。
お茶のお代わりを持ってきたふりをして、村長の頭を小突きながら言った。
「気前の良いお役人さんじゃないの。あんた、それぐらい簡単だろう?」
「ああ、誰も断るとは言ってないだろう。お受けいたします」
村長が返答するや否や、これはもう貰ったとばかりに鳥と卵を抱えていく。
贈り物に弱いのは、何処の世界でも共通事項らしい。
特に主婦たる家の支配者が、喜ぶようなものであればなおさら。
偶然手に入れた鳥と卵であったが、物は使いようである。
「あと調査ついでに、各家庭の農作物と狩人に従事する人の数もお願いします」
一度引き受けてもらった以上、台所の奥で歓喜する女性を他所に、村長にうなづかせる。
彼にも仕事はあるのだろうが、少しでも情報をと調査しなくても答えられるものは答えてもらう。
まずはウィルチ村で懇意にしている商人について。
チャップ以外にも数人いた事が分かったが、それだけではなかった。
取引には殆どお金が使われず、物々交換である事。
これはどうやらお金を手にしても、使うべき場所が無い事が関係しているらしい。
だがそれでは貨幣制度が持つ意義、公正な価値の尺度がもたらされない。
貨幣制度の発端の一つに、物々交換では成り立たない端数の値を正確に表現する為に生まれたというものがある。
下手な商人相手では、騙されてしまう事もあるだろう。
宗教に関しては、やはり精霊信仰との事であった。
だが教義などは誰も知らない、教義という言葉そのものが知られていないようだ。
精霊は尊いものだからと子々孫々教えられ、ただなんとなく敬っている。
その程度であった。
一頻り話を聞いた頃には、カップの中のお茶は浅くなり、底が見え始めていた。
「それでは、今日はこの辺でお暇します。調査の方は近日中に結果を聞きに参ります」
「はい、きっちり調べておきます」
もう殆ど、忠敬にそう言わされたような、断るに断れないという様子であった。
多少、村長自身への心象は悪いかもしれないが、彼の妻が上手くとりなしてくれるだろう。
なにせ依頼をこなせば報酬が入ると示されたばかり。
しかも実際にやってみれば、それ程時間がかかる事ではない事も分かるはずだ。
その為に、年齢の区分けなどは譲歩して、わざと緩くしてある。
「ではよろしくお願いします」
席を立ち、多少慇懃無礼に言葉だけで頭は下げずに、村長宅を後にする。
そしてやや離れたところで、忠敬が一気に肺の中の空気を吐き出した。
肩の荷が下りたように、両肩もずり落ちている。
「緊張した……あれで、良かったですかね?」
「上出来、上出来。それに良く気づいたじゃない。村長が村の全体像を把握していないんじゃないかって。彼の奥さんをだしにしたのも高ポイント」
「うむ、立派だったぞ忠敬。話の内容は、よく分からんかったが」
薫子に頭を撫でられ、とりあえず自分も加わろうと元の大きさを取り戻したアディが顔をこすり付けてくる。
アディの首元を両手で撫でくりまわしながら、尋ねる。
「もしかして、父さんは出かける前から気づいてました?」
「たぶん、忠敬の為にわざと黙ってたんでしょうね。直ぐに調査結果が出ない事も織り込み済み。だけど一度家に戻る前に、自分の目でも村をちゃんと見ておきましょう」
「そうですね、聞くと見るでは違いますし。家の数や畑の広さぐらいは分かります。後、最後に冒険者の組合にも寄っておきましょう」
別に依頼を受けにいくのではなく、アイゼリアからの連絡があるかもしれないからだ。
仁志の話では、最低でも数日に一度は確認に立ち寄る事になっている。
普段は早朝訓練のランニングついでに寅之助と忠敬が立ち寄っていたが、ここ数日は寅之助が仁志と共にノーグマンに行っていたので寄っていないのだ。
約束どおりやや体を大きくしたアディの背に乗った薫子を連れて、村の中を見回る。
犬にも見えるアディの背中に乗ってみたいとはなんとも子供じみた願いだが、自分も乗った事がある手前、忠敬は何も言わなかった。
家の数は十六、畑はだいたい家に隣接しており、約十坪程度、老若男女が総出で世話をしていた。
老若男女とは言っても、若者はあまり見られず、忠敬の同い年ぐらいの子供も一人か二人だけ。
石ころ交じりの土は良く耕されているとは言いがたい。
近くに森がある事から土地柄的には悪くないはずだが、使用している農機具のせいだろうか。
遠目では良く確認出来ないが、クワ等が歯の部分まで木製らしく、先端に刃こぼれ錆だらけの歯が見えた気がした。
力仕事が得意な若者が少ないのも、多少は関係あるだろうか。
農作物の出来が良くない事から、主に若者は狩りに出かけているのかもしれないという悪循環。
過疎化が進んでいるだけという可能性も、なきにしもあらずだが。
小さな村の中を見回っても直ぐに端にまでたどり着いてしまい、残る冒険者の組合へと向かう。
「こんにちは」
「あら、坊やいらっしゃい。あれ、今日は寅之助は一緒じゃないのかい。まあ、いいわ。それより、お客さんがお待ちかねだよ」
やや残念そうな呟きにこれはこれはと思う間もなく、ヘイゼルが指差した先の人物をみて驚いた。
組合の屋内に設置されたテーブルにて待っていたのは、アイゼリアであった。
振り返り様に、目の覚めるような赤い髪が揺れる反面、その表情は氷のように硬い。
「稲葉家の方々に、仕事です」
端的に呟かれた台詞に、親しみのようなものは一切含まれてはいなかった。
アイゼリアと出会った忠敬と薫子は、とんぼ返りで稲葉家を目指し迷いの森の中を歩いていた。
仕事の内容は当主である仁志の前でと言う事で、詳しい事はまだ聞いていない。
仁志たちはまだ帰ってきていないだろうが、ウィルチ村では宿泊施設がない為、帰宅を選んだのである。
来た時と同じようにややのんびりと森の中を歩くが、アイゼリアは忠敬に手を引かれながら歩いていた。
稲葉家、もしくは寅之助か小春でなければ、迷ってしまう為であった。
ファーガスの部下を連れ込んだ時は、大の大人が電車ごっこのように前を歩くものの肩を掴んでぞろぞろと歩いたものだ。
そうでもしなければ、精霊の戯れにより瞬く間に迷ってしまうので、仕方のない事なのだが。
「コマちゃん、ただいま!」
「お帰り、薫子」
覆い茂る木々の間から稲葉の家が見えてくると、薫子が門前にて座っているコマへと手を振り上げる。
こちらへと振り返ったコマは、薫子の姿を見るなり両の瞳を輝かせていた。
スタートダッシュ、走ってくるままに薫子へと飛びつく。
燃え盛るたてがみさえなければ、薫子の胸にとびついたコマを見て、誰が精霊だと思うだろうか。
「仁志君たちは帰ってる?」
「ううん、まだ誰も返ってきてないよ。薫子達が一番最初」
「やっぱり、そっか。アイゼリアさん、仁志はまだ帰宅していないみたいです。家の中で待っててもらえ……どうかしましたか?」
飛びついてきたコマを撫でくりまわしながら、言った薫子の視線の先。
忠敬に手を繋がれたアイゼリアは、唖然としていた。
言葉を無くし、銅像のように突っ立ったままその視線の先にある稲葉家を眺めている。
表情は変わらず変化のないままだが、冷や汗のようなものを薄っすらかいていた。
「これが、家? 神殿の間違いでは? 精霊の気配が濃すぎる。稲葉家は一体どうなっているのですか……」
「この家は精霊達の遊び場だからな。屋内で精霊の居ない場所を探す方が難しい程、あふれかえっておるのだ」
「人によっては、それを聖地と解釈するのですが。国王陛下が興味を持たれた事に間違いはなかったようですね」
アディの言葉に対して、アイゼリアは驚くべき見解を述べる。
一応ナグルやオズワルドたちも、稲葉の家の不可解さには言及していた。
ただし、精霊魔術師であるアイゼリアが見ると、より異常さが際立つらしい。
忠敬たちには全くその気持ちがわからないのだが、このまま屋内に連れ込んではアイゼリアが気疲れから倒れてしまうかもしれない。
何しろ電気や水道、その他ライフラインを使用する度に、精霊が戯れだすのだ。
お出しする為のお茶を沸かすだけで、宮廷魔術師なる人物を倒せるとは、どんな笑い話か。
殆ど誰にも気づかれないうちに、稲葉の家は魔窟と化していたらしい。
「はいはい、良い考えが浮かんだ」
「ろくでもない考えの気がしますが、どうぞ」
コマを抱えたまま手をあげた薫子へ、忠敬が辛らつな言葉と共に促す。
当然、その後に薫子から頭を叩かれるのだが、分かっていてやっているようにも思える。
「まったく、仁志君に向ける信頼の一パーセントでも私に向けなさい。アイゼリアさんが稲葉家に慣れるまでは、縁側でお茶しながら精霊魔術について語ってもらいましょう」
「確かに、気晴らしというか。気をそらす事ぐらいは出来るかもしれませんね」
「いや、精霊と共に住まう稲葉家に語れる事など、ほとんどありません」
「精霊とは仲が良いですが、術は知らないんです。少々、教授してやってください」
今はまだ近づきたくないと踏ん張るアイゼリアの背を忠敬が押し、こっちと薫子が手を引き始める。
一石二鳥とはこの事だとばかりに、強引に縁側へと連れて行く。
直ぐに忠敬が屋内にまわって窓を開け、縁側にアイゼリアを座らせている間に、薫子がお茶を淹れてきた。
やけに湯が沸くのが早いといぶかしむアイゼリアへと緑茶を進め、まずは一口飲ませる。
思った以上に扱ったのか、小さく舌を出し、これまでで一番分かりやすい表情が顔に現れていた。
言うまでもなく、熱いだ。
「クールな顔して、猫舌よ。やるわね、アイゼリアさん。ああいうギャップに男は弱いのよ。もしかして、この子って可愛いところがあるんじゃって」
「ほう、それは良い事を聞いた。のう、忠敬。我も暑いのは駄目だぞ」
「そりゃ、氷の精霊ですから。駄目でしょう。アディさん、引用するなら話はちゃんと聞いていましょうよ。そのままじゃないですか」
アイゼリアが舌を出した件について、こそこそと話合う声はしっかり届いていた。
無理をして熱いお茶を飲み、違いますよと訴えるべきか。
開き直って、熱いのは苦手だと告白するべきか。
少し考えてみて、一体私は何を悩んでいるのかとややゲシュタルト崩壊を起こしつつ、アイゼリアはとりあえずお茶をわきに置いた。
「何から話しましょうか?」
こほんと咳払いを一つ、誤魔化してなかった事にした。
稲葉家の人たちは、それぞれ意味が違うが苦手だと思いながら。
「それじゃあ、術の前に精霊信仰について、その成り立ちを良いですか? 神様じゃなくて、何故精霊なんですか?」
「一応神という存在を崇める人たちはいます。ただ、少数派です。なぜなら、神は私達に何もしてくれませんから」
「それはまた、分かりやすい理由ですね」
アイゼリアの話では、昔は神を信じる宗派と精霊を信じる宗派が二大巨頭であったそうだ。
だが精霊の存在が確認され、精霊魔術という恩恵が手に入った事で巨頭の一角が崩れ落ちた。
誰だって、恩恵を与えてくれない側よりは、与えてくれる側につきたい。
もちろんそんな事を表立って口にはしないだろうが、人の内心なんて同じようなもの。
酷く現金な話だが、恩恵の名のもとに精霊信仰が優勢となった。
「ただし、カータレット王国に限っては昔から精霊信仰が盛んでした。今の人は殆ど忘れてしまっていますが、カータレット王国の成り立ちに精霊が深く関わっているからです。初代カータレット国王は精霊と心を通わせ、子をなした」
何処かで聞いたような話に、何処でだろうと忠敬が首をかしげる。
「今の王家は精霊の直系。故に、人とは思えないような美しさを誇る容姿を持ってらっしゃいます。詩人は言いました。カータレットの如何なる宝石よりも、陛下たちは美しいと」
無表情ながら、声には何処か熱っぽいものが含まれている。
それは忠誠心の現われなのか、はたまた別のものなのか。
自分の態度に遅ればせながら気づいたアイゼリアは、咳払いをしてから言った。
「けれどあまりに古いお話なので、精霊云々は伝説上のものとされ」
「あ、思い出した。アディさんが前に言ってた事じゃないですか。その昔、精霊と心を通わせた人間がいるって。その人が初代国王なんですかね」
「それは勇敢な王様だったんでしょうね。精霊ってアディちゃんたちみたいに、動物がモチーフになった体してるじゃない。チャレンジャーだわ」
薫子のチャレンジャー発言は無視し、忠敬の台詞だけを耳に残し、アイゼリアはむせた。
クールな仮面がはがれ落ちるのも構わず、隣に座っていた忠敬の両肩を掴む。
忠敬をこちらへと向かせながら、自分の視線はその胸元に注がれる。
金メッキの安い鎖に繋がれた、淡い水色の宝石。
「今のお話は本当ですか? もしそうであれば、国の歴史がひっくり返ります!」
「我に聞かれても知らん。確かに人間と心を通わせた精霊は昔いたが、当時の我からすれば人間は全て同じ顔に見えた。誰であったかは知る事もなく、子を成したなど聞いた覚えもない」
「そ、そうですか……失礼しました」
アディの言葉に少し冷静になったアイゼリアは、忠敬の両肩を解放して謝罪する。
しかし、良く良く考えてみれば、アディが知らなくて良かったと思えてきた。
王家が本当に精霊と子を成した事が証明できれば、国王陛下に対してはこれ程大きな貢献はないだろう。
ただし、大き過ぎる貢献とも言えた。
十三番目の宮廷魔術師に数えられただけでも手一杯の毎日なのに、下手をしたら一番目に取り立てられかねない。
そう宮廷魔術師長だ。
今の宮廷魔術師長と自分を比較すると、威厳、貫禄、経験、実力、何一つ勝るものがなかった。
恐らくは三日で死ねる、そんな考えに行き着いたアイゼリアは、何も聞かなかった事にした。
「申し訳ありませんが、今の話は他言無用でお願いします。一応、私からそれとなく国王陛下にはお伝えしますが、実際に問われても明言は避けた方が良いかと」
「いえ、僕の方も少々迂闊でした。忠告、感謝します」
素直な忠敬の言葉に思わず、笑みを浮かべそうになったアイゼリアは誤魔化すように立ち上がった。
やや話の軌道がずれていた事を修正するように、庭先まで歩き、振り返る。
忠敬や薫子の言う通り、気晴らしにはなったようで、少し体が楽になり始めていた。
「本筋を戻しましょう。精霊魔術とは精霊と心を通わせ、その力を借りる術です。その境地は、潜在魔術のような我の対極、無我にあります。精神の鍛錬を繰り返す事で、精霊の存在を感じる事から始めます」
アイゼリアは胸の前で両手を重ね合わせ、握り合う事で祈るような格好をとった。
半分だけ閉じられた瞳は、特定の場所ではない宙を見ている。
だが、アイゼリアの回りに特別何かが見える事はない。
「一部例外を除いて、精霊たちは目には見えません。ですが、そこにいます。精霊の存在を感じる事は信じる事に繋がります。精霊を信じ、こちらから心を開かなければ精霊は応えてくれません」
「むう……」
忠敬の胸元で揺れていたアディが、若干嫌そうな声をあげた。
「アディさん?」
「火の精霊が、アイゼリアの周りに集まってきておる。我は熱いのも嫌なのだ」
アディはそう言うが、やはり目を凝らしても精霊の存在を直接目にする事は出来ない。
だがアディが嘘をつくはずもなく、気がついてみれば何事かとコマも門から首を覗かせてこちらを見ていた。
精霊自身や、精霊魔術師には精霊の存在が感じられるのだろう。
やがて両手を解いたアイゼリアは、片手の手の平を上に向け、そのまま掲げた。
「火の精霊よ」
アイゼリアが自分の周りに集まってきていた精霊に呼びかける。
すると今まで何も無かった手の平の上に、小さな火種が生まれ、それが段々と大きくなっていった。
やがて拳ぐらいの大きさにまで成長した炎は、燃えるものが何一つない状態で燃え続けていた。
火の気の無い手の平の上で、炎が踊る。
とても不思議で幻惑的とも言える光景であった。
そしてそろそろ良いだろうかと、頃合を見てアイゼリアが手の平の上の炎を握りつぶして消した。
「今のが精霊魔術師を目指す者が、最初に教えられる練習方法です。祈り、精霊を集める。
集めた精霊を感じる。感じた精霊に請い、力を借りる。この三動作」
それだけを聞くと、今のが儀式の作法のようにも聞こえる。
「熟練度によってそれぞれの動作を短縮できます。そして引き起こされる現象は、力を請う時に出来るだけ具体的に思い描きます。具体性がないと、精霊も力を貸してはくれません」
「やっぱり、人によって得意な精霊とかあるんですか?」
「得意と言うか、その辺りはまだよく分かっていないのですが……基本的に、力を請う精霊は同じ精霊でなければなりません。異なる属性間で力を請えば、どちらもあまり力を貸してくれなくなります」
忠敬の質問に答えたアイゼリアの言葉を聞いて、なるほどと薫子が笑みを深めた。
「ふーん、私ってばちょっと分かっちゃったかも。忠敬、ちょっとアディちゃん貸して」
「構いませんが、いたずらしないでくださいよ」
いぶかしげにしながらアディの宝石がついた首飾りを渡す。
しかし、薫子はアディに耳打ちした後、直ぐに返してきた。
一体何がしたかったのか、薫子は縁側の石段においてあるサンダルを履いて立ち上がった。
先ほどアイゼリアが精霊魔術を使う為に庭先に出たように、薫子もまた庭先まで行く。
「薫子さん、言っておきますが才能ある人間でも、精霊を感じるだけで最低三ヶ月はかかります。話を聞いただけで出来れば、苦労はありません」
「んふっふ。まあ、ご覧あれ。稲葉家は精霊に愛されていますから」
息子である忠敬でさえ懐疑的に見守る中で、薫子は片手を腰に、もう片手は人差し指を空に向けて突き刺したポーズをとった。
そのまま何かを口ずさんだ途端に、薫子が空を指した指の周りに小さな火種が舞い始めた。
一つ二つ、もっと五つと小さな火種たちは先程、アイゼリアが生み出したような炎となって指先の周りをくるくる飛び始める。
まるで炎同士が鬼ごっこでもするかのように、回り続けていた。
「やっぱり、思ったとおり、ね?」
「コマ殿は門の外、それに近くにいるアディ殿は氷の精霊。本当に精霊に愛された一族だと言うの。稲葉家は……」
唖然とした呟きをアイゼリアが漏らす。
忠敬もアイゼリアと同じような驚愕を受けながらも、頭の一部は冷静に物事を考えていた。
稲葉家では今日、アイゼリアから話を聞くまで誰も精霊魔術については知らなかった。
つまり薫子は今目の前で使って見せたのが、正真正銘初めての精霊魔術だ。
だがアイゼリアの驚きようから、一度目にいきなり成功させる事はありえないのだろう。
ならば何故そのありえない現象が起きたのか。
稲葉家が持つアドバンテージ、それは精霊と共に暮らしている事であり、薫子も直前にアディに何かささやいていた。
確かに氷の精霊であるアディに頼んで炎の精霊は扱えないだろう。
だが、直前のささやきは、力を貸して欲しいではなく、薫子が掴んだ切欠を黙っていて欲しいと頼んだのではないか。
稲葉家だけが知る事実、その中で有力なものと言えば、精霊は無類の戯れ好きだという事だ。
「あ、そう言うことか!」
キーワードが掴めれば、自然と解が導かれていく。
そもそも、精霊信仰こそが間違いの発端なのだ。
自然とほぼ一体の精霊を敬う事は大切な事かもしれないが、精霊にとってはそんな事は知った事ではない。
精霊が何よりも重視するのは、楽しく戯れる事が出来るかどうか。
アイゼリアが説明してくれた精霊魔術を使用する上での三動作。
祈りとは、「遊びましょ」と精霊に呼びかける事。
感じるとは、遊びにきた精霊の数を制限する事。
請うとは、こういう遊びをしようと集まった精霊に提案する事。
精霊魔術とは、あくまで精霊と戯れる術であり、術としての効果は精霊が戯れた結果でしかない。
そう考えると、アイゼリアの言葉を説明する事が出来る。
無我でいなければならないのは、子供のように無邪気で居なければならない為。
精霊は子供のような面がある為、邪な思いを抱いていては遊んでくれないのだ。
属性の話にしても、子供のグループと同じで、八方美人は嫌われるというだけ。
「アディさん、母さんに戯れ好きを黙っていてと言われたでしょう」
「うむ、よく分からんが稲葉家の者意外には他言無用とな。別に構わんが」
最後にアディに確認を取ると、やはりその通りであった。
しかし、アイゼリアの説明から薫子が真っ先に真実にたどり着いた事は凄い。
さらにそれを利用して、さらにアイゼリアに稲葉家がいかに精霊に愛されているかを印象付けたのも、なかなかやり手だ。
仁志や寅之助のようにいかにも武人とした警戒心を抱かせる相手ではなく、主婦然とした薫子がという点も大きい。
生まれて初めて、薫子に対して忠敬は尊敬の念を覚えたかもしれなかった。
「ところで、そろそろ精霊を集めるのを止めませんか? それ以上集めると……」
「それがね。どうやって止めたら良いのか、私も先程から考えています。なんだか際限なく集まってきてるみたいで。私って罪な女?」
馬鹿な台詞を吐いた薫子の指先には、既に十を超える炎が踊り狂っていた。
くるくるからぐるぐると。
放っておけばいずれ炎の嵐が生まれ、薫子ごと飲み込みかねない勢いであった。
薫子は精霊の存在をアディ達を通して信じているし、心を開いているから集め、遊び方を提案する事も出来た。
ただし、見えない精霊を正確に感じる事が出来ず、集めるだけ集めてしまうのだ。
「やば、ちょっとこれどうしよう。忠敬止めて!」
「無茶を言わないでください。僕にどうしろと。ちょっと、こっちに来ないでください。家が燃えます!」
「こら、母親より家を心配するって……しかも見捨てて何処へ逃げようっていうのよ。待ちなさい、忠敬!」
「薫子さん落ち着いてください。今私が、急に振り返らないでください。危ないですから!」
クールなはずのアイゼリアまでもを巻き込んで、しばらくの間、三人の追いかけっこは続いた。
まさに鬼ごっこしたい子この指止まれと、薫子が小さく口ずさんだ通りである。
最終的には何時も通り我も混ぜろと参戦したアディが凍える吹雪で消してくれた事で、事なきを得た。
ただし、忠敬が薫子へ向けた尊敬の念は消し飛び、やっぱりこの一族は苦手だとアイゼリアには敬遠される事となった。




