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その13 稲葉家と黒幕

 領主の館の二階にある客間。

 以前に元領主とデューイが会談を行っていた部屋へと、三人は通された。

 それぞれ稲葉家、元鉱山警備隊、そして冒険者の代表としてである。

 勧められたソファーに腰を下ろし、最後にアイゼリアが座るのを見計らったかのように部屋の扉がノックされた。

 失礼しますと言って入ってきたのは召使い二人。

 ティーセットを載せた台車を押しており、各人の前にお茶とお茶請けを配り始める。

 ただその振る舞いはぎこちなく、はっきりとした動揺を現していた。

 何か粗相をする度に恐縮そうに頭を下げ、召使いの二人は足早に部屋を後にしていった。

「とって喰われるわけでもあるまい。なんだ、あれは?」

「似たようなものです。領主の交代劇の後に、館に勤めていた元はほぼ一新されました。次は自分達の番かと、気が気でないのでしょう」

 召使いたちの態度をそれ程気にした様子もなく、アイゼリアは淹れられたばかりのお茶に口をつけた。

 喉を少し潤し、それかそのつもりはありませんがと小さく呟く。

「まずお話しの前に宣言しておきます。恐らく近日中には新たな領主が選定されます。とは言っても、以前の領主でしょうが。ただ、それまでは私が臨時の領主であり、その言葉が以降になって覆る事はありません」

 まず何よりもその事を明言してから、アイゼリアは続けた。

「皆様には、ノーグマンの領主代理として深くお礼を申し上げます。皆様の行動がなければ、ここまでスムーズに、また犠牲なく事を終えられはしなかったでしょう」

「我々の事は何時頃から、知っておられたのですかな?」

「最初からです」

 仁志の質問に、アイゼリアは静かにだがはっきりと断言していた。

 一方が表立って領主の周りを嗅ぎまわり、その間にもう一方が静かに領主の周りを嗅ぎまわる。

 領主が迷いの森へと諜報員を派遣していた事から、その策は見事にはまっていたのだろう。

 裏と表で嗅ぎまわる両者の連携が取れていたのなら、歴とした策なのだが。

「本来ならファーガス殿が警備隊をお辞めになった時点で、こちらから声をかけるつもりでした。今回のように、表立って元領主の周りで派手に動き回って欲しいと」

「しかし、私達が稲葉家の方々と接触した事で、それも難しくなったと?」

「迷いの森へ逃げ込まれてしまいましたので。ですが、好都合な事に元領主の目もそちらへ向かいました。これを逃す手はありませんでした」

 実際はどうあれ、元々はと言われてしまえば、下手な追求は出来ない。

 ファーガスは利用された事に対して仕方なく溜飲を下げ、残るは仁志のみであった。

 元領主の横領を突き止める事が目的であったファーガスや、それを手伝おうとしたオズワルドはほぼ目的を完遂している。

 だが仁志たち稲葉家の面々は、まだ目的を完遂しておらず、その途中と言えた。

 ジュエルモンスターの核となる精霊石の確保と、それを足がかりに権力と言う名の力に触れる事。

 宮廷魔術師などと言うものが出てきた時点で、後者は爪の先程ならば引っかかっているだろう。

 だが前者は限りなく怪しく、それ次第では後者に対しても引っ掛けた爪を払われかねなかった。

 これ以上相手のペースで喋らせるわけにはいかないかと、仁志が流れを返る為に口火を切る。

「そしてこうして元領主の捕縛に成功したわけですが、問題はそれだけではありません。むしろ領主などよりも余程、問題な事が残っています。利用された事に怒る精霊達です」

 方便を使用し、わざと問題を大きくして提示する。

「おいおい、怖ろしい事を言わんでくれ仁志殿。アディ殿ならば、坊に執着しておるではないか」

「いや、それはあの坊やだからだろう。それに他の精霊までもがそうだとは限らん。アディ殿も兵器として利用された事については、怒りを抱いていた様子」

 オズワルドの懐疑的な意見も、ファーガスの慎重な意見もこの場ではありがたい。

 目の前のアイゼリアを脅すように、二人が危機感を促がせば、物が物だけにそれは逆に疑惑へと変わるだろう。

 仮にも領主の横領を調査する為に派遣された人間が、臆病で弱気な人間ではあるまい。

 脅しもあれで相手を見極めて使わなければ、余計なトラブルを招きやすいのだ。

 冒頭でアイゼリアは自分の言葉が、正式な領主が来てからも覆らないと言ったが、書面に残したわけではない。

 あくまでこの場で明言したのみ。

 後で冷静になられた時にやはりアレはなかった事にと言われた場合、突っぱねる事も出来るが、面倒なトラブルである事に変わりはない。

「私の方でもそれは危惧していました」

 それは好都合と、内心で仁志は笑う。

「精霊の怒りもさる事ながら、もっと怖ろしいのは精霊を道具にしようとした事実。私自身も精霊魔術を扱う一人にして、精霊信仰者です。ノーグマンというカータレットの国庫とも言える街から人心が離れては、国が傾きかねません」

「ならば話は早い。我々は領主の横領の事実の前に立ち上がりはしたが、それ以外は何も知りませんし、聞いてもいません。そして、精霊石は稲葉家の方々が住まう迷いの森へと、鎮魂の意味を込めて返しましょう」

「確かに、あそこならば稲葉家の者以外は足を踏み入れる事も出来ん。隠蔽という言葉使いは悪いが、そうするしかあるまい。冒険者の方はわしがなんとかおさえてみよう」

 精霊を宝石に閉じ込めた事実も無ければ、ジュエルモンスターなども知らない。

 そうすれば最悪でも、ノーグマンの街の住民は元領主に怒りを向けるだけで留まるだろう。

 精霊石を知る者だけが口を閉ざせば、後は稲葉家が責任を持って管理すれば事は済む。

 ファーガスに同意するようにオズワルドも頷き、二人はアイゼリアの視線の隙を見て、仁志に合図を飛ばしてきた。

 利用された事に対する半ば仕返しのようなものであろうか。

 アイゼリアにとっても渡りに船な話である以上、完全な仕返しとも言えないが、利用者よりも協力者に傾くのは当然の事だろう。

「稲葉家の仁志さんと言いましたでしょうか?」

「はっ、私が稲葉家の当主である仁志です」

「では今を持って稲葉家をこの地の領主の配下とします。そして領主代理として命じます。精霊の宿る精霊石を管理し、精霊達を鎮める事。そうですね、名目上は迷いの森の管理者というところが妥当でしょうか。以前から国王陛下もこの森については深い興味を示していましたし」

「その任、謹んで拝領いたします」

 あまりにも物事が上手く進みすぎて、頭を下げながらアイゼリアの意図を考える。

 その言葉一言一句全てが本音であるはずがない。

 元領主が開発したジュエルモンスターは強力だが、兵器としては失敗作も良いところだ。

 使用者すらも攻撃に巻き込み、ただ暴れる事が出来るだけ。

 これでは作戦に組み込む事も難しく、他者との連携などとは無縁の存在。

 だが忠敬はアディを通したとは言え、そんな精霊達と手を取り一つの目的を達する為に戦った。

 確かにその事はアイゼリアに知られてはいないが、アディの存在は知られているだろう。

 精霊と直に言葉を交わし、力を借りられる力を持つ精霊石を、怒りを静める為の一言ですんなり渡すだろうか。

 どんな国でも強力な力というものは、常に欲しているものだ。

 まずは稲葉家と精霊の結びつきを強くし、国は稲葉家を手懐ける事で間接的に精霊の力を手に入れる。

 そんなところが妥当な線ではないかと辺りをつけ、望むところだと思う。

 精霊の存在に胡坐をかくのは危険だが、一領主の配下でありながら、国も稲葉家を無視できなくなる。

「稲葉家の本来の任、精霊石については新たな領主に告げる必要はありません。稲葉家はあくまで迷いの森の管理者として働き、何かあれば私が手紙なりなんなりで連絡をとります」

 表向きには領主の配下でありながら、裏では国もしくは宮廷魔術師直属と言う事だろうか。

 稲葉家の名を轟かせる事は少し難しくなりそうだが、権力と言う意味では近い場所にある。

 アイゼリアの瞳を見ながら頷いた仁志は、ここが限界であろうとやや話を変えた。

「しかしながら、このような危険な事をあの元領主が単独で行ったとは考えにくいですな。あのデューイと言う男は、アイゼリア殿の方で捕らえているのでしょうか?」

「いえ、勘の良い男のようで私たちが動いた時には、姿形もありませんでした」

「それは奴が隣国の間諜か何かで、ジュエルモンスターなどというあらゆる意味で危険な研究を行っていたと?」

 ファーガスの言う通り、精霊の怒りや事が露見した時の人心が離れる事を考えると、自国で行うには危険すぎる研究である。

 他国の者が危険を押し付け、成果だけを得る為にと言う考えかたは当然のものであろう。

「断言は出来ませんが、確立は高いでしょう。ただしあの者を捕らえ詳細を吐かせられたとしても、貴方方にその内容を語る事は出来ません」

「そりゃそうだ。逆に、話されても困る。そこまで行くと、わしらの力の限界をとうに超えておるからな」

「この件に関する言及はここまでにしてください」

 オズワルドの言葉を聞き、下手に踏み込まないようにとアイゼリアから注意がなされる。

「オズワルドさんを含め、協力のあった冒険者の方には報奨金を。ファーガスさんの部隊の方には、出来る限り元の鉱山警備隊に戻れるように配慮いたします」

「それはありがたい。事件を解決しても、路頭に迷っては意味がない」

「仁志さんには、後日稲葉家の立場を明確にする話し合いを行います。ただし、色々と後片付けもありますので数日後になるかと。連絡はどちらに?」

「我々は迷いの森の中に住居があります故、ウィルチ村の冒険者の組合にでも一報を下されば問題ありません。毎日とはいきませんが、度々人を遣る事にします」

 アイゼリアの意図が本当のところは何処にあるのか不明だが、とりあえず三人とも納得出来るところへ落ち着いた。

 一番難関と思えた稲葉家の処遇についても、上々だ。

 あとは実際に精霊石を預かるだけだが、既に忠敬が幾つか所持している。

 残り幾つあるかは研究所にいる研究員や、元領主から吐き出させるしかない。

 さすがにアイゼリアもデューイの件とは異なり、そこまで秘密裏にする事はないだろう。

 それにもしもの場合は、アディたちに脅させたりするのは今度こそ効果的だ。

「では一度現場に戻り、状況を確認するとしましょうか。ファーガス殿は部下に、オズワルド殿は冒険者たちに説明が残っています」

「そうですな。私の部下の方は、鉱山警備隊に戻れさえすればそう五月蝿い事も言わないでしょう」

「わしの方はどうだろうな。物事の隠蔽となると少し厄介かもしれんが、それも金次第だろう。それにわしの方からもカードの更新等、取り計らってもらえるよう組合に頼んでみよう」

 まだ残っているであろう雑事を確認しながら、立ち上がる。

「私も現場へ戻ります。表で少々お待ちください。準備がありますので……」

「では我々は館の玄関にてお待ちしております」

 今は領主代理として、そして本来の上司となるやもしれぬアイゼリアへと仁志は頭をさげて退室していく。

 ファーガスやオズワルドも例外ではなく、自分達の半分以下の歳しかとっていないアイゼリアへと頭を下げる。

 あくまで彼女は領主代理、この場の話に効力を持たせる為にも、それなりの礼節は必要であった。

 そんな立場を弁えた仁志たちを見送った後、アイゼリアは直ぐにはソファーから立ち上がれなかった。

 膝の上に肘をつき、目の前にある手に額を乗せて溜息をついた。

 限りなく無表情を装った仮面は、短い間だけだが脱ぎさってしまう。

「疲れた」

 十三人いる宮廷魔術師に数えられてはいるが、少し前までは十代の少女だったのだ。

 相手が元領主のように何もしなくても勝手に踊ってくれる相手ならまだしも、あの三人が相手では感情を隠すのも一苦労。

 かつて剣聖、神槍と呼ばれた歴戦の冒険者に、迷いの森に突如居を構えた稲葉家と言う謎の一族。

 その当主も、二人に負けず劣らない迫力があり、本音を言えばもうベッドに入って休みたかった。

 だがアイゼリアにはまだ、一仕事残っていた。

「アイゼリア、道化たちは先に向かったようだが?」

 律儀にノックをして入ってきたのは、別室にて待機していたデューイである。

 自分と同じように国王陛下の命を受け、元領主をそそのかして精霊石を作らせた。

 そう、仁志たちに語った隣国云々は全て嘘であり、全ては国王陛下の命。

 ある程度研究成果を手にすれば、内部密告から今回のように元領主を断罪する手はずであった。

 だがあのファーガスが敵に回った時点で、少々計画に変更が生じた。

 本来ならば不要であった役者、元領主をそそのかした隣国の間者デューイという人間。

 いつか仁志たちがそう言えばと隣国との火種を持ち出さないように、ここで断たなければならない。

「少々眩暈が……手をお借りしてもよろしいですか?」

 アイゼリアは再び仮面を被り、俯きながら宙に手を伸ばした。

 無警戒で歩み寄ってくるデューイの足音、目前でそれが止まり、伸ばした手が触れ合う。

 瞬間、アイゼリアは懐に忍ばせていたナイフを取り出し、デューイに握らせた。

 そして立ち上がり様に、そのナイフの上に自らの腕を走らせる。

 閃光のように走る痛みには目を瞑り、最も得意な火の精霊へと呼びかけた。

「火の精霊よ」

 呼びかけに応え、身の回りに集まる精霊が炎を生み出す。

 拳大の火球が五つ、生まれた次の瞬間には血の滴るナイフを手に、目を丸くするデューイを撃ち貫いた。

 鍛え上げられた肢体を炎が食い破り、燃え上がらせる。

 体中から炎と煙をあげ、見開いた目が何処を見ているかも分からないデューイが倒れこんだ。

「いつか、こう……ゃかと」

 自分で切りつけた腕の傷を抑えながら、アイゼリアは泣き叫ぶ事のないデューイを見下ろしていた。

 言葉は途切れていたが、彼もこのように切り捨てられる事はある程度予測していたのだろう。

 表面上は冷ややかに燃え朽ちていくデューイを看取り、心の中だけで涙を送る。

 命令とは言え、やりきれない思いがあるのは確か。

 何時か自分もこのようにと思ってしまうが、そんな後ろ向きな考えを支えてくれる想いがある。

「アイゼリア殿、今の音は何事か!」

 だから扉を蹴破るように入ってきた仁志たちへと、冷徹な仮面を被り、振り返って言った。

「デューイです。どうやら失敗を取り返そうと、せめて私の首を狙ったようです。不覚にも手傷を負わされ……手加減をする事も出来ませんでした」

 掲げて見せたのは、自分がデューイに切らせた前腕の傷。

 内側に出来たそれを三人に見せて、襲われた証拠ですとつきつける。

 だがこの時、アイゼリアはようやく終わったと、気を抜きすぎていた。

 傷跡を見て、少なくとも仁志だけは不可解そうにしている事に気付けなかった。







 アディたちが脅すまでもなく、元領主は命惜しさに精霊石のありかをべらべらと喋ってくれた。

 それら精霊石を手にした仁志たちは、後の事をアイゼリアに任せて一度迷いの森へと帰ってきていた。

 道中はアイゼリアが連れて来ていた兵士に護衛され、その兵士たちとも迷いの森の手前で別れている。

 オズワルドやファーガスとは、それよりも以前、ノーグマンの街で別れていた。

 何しろ互いの居場所は、はっきりしている上に、歩いて半日の場所。

 お疲れと言う慰労の言葉は掛け合ったが、別れを惜しんで握手を交し合う程でもない。

 別れの挨拶も、近々落ち着いたらゆっくりと酒でも組合そうと言ったぐらいだ。

 もちろんお前はミルクでなと、忠敬はオズワルドに言われてしまったが。

 時刻は既に深夜近く、完全に闇の中に落ちた森の中を、炎の精霊である狛犬型のコマが明かり代わりとなって先を歩いている。

 本当はノーグマンに一泊してからでも良かったのだが、家で待つ薫子と小春に一刻でも早く無事を知らせたかったのだ。

「父さん、何か心配事ですか?」

 暗闇の中でも、浮かない顔で仁志が思案に暮れるのは忠敬にも見えている。

 皆が無事で事を終え、稲葉家を興す足がかりも手に入れた。

 なのに何を心配する事があるのかと、忠敬が不思議に思っても仕方がない。

「うむ……」

 歯切れの悪い仁志の言葉に、忠敬にまで漠然と不安が伝染してしまう。

 その事に気付いたのか、仁志は答えを口にしないままただ忠敬の頭を撫でつける。

 デューイに傷つけられたと見せられたアイゼリアの前腕の傷。

 確かにそこには刃物で傷つけられたらしき真新しい傷があった。

 傷があったのは良いが、問題なのはその場所。

 前腕部の内側に傷があったのだ。

 他者から切りつけられた場合、普通の人は腕で自分を庇い腕が切られる。

 例えば前腕部の外側、または側面部などに。

 自分から腕を差し出さない限りは、間違っても腕の内側が切られるような事はない。

 そうなるとアイゼリアは自らその傷を腕に付けた事が考えられ、デューイに襲われたという言葉も怪しくなってくる。

 あれが自作自演ならば、何故その必要がと考えが飛躍するものだ。

 例えば、デューイが隣国の間諜と言うのは全くの嘘で、本当の黒幕はアイゼリアの上司かさらにその上、国王陛下だったなど。

 仁志はその考えがそれ程、見当外れだとは思っていない。

 ただし、アイゼリアがこれで終わりだと見せ付けた状況を、覆すつもりはなかった。

 そんな事をしても稲葉家としてはメリットがなく、むしろデメリットしかない。

 では仁志が何を悩んでいたかと言うと、この事実を忠敬に告げるかどうかだけである。

 平然と人を切り捨て、メリットがないからと気付きながら沈黙する自分。

 今回の事で様々な事を経験し、人の死に様まで見てしまったが、やはり忠敬は十歳の子供。

 そこまで教え、考えさせるのはまだ早いだろうと思う。

 撫でられた事に一瞬きょとんとした後、やや照れながらも嬉しそうに微笑む表情を見て仁志は決断する。

 今は事を成し遂げた満足感に浸らせようと、いずれ大きくなった時に事実を告げ、そう言う事もあると教える事にしようと。

「殿、稲葉の家が見えてきたでござる。いや、濃密な時間を過したせいか。やや感慨深いものがありますな」

「さあ、忠敬。薫子や小春にその顔を見せてやれ。今か今かと待ち構えているはずだ」

 頭を撫で付けていた手で、その背中を押してやる。

 だが忠敬が押されるままに走り出すより前に、前方から走ってくる影があった。

「若!」

 それは本当に今か今かと待ち構えていた小春であった。

 寝込んでいた時とは雲泥の差の様子で駆け寄ってきて、そのまま忠敬に抱きついた。

 すっかり元気になったのは良いが、抱きつかれた忠敬は困惑しきりである。

 忠敬には帰ってきたら小春に言いたい事があったのに、振り回されて口も利けない。

「若、若。お怪我はありませんか? こんなにやつれて。小春がいないと若は駄目なんですね。分かりました。直ぐに小春が疲れた若の心も体も癒してさしあげます。きっと病みつきになります」

「ちょ、小春さ……う、うぇ」

 ガクガクと体を揺さぶられ、現在進行形で忠敬は疲弊し始めていた。

「いやあ、これを見ると帰ってきたと感じますな」

「やれやれ、小春は相変わらずの様子だな」

 稲葉家にとってほぼ恒例行事となっている小春の暴走だ。

 忠敬と離れていた事もありいつもよりやや大げさだが、許容範囲である。

 その足元でコマが助けるべきかどうか迷い、ウロウロとしていた。

 状況的には助けるべきだと感じているらしいが、仁志たちが何もしない為余計にわからなくなっているらしい。

「こら、小春いい加減にせんか。忠敬が壊れる」

「ずっと若と一緒にいたのにアディさんは分かっていません。どれだけ若が寂しい思いをしていたのか」

「ほう……我では忠敬が不服であったと。そう申すのか?」

「はい!」

 至極真面目な顔での断言に、一瞬アディが沈黙する。

「言ってくれるな。試してみるか、小春!」

「はいはい、そこまで。落ち着きなさい、アディちゃん」

 言葉が過ぎると白い狼の姿になったアディの頭に、手を置いて諌めたのは薫子であった。

 目を回している忠敬を、小春の腕の中から取り上げアディの背中に乗せる。

「小春ちゃんも、こんなところでお出迎えされても皆が疲れちゃうでしょ。新しい家族も増えたみたいだし、お話は家の中でゆっくり聞かせてもらいましょう」

 そう言って、足元でウロウロとしていたコマの頭を撫でる。

「今帰った、薫子」

「はい、お帰りなさい仁志君。寅ちゃんもね」

「ただいま戻りました、奥方」

 薫子に促がされ、仁志や寅之助が稲葉の家の門を潜る。

 ようやく意識がはっきりしてきた忠敬は、アディの背を降りて改めて小春に向き直った。

 自らの行動を省みて、小春はしょぼんとしていた。

 さすがに一仕事終えて帰ってきた忠敬を振り回すのはやりすぎたと思ったのだろう。

 アディの存在を一刀両断してしまった事では恐らくない。

「小春さん、ただいま」

「あの、若?」

「ただいま戻りました、小春さん」

 直ぐに答えられず戸惑う小春へと、忠敬はもう一度言いなおした。

「お帰りなさい、若。お疲れ様でした」

 やっと笑顔で返してくれた小春の手を取り、忠敬も稲葉の家の門へと向かう。

 色々と力及ばず仁志や寅之助に頼りはしたが、出来る範囲で力になった。

 侍を目指す上で、稲葉家を守り立てる為にも当然の事だが、それ以外にも目的はあった。

 自分の為に無理をして心を削ってまで働いてくれた小春に答える為、こう言って伝える為。

 繋いだ手をより強く握り、忠敬は小春を見上げるようにして言った。

「小春さんのおかげです。今回の事が上手く行ったのも、僕が頑張れたのも全部小春さんのおかげでした。ありがとうございます」

「お礼なんていりません。私は若の為になる事が出来るなら、それだけで幸せなんです」

「それでも言いたいんです。ありがとうございますって」

「若……」

 感極まったように目元を潤ませる小春。

 ただこの場にいるのは二人だけではなかった。

「ええい、我を仲間外れにするな。我とて忠敬を体を張って守ったぞ。そうだ、我とも戯れる事を要求する。約束したはずだ」

「折角若が小春に愛を囁いてくれたのに、邪魔を……ですが甘い、甘いですよアディさん。若への忠誠に対して対価を求めるなんて。全ては愛。若もついに小春への愛に目覚めて念願の精つぅが!?」

「何を口走っていますか。二人ともいい加減にしてください。寛容な僕も、いい加減かんにん袋の尾がきれますよ。特に小春さん!」

 前々から言動は怪しかったが、何故それを知っていると思わず脛を蹴ってしまう。

 もちろん来ていない事を知っているのだと言う意味でである。

 台無しだ、色々と。

 小春の為に一生懸命頑張ったのに、対価を求めていないのはまだ良い。

 だがそう言いながらも貞操を狙われては、言動の不一致にも程がある。

「小春さんがそのつもりなら、二度と言いませんから。金輪際、ありがとうは聞けないと思ってください」

「ああ、若にボロ雑巾のように使われてしまうのですか。望むところです。思うが侭に、小春の肉体をむさぼりつくしてください、若」

「勝手な想像で恍惚としないでください!」

「む、なんだその楽しそうな響きの戯れは。我も混ぜろ!」

「アディさんが混ざると余計にハードルが高い。しませんから、どちらともそんな事はしませんから!」

 門前から聞こえるそんな声を聞きつつ、仁志たちは一足はやくお座敷の方でお茶を飲んでいた。

 改めて帰ってきたなと実感しつつお茶をすする。

「そう言えば、若はまだ生えていませんでしたな」

「まだまだこれからよ。そのうち、仁志君みたいに立派になるわよ、ね?」

「人としてと言う意味なら肯定する。だが、別の意味なら……お前も自重しなさい、薫子」

 そして綺麗な装飾をされた宝石箱に納められた精霊石に封じられた精霊達も。

「忠敬もいずれは、仁志や寅之助のような渋い男前になるのかえ。そんな忠敬を見守るのも面白いやもしれぬな」

「僕ここにいていいのかな。なんだかあの門のところに居なきゃいけない気がする」

「賑やかで結構結構、わしもそのお茶とやらを飲んでみたいのう」

「水浴び……」

「ああ、明るい。天上の世界かここは……光を、もっと光を」

 成長した忠敬を想像して楽しむレインに、宝石箱に収まり落ち着かない様子のコマ。

 お茶に興味を示したゲンに、戯れる事しか頭にないエチゼン。

 そして、第三坑道にて暴れた雷の精霊、実は暗所恐怖症だった雷の兎、ライウ。

 まだ自我に目覚めていない精霊も含め、その思いは様々。

 ただ皆一様に、自我と体を得た事で得られる新たな戯れに思いを馳せながら宝石の体を輝かせていた。

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