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その1 稲葉家

2010年4月24日をもちまして、この作品は更新停止をしております。

 無粋な足音が壁を突き破り、部屋の中どころか布団の中にまで侵入を果たしてくる。

 布団の中の小さな盛り上がりは抵抗を示すように、より小さく体を縮ませて布団の中へと逃げ込んでいく。

 だが逃げているだけでは侵入者の歩みを止める事は決して出来ない。

 ついにその足音は部屋の前にまで辿り着き、一際大きな音を立てて移動を止める。

 刹那の間もない静寂、その刹那でさえももどかしいとでもいうように廊下と部屋を隔てる役割を持つ襖が勢い良く開け放たれた。

 その勢いたるや対となる二枚の襖が重なり、終端にて壁を叩き舞い戻る程であった。

 結果、襖は二度開かれる。

「若、早朝鍛錬の時間でござる。さあ、起きて下され!」

 襖を開け放ったのは二十代中頃は過ぎているであろう、生命力溢れる精悍な顔つきの男であった。

 背丈は優に百八十を超え、鍛え上げられたその肉体を言葉使い同様に時代錯誤と言えなくもない深い緑の野袴に包み込んでいる。

 男は若と呼んだ布団の盛り上がりを見て、なさけない姿をと口には出さずに手を伸ばす。

 しかし、布団へと伸びた手は、第三者の手によって掴まれ止められた。

「寅之助さん、早朝に叫んではご近所の迷惑です。何よりも起床なさる若の迷惑です」

 男をそう呼んでたしなめたのは、女性であった。

 寅之助よりも年下で二十の頃、濃紺の着物と言う古めかしい格好は男女の違いこそあれ似通っており、長い黒髪は首の後ろでリボンで結んでいる。

 体格は寅之助と比べるまでもなく華奢であるが、掴み取った腕はそこから一歩も動かさせない意志が込められていた。

「それに若を起こして差し上げるのは、私の仕事。寅之助さんは、先に外で汗を流していてください。ただでさえ元気が良すぎるのですから、それに付き合わされては若が潰れてしまいます」

「何を言うか、小春殿。侍にとってこの程度は当たり前の事。稲葉家の男児たる若には、もっと覇気を持っていただかなければならん。お天道様が既に空に駆け上がろうというこの時間になっても、まだ布団の中で蹲るとは嘆かわしい」

「だから、これから私が若を起こそうというのです。寅之助さん、あまり私を困らせないでください。そんなに朝食が要らないと仰るのであれば、止めませんが」

「ぬ……致し方ない。若、先に外で待っておりますぞ。お急ぎ下され、朝の時間は貴重ですからな」

 一日の活力とも呼べる朝食を盾にとられ、寅之助は口ごもり、せめてと未だ布団で小山を作っている若へと捨て台詞を残して行った。

 憤怒とまではいかないが、後ろ髪を引かれる思いらしく去って行く時の足音は来るときよりも大きく聞こえた。

 その足音が小さく、やがて聞こえなくなると小春はまったくと困ったように眉毛を八の字に落とし、改めて小山を作る布団へと振り返る。

 寅之助と小春の一連のやり取りの間も、諦める事なく布団に篭り続けていたのは根性があるのかないのか。

 布団の前に進み出て、膝を曲げてしゃがむと、盛り上がる布団の頂点に手を添えるようにして揺り動かす。

「若、本当は起きていらっしゃるのでしょう? 起き抜けに寅之助さんの声が響くのはお気持ちを察しますが、偶には先に起きていてはいかがでしょうか?」

「そんな事をすれば、今日は気合が入っていますなとか言って、無茶をさせられるのが目に見えていますよ」

 小春が布団を揺り動かし始めて数秒もせずに、布団の中から若こと稲葉 忠敬が顔を外へとのぞかせた。

 その小さく丸い顔は幼さ以外のものは見つからないが、瞳が発する光は対照的に大人びたものが見える。

 寅之助が早朝訓練と称したように、現在時刻は朝の五時を少し過ぎた所であった。

 年齢が二桁に達したばかりの忠敬ぐらいの少年にすれば起きるには辛すぎる時間帯であるはずが、一度布団から顔をのぞかせて以降、テキパキと行動を始めた。

 布団から抜け出し、昨晩寝る前に用意しておいた運動用ジャージに着替えて、パジャマはそのまま洗濯機行きであるのにきちんと折り畳んでいく。

 この年代としてはけじめある行動を前に、頬を膨らませていたかと思えば、深く溜息をついたのは小春であった。

「小春さん、どうかしましたか?」

「つまらないんです」

「その心は?」

「若もたまには我が侭を言ったり、愚図ったりしてください。若が立派なのは喜ばしいのですが、手を焼きたいんです」

 小春の要望はある意味で忠敬も望む所であるが、そう上手くはいかないのが世の中である。

「小春殿、若はまだ起きませぬか!?」

「今行きますから、叫ばないで下さい寅之助さん」

 外から飛んで来た寅之助の催促に、二階にある自室の窓からやや身を乗り出して返答を返す。

 小春に手を焼かせては、寅之助の訓練に間に合わない。

 気の長くない寅之助を最低限満足させる為には、小春に手を焼かせている場合ではない。

 どちらをとることもできないのであれば、どちらも程ほどにするしかないと忠敬は思っていた。

「それじゃあ、僕は寅之助さんの所にいきますから」

 だから、部屋の外へと向かう時に、綺麗に畳んで置いたパジャマへわざと足にひっかけて蹴り飛ばす。

 あくまでさりげなく、その後でちょっと転んだ振りをしてみせてまで。

「わ、若!?」

「すみません、小春さん。僕は急ぎますので、畳んで置いてもらえますか?」

 小春の驚いた様子に大根ではなかったようだと思いながら、再び立ち上がって駆け出そうとしたが、

「そう言うところが、可愛すぎます。大好きです。もう、小春をお嫁に貰ってください!」

 後ろから思い切り抱きしめられて、身動きがとれなくなった。

 大根ではなくとも、名役者には程遠かったようだ。

「小春さん、離してください。早く行かないと、寅之助さんが」

「寅之助さんなんて放っておけば良いんです。それに若がいけないんですよ。そうです、可愛すぎる若がいけないんです!」

「人のせいにしないで下さい。現に僕を足止めしているのは、小春さんの意志でしょう!?」

「あと五分、いえせめて十分。若を堪能させてください!」

「せめてと言いつつ、増えてますよ。それにそれは、先程まで布団の中に居た僕の台詞ではないですか? 起こしに来た人が何を言っているんですか!」

 寅之助は寅之助で面倒だが、小春は小春で別の意味で面倒臭い事この上ない。

 背中の辺りにおでこをおしつけられ、ぐりぐりされながら諦めの境地に至りそうな忠敬は溜息をついていた。

 そもそも時間がないから小春の手を煩わさせなかったのだ。

 だと言うのに、忠敬が小春によって手を煩わさせられたとしたら、どうなるのか。

 至る結果は同じである。

「若ーッ!」

 外に待たせていた寅之助の沸点が臨界に至り、近所迷惑な叫び声が高らかと上がっていった。






 稲葉家は、名家と呼ぶには程遠い家であった。

 家の建つ敷地はそれなりに広く、倉庫代わりの蔵が複数建っていたり、敷地内に広い畑があろうと、精々が土地持ちといった程度。

 忠敬の父である仁志は農業を営んでおり、母である薫子は専業主婦、もちろん忠敬自身は小学生である。

 通う学校も公立のもので近所の同年代と変わるところはない。

 しかしながら、稲葉家はかつて多くの家臣を所有する豪族であり、戦国の世では城を持つまでに発展した由緒ある家柄らしい。

 らしいと言うのは、あくまで忠敬が両親や家臣の末裔である寅之助や小春から聞かされただけであるからだ。

 証拠など何一つなかった。

 忠敬の知る限り、蔵の中には仁志の仕事道具である農具や米俵の類ばかりで、値打ちものの刀剣類などありはしない。

 寅之助や小春が忠敬にむける忠義を疑うのは可哀想だが、今の時代に忠義と言う考え方も真面目に考える方がおかしい。

「と言うわけでも……ない、のですが。毎日、毎日……もはやこれは虐待ではないですか?」

 息も絶え絶え、時折こみ上げる吐き気を前に胸に手を当てながら、忠敬は呟いた。

「何を仰りますか、若。この程度、運動にも入りませんぞ。もっと身を入れてくだされ。さあ、今日こそ、打ち込み百本まで完遂するでござる」

 忠敬が十キロ程度のランニングから帰ってきた時には、既に一人素振りをしていた寅之助が軽いものだとばかりに言ってのける。

 だが言われた忠敬は、手渡された木刀を、本来の用途とはかけ離れた杖代わりにして体重を預けていた。

 そうしなければ、今にも倒れこんでしまいそうになるからだ。

 何時からか思い出すのも嫌になるが、早朝より行われる訓練は、忠敬の身には負担が大きすぎる。

 準備体操の後に十キロを走り、その後は竹刀ではなく木刀で素振り、打ち込みと続いていく。

 寅之助はそれ以上に鍛錬を積んでいるが、忠敬は十キロを走りきるので精一杯で最後までまともに続けられた事はない。

 むしろ、毎日、それこそ土曜だろうと日曜だろうと続けられるランニングを完走している事こそを褒めてほしいぐらいだ。

 毎日がマラソン大会、神経の細い子ならばきっとそれだけで塞ぎこんで引きこもりになることだろう。

 毎日が遠足とは違うのだ。

「とりあえず、最新記録。走りこみの後に、素振りいっぽ」

「はッ!」

 木刀を杖から本来の用途に使おうと、ヘロヘロの素振りをした途端、寅之助の手の中にあった木刀にて切り払われる。

 突然の横暴に心構えがあろうはずもなく、無抵抗のままに忠敬の手にあった木刀は宙を舞った。

 それだけに留まらず、弾かれた痛みは木刀から忠敬の手に伝わり、痺れを伴わせる。

「痛ッ……急に、何をするんですか。危ないじゃないですか!」

「若、木刀とは言えど刀、武士の魂。そのような魂も片鱗も込められぬ素振りを見過ごすわけにはいかんでござる。そのような心構えだからこそ、若の剣の腕は一向に伸びる気配を見せんのでござる」

 寅之助の力説に対して、打ち払われた木刀を拾い上げる最中、忠敬はこっそり溜息をついていた。

 嫌々やらされて、剣の腕が伸びるはずがない。

 忠敬だって男である以上、剣術に魅せられる事はあり、寅之助の強さには憧れだって抱く。

 けれど、どうしても剣を握らされる現状に、強制を感じてしまう。

「若、寅之助さん。今日の早朝訓練はそこまで、そろそろ朝食の時間ですから手早く汗をながしてきてください。仁志様は既に、卓についていらっしゃいますよ」

 のろのろと時間をかけて木刀を拾い上げようとしている間に、つっかけを履いた小春が庭にまで呼びにきた。

 もちろん、そろそろ時間であろう事を察して、忠敬は木刀一つ拾うのにも時間をかけていたわけだが。

「小春殿、しばし待たれよ。若、一本。魂を込めた素振り一本で今日のところは終了と致しましょう」

 元々一本と言い出したのは忠敬なのだから、嫌だとは言えない。

 言ったところで寅之助が男に二言はなしとでも言って、聞いてはくれなかっただろうが。

 仕方なく、拾い上げた木刀を正眼に構える。

 身の丈に合わないランニングにて乱れた息も、それなりに整ってきていた。

 もちろん、寅之助が求めている一本が出来るとは思っていない。

 何しろ、仕方なく木刀を構えたのだ。

 これで一本に魂が乗ったとしたら、自分の魂の安さに逆に呆れ果ててしまう。

「行きます」

 それは、及第点を出しますという意味で放った言葉。

 木刀を徐々に持ち上げ、掲げていく。

 正面を向く視線の先には、何も見えない。

 仮にこの木刀が真剣だとして、この科学万能の時代に何を切ると言うのだ。

 異議を見出せないからこそ、身が入らない、強制されたという思いが耐える事はない。

「はァッ!」

 何を切るのかわかりもせず、木刀は振り下ろされる。

「若、もう一本!」

 そして、間髪入れず寅之助の木刀によって弾き飛ばされる。

 それが十回以上続き、忠敬は自らの魂が安くはない事を知り、もしや非売品ではないかと疑いを持った。

 結局、これ以上は待てないと小春の言葉による水入りとなり、早朝鍛錬は中断された。





「殿、お待たせいたしました」

 寅之助と一緒に風呂で汗を流してくると、仁志のみならず薫子も小春も卓で二人を待っていた。

 家長である上座に仁志が、その両側、長方形の卓の長辺にあたる場所に薫子、その向かいに忠敬が座る。

 すると、ご苦労だったとばかりに伸ばされた仁志の手の平が、生乾きである忠敬の頭を撫で付けた。

 今年で四十となる仁志は、寡黙な人であった。

 十歳である忠敬の父としてはやや歳がいっており、同年代に比べて白髪も皺も多い。

 だがそれ以上に、威厳とでも言うべきか、人としての完成された何かがあるように忠敬には見えていた。

 寅之助に見る侍としての強さとは別のものを持っている父を、忠敬は好きであった。

「小春ちゃん、ご飯をお願いね。私は、お味噌汁をよそってくるわ」

「はい、薫子様」

 全員がそろった事を確認すると、卓の上に用意してあった汁物のお椀を盆に乗せて薫子は台所へと向かった。

 その途中、忠敬の髪が乾ききっていないのを見て、ぺこんと一叩きしていく。

 急いで来たのだから察して欲しいと思った忠敬だが、薫子の忍び笑いを見て、悪戯半分かとむくれる。

 寡黙な父である仁志とは対照的に、薫子は子供っぽく悪戯好きなところがあった。

 二十八歳と仁志とは十二歳と干支が一回りもするぐらい歳が放れている事が、多少なりとも関係あるかもしれない。

「もう……」

 仁志のようにもう少し落ち着いてくれと心で呟きながら、忠敬は改めて周りを見直す。

 自身はもちろんの事、父である仁志、母である薫子、そして家臣と言うよりは居候である寅之助と小春。

 この五名が現在稲葉家の家にて共に生活を営む、全員であった。

「では、頂こうか」

 それぞれの前に白飯とお味噌汁、焼き魚にお新香、海苔と正しい日本人の食事が並び終えると、仁志が静かに呟いた。

 両手を合わせ、いただきますと声がそろう。

 思い思いに朝食に手をつけ始め、一日の活力となるエネルギーの元を噛み締める。

「美味いか、忠敬」

「はい、美味しいですよ。今日のお新香の漬かり具合が丁度良いです。辛すぎず、薄すぎず」

 子供がお新香の漬かり具合について語るのもおかしな気がしたが、本心だったので飾らず呟く。

「若、今日のお新香は私が漬けたんですよ。しばらくの間は、若の好みのお新香が毎回食卓に並びますからね」

「期待していますね、小春さん」

「それはもう、たっぷり期待しちゃってください」

「俺は辛いぐらいが丁度良いのだが……」

 寅之助が呟くも、食卓での武力は小春の方が遥かに上な為、あっさり黙殺されてしまう。

「寅ちゃん、薄味が駄目なら別に出してあげるわよ」

「いえ、奥方の手を煩わせるわけには行きません。それに、食事は同じ卓で同じものを食べてこそです」

「寅之助の言う通りだな。時に寅之助、忠敬の鍛錬の具合はどうだ?」

 仁志の問いかけに、絶えず動いていた忠敬の箸がピタリと止まる。

 特に深い意味があって尋ねたわけではないであろう事は解るが、あまり聞いて欲しい内容ではなかった。

 自分自身で素人に毛の生えた程度と解っているからなおさらだ。

「あまり順調とは申せません。理由は若自身が理解しておられるのですが、理解してしまっているからこそ問題と言いますか……私の指導力不足であります」

 仁志を相手にし、主語を俺から私に変えながら寅之助は頭を下げた。

「忠敬、剣は嫌いか?」

「いえ、嫌いではありません。ですが、進んで習う意義も見出せません。心を鍛えるなら剣道で十分ではありませんか。何故剣術に拘るのか、僕にはわかりません」

「そうか」

 忠敬に対して何かを言い募ろうとした寅之助を手で制止、短く仁志が呟いた。

 少し、食卓に静寂が訪れ、食器だけが時折カチャカチャと音を立てる。

 正直に言いすぎただろうかと、空気の重さに耐えかね忠敬が思っていると、再び仁志が呟いた。

「忠敬、今日は休日だが予定はあるか?」

「特にはありません」

「なら少し父の仕事を手伝ってみるか? 与えられるままに、無理に受け入れたり、意義を見つける必要は無い。今はただ多くの事を経験する事だ」

「はい、解りました」

「殿、それに若。この寅之助も助太刀いたします。今日は他所の道場に指南に行く予定もございません」

 本当のところは定かではないが、寅之助の申し出に仁志は頷いていた。

 それを期に、少しばかり空気を換えようかと努めて明るく薫子が言い放った。

「それじゃあ、今日のお昼はお弁当でも作って外で食べましょうか。ピクニック気分で」

「それでは私は、お弁当を作るお手伝いをします。若はおにぎりが良いですか? それとも、サンドイッチが良いですか?」

「それじゃあ、たまにはサンドイッチで」

「お待ちくだされ、若。パンなどというあんなスカスカなものを食べていては、腹が膨れません。やはり弁当と言えば、握り飯でござる」

 一言で言えば偏見、けれどいかにも寅之助らしい意見に皆が笑う。

 それは仁志も例外ではなく、ふっと笑みを深め笑っていた。

 ただ寅之助本人は、当然の事を言ったまでなのに何故笑われると不思議そうにしている。

 このまま昼食のお弁当をサンドイッチに決定してしまっては、空腹にも関わらず武士に二言はないと寅之助が昼を抜きかけない。

 困った人だと、忠敬が前言を撤回しようとした時、卓の上の食器たちが一斉に音を奏でる。

 一瞬の事ではあったが、誰も触れていない食器たちが震えるように音を立てていた。

 その異変が気のせいではない事は、この場にいる全員が互いに顔を見合わせる事で明らかであった。

 地震、その単語が脳裏に浮かぶと同時に、より大きなそれが訪れた。

 食卓に留まらず、家全体が縦に揺れる。

 揺れ幅は大きく、窓ガラスが異音をたて、家全体が軋んだ音をたてていた。

 お座敷に箪笥や食器棚のような大きな家具はないが、それでも頭上を気にしないわけには行かなかった。

 この時、迅速に行動を起こせたのは五人のうち、二人。

 仁志はすぐさま薫子へと駆け寄り、食卓の下へ入るように促がした。

 同時に寅之助も忠敬を食卓の下に放り込み、次に遅れて小春へと駆け寄ってから食卓の下へと入らせる。

 避難場所が食卓しかないとは言え、三人でも定員オーバーであった。

 最後に寅之助は仁志も何処かに避難させたがっていたが、逃げ場もなく、仁志自身がその場を動く事を良しとしていなかった。

 数秒か、数分の事か、何時までも続くかのように思えた地震は、徐々にだが収まっていく。

 地震が小さくなるにつれ、心に余裕が生まれ始めたのか、卓の上にある食器が奏でる乱痴気騒ぎが耳に大きく聞こえるようになっていた。

 だがその乱痴気騒ぎも地震が途切れると同時に消えていった。

 余震を警戒し、警戒していた仁志がそろそろ大丈夫かと、卓の下にいる三人に声をかける。

「三人とも、大事はないか?」

「私はありませんが……薫子様と若が、出会いがしらにごっつんこと」

 もぞもぞと卓の下から出てきた小春の言葉に驚くも、その程度かと安堵させられる。

 慌てていたとは言え、文字通り忠敬を狭い卓の下に放り込んだ寅之助は尚更だ。

 だが安堵の顔は、異変を察知したかのように急変した。

 何やら違和感を感じたらしき寅之助は、お座敷から縁側へと続いている障子戸をゆっくりと開いていった。

 お座敷から続く縁側の向こうには庭が、さらにその向こうには垣根があり道路を挟んでお隣の民家が建っているはずである。

 だと言うのに、開かれた障子戸の向こうには一面の緑があった。

 庭はある、垣根もだ。

 おかしいのは垣根より向こう側、そこには道路も、お隣の民家もない。

 あるのは緑、それを構成する木々、つまり森。

「御免」

 異変を確かめようと、寅之助が駆け出す。

 恐らくは、二階、上から状況を一望しようと言うのだろう。

「寅之助さん、僕も」

「若、あまり不用意に動いては。薫子様は、仁志様のお傍を離れないようにお願いします」

 寅之助を追って駆け出した忠敬を、小春もまた追いかける。

 お座敷を出て廊下から階段へ、二階へ駆け上がると、全ての部屋の扉が開け放たれていた。

 家の四方を眺める為に、寅之助が開けて回ったのだろう。

 個人の部屋への無断侵入ではあったが、そんな事を言っている場合ではなかった。

 寅之助が最後に入ったのは、忠敬の部屋であり、忠敬と小春もおっかなびっくり入っていく。

 起床時とは違い、布団が片付けられカーテンも開け放たれて窓の隅に纏められている。

 その窓の向こうに広がる景色、同じ場所から見えるそれは、普段のそれと全く違ってしまっていた。

 お座敷の縁側から見えた光景と同じ、緑一色。

 木一つ一つの背丈が高く、二階からでも遠くまで一望する事は出来ないぐらいである。

「東西南北、全て同じでござった」

「そう、なんですか?」

 寅之助の唖然とした呟きに、それ以上の言葉を返す事は出来なかった。

「若……」

 寄り添うようにして、小春が忠敬の後ろから肩に手を置いたのは、忠敬の不安を払拭する為か、それとも自分の不安を払拭する為にか。

「寅之助さん、とりあえず下に降りましょう。何時までも変わらない光景を眺めていても仕方がありません」

「若の言う通りでござるな。殿にご報告しなければ……」

 普段は頼もしく厳しい、時に面倒な寅之助の声も、さすがにかすれていた。

 大きな、とても大きな地震であった。

 自分の部屋を出ながら、忠敬は思い出す。

 震度はどれぐらいだっただろうか、大きかったわりには食卓の上はそれ程、荒れてはいなかった。

 お茶や味噌汁が零れた様子もなければ、台所の方から食器が割れるような音も聞こえず。

 そう思うと、とても奇妙な地震であった。

 被害と言う被害と言えば、ずきずきと痛む忠敬の額だけである。

 いやもう一つ、薫子の額もだろうか。

 一体、この状況は、あの地震は何であったのか。

 細部を、少しでもヒントとなる何かを思い出そうと、駆け上がったときとは違い一段ずつしっかりと階段を降りていく。

 異変の中にありながら、やけに落ち着いている自分を感じるが、家族がそろっているからだろうか。

 そんな事を考えながら最後まで階段を降りきったところで、第二の異変が聞こえてきた。

「うわあああッ!」

 それは誰かが何処かであげた悲鳴。

 屋内からではなく、屋外から、耳慣れぬ声とその遠さが示していた。

 忠敬は寅之助や小春と顔を見合わせてから、元いたお座敷へと急ぐ。

「父さん、今の悲鳴」

「事態も事情も飲み込めぬが、放ってはおけん。寅之助、念の為だ。持っていけ」

 そう言った仁志は、床の間に飾られていた刀を寅之助へと放り投げた。

「御意」

 刀を受け取り腰に帯びると、手短に答えてから寅之助が駆け出した。

 その後ろ姿を見送り、何か心に疼きのようなものを忠敬が感じていると、床の間に残っていたもう一本が投げ渡される。

 それは寅之助が持っていった刀と対になっている脇差であった。

 まさか堂々と床の間に飾られていたそれが本物だったのかと、驚きつつ投げられたそれを受け取る。

「色々な事を経験する事だ」

「はい!」

 遅れて寅之助を追いかけ、忠敬が外へと飛び出していく。

 さらにその後を追いたそうにしていた小春であったが、耐え忍ぶように唇をかみ締めていた。

「すまんな、小春には薫子の護衛を頼む」

「はい、分かっています」

「私としては、小春ちゃんには忠敬を見ていて欲しいのだけど。仁志君も、別口で外に?」

 そう尋ねた薫子の手の中には、何時の間に取って来たのか薬箱があった。

「畑の方を見てくる。何が起きているかは分からない以上、食料の確保は重要だ」

「それもそうね。いってらっしゃい」

 緊張感があるのかないのか、普段と変わらぬ見送りを行い、薫子が小春へと振り返る。

「小春ちゃん、念のためお湯を沸かしておいてね。虎ちゃんが向かったから大丈夫だとは思うけれど」

「若も向かってますし。けれど、色々と使えるんでしょうか?」

 忽然と、森の中に移動してしまったかのような稲葉家の敷地。

 ガスは備え付けのタンクから供給されるからしばらくは大丈夫だろうが、電気や水道は使えるのか。

 小春の懸念はそれを指していた。

 一頻り思案した後、おもむろに電灯から伸びる紐を薫子が引っ張ると、あっさりと電気がついてしまった。

 一体何がどうなっているのやら、とりあえず二人は考えるのを後にしているかどうか分からない怪我人の為に動き始めた。

およそ二年ぶりの投稿となります。

おそらく私の名を憶えている人もいないのではないでしょうか。

そんな事はさておき。


オリジナルの連載を始めさせていただきました。

コンセプトは、一家全員異世界転移と侍の家系です。

やはりライトノベル等では、十代の少年少女の心を反映させ、親の表現はほとんどありません。

どう反映させているかは、多くは語りませんが。

このお話しでも全面的に出番があるわけでは有りませんが、きちんと描写していきたいとは思っています。

あと、侍の家系については明日最終回を迎えるシンケンジャーの影響です。

殿や若と呼ばれるキャラクターを書きたかった、それに尽きます。


さてさて、タイトルは「異界の地にて稲葉家を再興す」ですが一話にして看板に偽り有り。

主人公がまったくそんな気がなく、剣術すらもまともに習う気がない状態。

ここからどう変わるか、また彼を取り巻く人たちが何を思って動くか。

頑張って書いていこうと思います。

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