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司馬遼太郎について、語れるだけ語ってやる!

作者: 藤樹(ハンモック職人)

大衆向け歴史小説の大家を3人に挙げよ……と、言われれば。

司馬遼太郎・池波正太郎・新田次郎の、3人を挙げる。

3人とも高度経済成長期(1955〜1973)の男性サラリーマンを中心に、絶大な指示を受けた。

大河ドラマの原作にもなり、大体の家庭の本棚には、著書が必ずあったものだ。

その3人の中で、最も影響力を持っていた作家は、間違い無く司馬遼太郎だろう。

【司馬史観】なる俗語が出来るくらい。

日本人の歴史観に影響を与えた。

そんな司馬遼太郎の作品の魅力、または、考えを語ってみたいと思う。


1、はじめに。 


「終戦の頃の自分への手紙」

司馬遼太郎は自分が歴史小説を書く理由を、そのように述べた。

戦時中、学徒出陣で戦車部隊に所属。

そこでの軍の体たらくにショックを受けた。

本土決戦が近いとされた終戦間際。

上官の軍人に、逃げる民衆が戦車の前に現れた場合の対処を訪ねた。

「引っ殺して行け!」

「……………………」

このエピソードは司馬遼太郎を語るうえで欠かせないだろう。

日本はいつから可笑しくなった?

そんな民族だったのか?

日本とは…!?

司馬遼太郎の生涯のテーマであり、後に〘司馬史観〙と呼ばれる歴史観が誕生する。


2


私が初めて読んだ〘司馬遼太郎作品〙は【項羽と劉邦】全3巻。

ヒョンな事から手に入った。

秦帝国崩壊後の楚漢戦争を描いた大作だ。

だが、この作品は数ある司馬作品の中でも異色である。

司馬遼太郎の作品は、大抵、何らかの形で日本と関わりがある。

ところが【項羽と劉邦】の時代は、日本は国として存在しない神話の時代である。

この時代に、大陸の戦乱から逃れて日本に来た人達が、その後の日本を形作ったとする説があるが……作中、その事に触れた文章は無かったと思う。

日本との関わりを探す中で、それらしき部分と云えば……。

司馬遼太郎は秦漢帝国以降、中華文明は発展よりも衰退の方が多いとみていた。

それ以前の春秋戦国時代が、最も思想・文化の秀でた時代であり。

日本の江戸期に相当すると書いていた。

主に、その時代に生み出されたモノが、日本に影響を与えていたと、みていたようだ。

作中、楚漢戦争から70年後。

司馬遷が古戦場を訪ね歩き、経緯に触れる。

もしかしたら……※司馬遼太郎は司馬遷の視点で物語を描きたかったのかもしれない(※司馬遼太郎はペンネームで意味は〘司馬遷に及ぶべきもない〙本名は福田定一)


3


次に読んだのが〘城塞〙全3巻だったと思う。

戦国時代のグランドフィナーレ【大阪冬の陣・夏の陣】を描いた。

主人公は真田信繁(幸村)。

率直に言ってカッコイイ。

作中、真田は徳川に負けたことが無いと、しきりに述べていた。

徳川が大敗を喫した【三方ヶ原】にも、真田はいた。

敵対する信玄率いる武田軍にいた。

信繁の父、昌幸は敗走する徳川軍を見ていた。

信繁は云う。

信玄が身体を壊さなければ、そのまま徳川も織田も命は無かった。

大軍には事故は付き物。

戦が長引けば、事故は起こる。

形勢は逆転する。

そんな、真田の期待を裏切る展開が何とも悲しい。

真田の忠告を無視して講和がなされ、堀を埋められ、大坂城は裸城にされてしまった。

『明日、信繁も死ぬな』

決戦前が片桐且元が漏らした台詞。

片桐は作中、徳川と豊臣を行き来した人物である。

連絡役として駆け回り、状況を語っていた。

明らかに司馬遼太郎の視点だ。

そして、片桐且元は感動する。

豊臣方の西軍は、負けると分かっているのに、逃げずに強大な敵に立ち向かおうとしている。

裏切りの横行する戦国時代に、忠義の花は数えるほどしか咲いていない。

今まさに大輪の花を咲かせているのだ。


対する徳川は、とにかく卑劣下劣のオンパレード。

天下のために泥を被ったと云えば、聞こえは良いかもしれないが……。

とても、褒められたものではない。

その行いを書いて行くと、いくら紙幅を割いても足りないくらいだ。

先に述べた大坂城を裸城にした際は、講和条件の1番外側の惣堀のみを埋め立てるところを、総ての堀…総堀と解釈して埋めてしまった。

司馬遼太郎は歴史上、こんなペテンで攻略された城は他には無いと呆れている。

また、【大阪冬の陣・夏の陣】のキッカケとなった。

※方広寺の鐘の話に関して。

『溺れた犬に石をぶつけるが如き振る舞いだ!』

と、痛烈に批判する台詞を、誰かに吐かせていた。

確か方広寺の住職だったっけ?

よく覚えていない。

とにかく家康の面従腹背の極致が描かれている。

嫌われ者の天下人、司馬遼太郎の描く家康の徹底したタヌキ親父っぷりは、芸術の域にあると言えるだろう。


※豊臣家が寄進した方広寺。その鐘に刻まれた【君臣豊楽・国家安康】の文字が、家康を呪い殺す気があると疑われた。徳川は講和とし大坂を明け渡すように要求、豊臣がそれを拒否。【大阪冬の陣・夏の陣】の始まりとなった。

結局【司馬史観】とはなんぞや?

う〜〜ん自分でもよくわかっていなかった。

思ったこと…感動した部分を述べれば、考えが纏まると思ったが……もっと掘り下げて書いてみるか。


※1500字以内に収めたつもりが、1700字を超えていた。

まあ、いっか。

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― 新着の感想 ―
[一言] 私も、司馬遼太郎作品で初めて読んだのは「項羽と劉邦」でした! いいですよね。
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