雪の女王の城
私には七つ歳の離れた兄がいる。兄は昔から工作が好きで、中学に上がる頃から父の真似をして始めたプラモデル作りが趣味だった。手先が器用で、夏休みの工作や授業の課題でよく賞をもらった。兄にプラモデル作りを教えた父は不器用だったが気が長く、こだわりの強い人だ。兄の手先は母似で、母は今でもレース網みや刺繍をしてはフリマアプリに出品している。そんな家族を見て育った私にとって、ものを作るのはとても自然なことだった。私と兄は、要らなくなったサランラップの芯でヌンチャクを作ったり、段ボール箱で秘密基地を作って遊んだ。
私が五歳で兄が十二歳の時、私たちはゴミ箱の蓋でそれは美しい黄金の盾を作った。私と兄は折り紙が好きで、早い時では一日で二袋使い果たしてしまうくらいだったが、母は文句も言わず頻繁に折り紙の補充をしてくれた。金や銀の光沢のあるホイル折り紙は使わずに貯めておくのが習慣だった。ゴミ箱の蓋を好きに使って良いと母からもらった私たちは、協議の末、大切に貯めた特別な折り紙を使うことにした。
私たちは両面テープを使って、青い蓋に金色の折り紙を貼り付けていった。無駄遣いしないように、年長の兄が指示を出した。私の提案で、盾の真ん中には赤いホイル折り紙をルビーに見立てて貼り付けることにした。ゴミ箱の蓋なので、盾としては取手の位置がおかしかったが、そんなこと私たちには関係なかった。私たちの盾は力強く、美しかった。
私たちは、自分たちでそれを押入れの奥に隠した。盾を特別なものにするために、私たちには試練が必要だったのだ。私たちはどんなものにも負けない盾を手に入れるために冒険を始めた。空想の敵はどこからでもやってくる。私たちは家中の電気を消して、暗がりから虎視眈々とこちらを狙う恐ろしい瞳たちを想像した。私が扉の開いた浴室や、机の下の薄暗くなったところを指さして叫ぶと、兄がヌンチャクを振り回す。私はハンガーを武器にしていた。ヌンチャクは一つしかなかったのだ。
私たちはついに押入れに辿り着き、金色の盾を見つけた。兄が盾を取り上げて、掲げてみせた。西陽の降り注ぐ寝室の中で、盾は夕暮れの黄金色に輝き、ルビーが燃える太陽のようだった。
夜半にトイレに行きたくなると、私は兄を起こした。兄は黄金の盾を構え、私の前に立ってトイレまで付き添ってくれた。闇の中から襲いかかるしかできない卑怯な幽霊たちが、私たちの盾に敵うはずがなかった。
小学校に上がって初めての夏休み、私は宿題で貯金箱を作らなければならなかった。私はそのころ『雪の女王』の絵本が大好きで、雪の女王の城を作ることにした。母にそれを伝えると、家の形をした貯金箱の土台と、紙粘土をたくさん買ってきてくれた。私はその城を威厳のあるものにしたかった。それらしく見せるため、屋根の四隅に塔をつくり、その天辺にビー玉を置くことにした。兄の提案で、ヘラを使って屋根にジグザグの模様を入れ、窓をできるだけたくさん作る。私は城をすべて薄い水色で着色し、最後に屋根から氷柱をぶら下げた。尖った牙のような氷柱が、恐ろしさを際立たせてくれると思ったからだ。私は城の出来栄えに満足し、壊れないように家族を呼び寄せて披露した。
しかし、夏休み最後の夜、突然あるアイデアがひらめき、頭から離れなくなってしまった。母からもらった透明のビーズを、城の屋根に散りばめたくなったのだ。それは素晴らしいアイデアだった。ニスを塗っているとはいえ、着色をした粘土では氷の透明感が再現できない。虹色に光ビーズを散りばめれば、もっと氷らしさが出るはずだ。思いついてしまうと、もう今の城では満足できない。どうしても手を加えないと気に入らなくなってしまった。
私がリビングで貯金箱を前にして途方に暮れていると、風呂から出てきた兄がそばにやってきて言った。
「どうしたの」
兄はバスタオルを肩にかけて、しゃがみこんで微笑んだ。兄からはトリートメントのさっぱりとした柑橘系の香りがする。
私はビーズを屋根に散りばめたいこと、それがどれだけこの城を神々しくするかということを兄に懸命に説明した。兄は最後まで話を黙って聞いて、それなら、と言った。
「それなら、兄ちゃんの接着剤貸してやるよ」
兄は部屋から接着剤の瓶を持ってきて、蓋を開けた。彼はビーズを一つ取り上げ、器用にマニキュアのような形をしたハケで接着剤を塗りつけると、「どこにつける?」と私にたずね、私が指をさしたところにくっつけた。
「しばらく触っちゃ駄目だよ。残りは自分でできる?」
私が頷いたので、兄は接着剤を置いて洗面所へ戻って行った。
兄が接着剤を使うところは何度も見たことがあった。私はビーズを一つ手に取って、ハケで接着剤を塗りつけた。接着剤をたっぷりと含んだハケから、透明でとろみのある液体が滴り落ちる。それは私の指をつたって、テーブルの上に落ちた。
私はビーズを適当に貼り付けて、慌ててティッシュでそれを拭き取ろうとした。しかしティッシュが机に張り付いてしまい拭えない。そうこうしているうちに、誤って接着剤のついた親指に人差し指が触れてしまい、離れなくなってしまった。はがそうとすると、指の皮まではがれてしまいそうだ。もしかしたら、このまま一生離れないのではないか、はがすのには手術が必要で、それはとてもとても痛いのではないか、そんな恐ろしい想像が私の頭を駆け巡り、私はあらんかぎりの大声で泣き出した。
自室で洗濯物をたたんでいた母が、私の泣き声に血相を変えて飛んでくる。片手にタオルを握りしめている。私は母に縋りついた。泣きながら喚くように訴えかける私のことばは母には理解できないようだったが、くっついてしまった指を差し出すと、私の手首をしっかり掴んでじっと見つめ、それから机の上にある接着剤に目をやって、顔を顰めた。
「あなた、お兄ちゃんの接着剤勝手に使ったの」
母の怒りを察知した私は、体の中心のあたりがきゅっとなり、自然と首がすくむのを感じた。母が手首を掴んでいるので、後ずさったり逃げたりすることはできない。私は咄嗟に言い返した。
「お兄ちゃんが貸してくれたんだもん!」
母はため息をついて、私をお風呂場まで引っ張って行った。
「もう一回お湯に浸かって、お湯の中でゆっくり外すのよ」
私は頷いた。母はまだ怒っていたが、怒りは私ではなく兄に向いているようだった。母は私を置いてお風呂場を出て行った。兄を叱りに行ったのだ。
私はパジャマを脱ぎ捨てて、まだ湿気の籠った浴室に入った。湯船に浸かって指を擦り合わせているあいだ恐ろしかったのは、もはや指のことではなくて、兄が叱られてしまうことだった。私のせいで兄は大目玉を喰らっているころだろう。親切で私に接着剤を貸してくれたのに、私のせいで怒られることになるなんて。私は密告者だ。罪悪感で喉がひきつり、私は今度は静かに泣き始めた。
指はなかなか離れなかった。湯船に浸かりっぱなしの指は、ふやけてしわしわになってしまった。涙はなかなか止まらない。水嵩が増えてしまうんじゃないかと思うくらいとめどなく流れ続けている。
やっとあらかた接着剤が溶けてきたところで、浴室の扉が開いた。
「沙優ちゃん、大丈夫?」
兄だった。
「お母さんが見てこいって。取れそう?」
兄はパジャマのズボンをたくしあげて浴室に入ってきた。私は接着剤のついていない方の手で頬の涙を拭った。
「取れてるじゃん。早く上がりなよ」
兄は少しも怒っていなかった。
「うん」
「どうしたの。お母さんもう怒ってないよ」
「うん」
私は兄への謝罪の言葉をいくつも考えていたのに、優しい兄を前にすると何も言えなくなってしまった。私は拗ねたように黙り込んだまま湯船から上がり、兄が持ってきてくれたバスタオルで体を拭いてパジャマを着た。
リビングにもどると、母はダイニングチェアに座ってテレビを観ていた。ふたりが入ってきたのに気付くと、ちょっと呆れたような、おどけたような笑顔を向けてくる。眉を少し顰めた笑みで、仕方ない子達ね、と言っているようだ。
「お兄ちゃんから聞いたけど、貯金箱にビーズをつけたかったの?」
母の問いに私は頷く。
「どうして今さらになって? 明日持って行くんでしょ?」
「ひらめいたんだよ、ね?」
「うん」
「どうしてもつけたいの?」
「うん」
「しょうがないわね」
母は、私は決して接着剤に触れてはいけないと言い渡し、貯金箱にビーズを貼り付けるのを兄と共に手伝ってくれた。私が指示を出して、ビーズを手渡し、兄と母が貼り付ける。接着剤が垂れてもいいように、机には新聞紙が敷かれた。完成した氷の城は、私の予想を遥かに超えた素晴らしい出来だった。私たちはその城をリビングのテーブルに載せたまま眠りについた。
翌朝、私は一番に目が覚め、誰もいないリビングに入った。カーテンを開くと、朝陽が窓から入り込み、私の城を照らし出した。透明のビーズが朝露のようにキラキラと輝いていた。
結局、私の貯金箱は賞を取らなかった。名前は忘れたが、クラスの女の子が作った、飼い犬の形をした貯金箱が賞を取った。たしかに、それはとてもよくできていた。でも、飼い犬を貯金箱にするというのは、趣味が悪いと私は思う。