金色の魚
父の葬式を終えて、私はぼんやりとした明かりを発するスマートフォンを手にしたまま、新鮮な空気を吸うために外へ出た。
よく田舎の夜空は綺麗だという。星々は人の生き死にと関係なく煌々と輝いていて、たしかに大地の明かりの少ない田舎の夜空は綺麗だと思う。ただ、田舎の闇夜はどこまでも湿っている。都会の闇夜がどこまでも明るくて、そしてからりとしているのとは正反対だ。それは純粋に自然の多い田舎とコンクリートで囲まれた都会との環境の違いでもあるのだが、その空間に人がいるかいないかというのもまた大きな要因であると思うし、またその一人一人の性質にも因るものだとも考えられる。田舎の人は情念があって、それが却って湿っぽいものになってしまう。それに比べてみると都会の人は情念がないというよりも、他人に構っていられないくらい人が多いものだから、自然と冷たく映ってしまう。しかし、そのためにあっさりとしてもいる。
田舎と都会の比較をしてみたところで、私は自分がそのどちらに属するかということを考えた。言うまでもなく、私は都会の人間なのだった。そして、父は田舎の人間だった。
そこまで考えたところで息を吐く。湿っぽいのは田舎の闇夜ばかりではないなと気付いたのだ。
闇夜が云々という話にしても、今度の葬式がなければ何も感じなかったはずのことだ。黒、黒、黒。どこまでいっても黒いものから逃れられないその儀式の只中にいれば、自然と黒という色がもつイメージというものを考えさせられてしまう。同じ黒でも鉛筆の生み出す黒ときっちりとした喪服の黒とではまるで感じ方が違う。そんな当たり前のことを、私は読経を聞きながら延々と考えていた。私は、父があまり好きではなかった。読経の中で、突き詰めていけば人は他者を許容できないと考えたりもしたが、それは私自身が父に対して感じていたものそのままだった。
私から見る父とは、孤独な存在だった。平日は黙々と勤め先に出かけ、家に帰ってきてからも一人で静かに食事をし、休日になれば寝転がってテレビを見るなどして家にいた。母や姉にしてみれば特に失点を与えるような人生の過ごし方はしていなかっただろう。しかし、同性である私にしてみれば、大いに反発しなければならない反面教師であった。もし大人になって父と同じような生活をしていたなら、それは順当な人生の線路から外れてしまったことを意味するのだ、そんなことを考えていた時期もあった。
そうした反発感は最後まで変わらなかった。父が病に倒れて亡くなるまでの間も、また故人となった父と二人きりになったときも、私は父を許すことができなかった。
そう、許せなかったのだ。
私は父から愛情を受けたと感じたことがなかった。もちろん私も一端の大人として、そこまで育て上げてくれた父を立派だと思わないわけではない。だが、あることが引っかかったまま、私は父を許せずにいるのだ。
その発端は――、あの言葉だった。
「あっけないもんだな」
あのとき呟いた言葉を、私は今でも覚えている。それだけではない、あのときに見ていたもの、聞いていたもの、感じていたものの全てだ。
別の言い方をすれば忘れられずにいるあのときの情景を、私はどんよりとした闇夜の中で手繰り寄せていった。
小学生だった私は、当然のことながら今よりもずっと無力な存在でしかなかった。お祭りの屋台で掬ってきた――正確には長時間の格闘の末にお情けで貰ってきた――金魚を、私は一生懸命になって育てていた。初めてのことだから経験もなく、何をすれば金魚が長生きするかという知識もなく、頻繁に金魚鉢の水を変えたり餌をやったり、それからじっと眺めていたりした。私がそこまで一生懸命になったのには理由があるのだが、今は関係のないことでもある。とにかく、私は夏休みの間中、懸命に金魚の世話をしていた。
貰ってきた三匹の金魚のうち、最初に一番大きいのが死んだ。そのときは仕方ないと思った。まだ二匹残っているのだからと。
しかし、それから三日もしないうちに金魚は全滅してしまった。私の初めての冒険は、あっさりと終わってしまったのだ。
「お父さん、金魚、死んじゃった」
私が家族のうちで初めて伝えたのは、父だった。母も姉も、私には金魚は育てられないと見くびっていたから、どうしても二人には言いたくなかったのだ。
昼寝をしていた父を起こして、私は庭に小さなお墓を作ってもらった。金魚の件に関していえば、最初から最後まで人の力を借りっぱなしだった。
父がその言葉を口にしたのは、そのときだった。
「祭りの屋台でとってきた金魚はすぐにくたばってしまう。あっけないもんだな」
普段は無駄口を叩かない父が、何気なく呟いた一言だった。私は、横から父の瞳の黒を見つめた。どんよりとしていて、何が含まれているか分からない色をしていた。
私はそこにどんな感情があるのか、ずっと後になるまで考えもしなかった。ただ、小さな生命への侮辱のようなものを見た。半ば以上は私の受け止め方の誤りではあったが、しかし、侮辱の色が全くなかったかと問われると、どうにも言えないというのが正直なところだ。結局、その言葉が全てを裏切ってしまったのだった。
田舎から帰ってきた私は、水槽の中から適当に金魚を掬って、陶器の大鉢に移し替えた。地元の名産の焼き物で、訳あり品を安く購入することができたのだった。
カーテンを開けて太陽の光を誘い込む。ちょうど卓の上に冬の光が差し込んで、黒くごつごつとした陶器の中に泳ぐ二匹の蘭鋳が照らし出された。黒い大鉢を選んだのは、葬式帰りだったせいもあるのかもしれないが、そこに白と赤の蘭鋳を泳がせてみたならどうなるだろうと思いついたためでもあった。そこへ思い立ってドビュッシーの音楽を流してみる。「金色の魚」と題されたその作品は、たしか金魚のことではなく錦鯉のことを指していると記憶していて、でっぷりとした蘭鋳の泳ぐ様からはちょっとかけ離れているようにも聞こえてきた。それが却って面白くもあって、終いにはフニクリ・フニクラ、と全く別の曲を呟いてみたりしている。どちらかといえばこちらの方が、やはりでっぷりとした蘭鋳には似合っているかもしれない。
光の底にいる二匹の蘭鋳は、見た目に反して力強く泳ぐ。その身を捩るごとに前へ進むとき、光の粉を散らしているようでもある。二匹は口をパクパクさせながら大鉢の中を泳いでいるが、それでも水面から口を突き出したりはしない。あちらへ行ったかと思えばこちらへ行き、何か見えざる目標を目指しているようにも見える。大鉢の黒が光によって多少淡く感じさせられ、その中を泳ぐ二匹の白と赤とはその反対に強調されている。光を誘い込んだのは正解だと思った。
「あっけない、か」
愛しの金魚たちを愛でながら、いつしかあの言葉を思い返していた。あのとき、父は何を考えていたのだろう。無力な金魚たちの死を、どう受け止めたのだろう。
虚しさだな、とようやく私は結論づけた。金魚ばかりでなく、人間でさえもあっけなく亡くなってしまう。数十年後に自分を襲ってくる死のことを想像していたとは言えないが、その営みの虚しさへの想いが、ふとした瞬間に不器用な形で出てきてしまったのだろう。私は、そう思うことにした。
私はカーテンを閉めると、大鉢に移し替えた二匹の蘭鋳をそっと元の水槽に戻してやった。水槽にいた蘭鋳たちは、仲間の帰還を祝うでもなく、ただ当たり前のように身を捩らせながら水中を泳いでいる。
この作品はモノ カキコさんから頂いたお題を基に書き上げました。
この場を使ってお礼を申し上げます。ありがとうございました。