雪山の夜
すん、とした夜の静けさの中に、春の匂いが混ざってきていた。
あと数時間もすれば、また陽が昇る。
それはまたひとつ春が近づくということだ。
輝きを放ちながら空に還ってゆく雪たちは、それはそれは美しいのだけど、やはり今の僕には切なく映る。
彼女と出会ったのも、残雪の夜だった。
真冬の雪深さは越えたとはいえ、なぜあんな季節に山に入ったのか、彼女はちょうどこの樹の辺りに倒れていた。
冷たい僕のこの身では、触れることも暖めてやることもできない。少し思案した後、ないよりはましかと思い風よけを作ってやった。
目を覚ました彼女は、自身を囲うように積みあがった雪を見てどう思ったのだろう。不思議そうに辺りを見回す彼女の視線が、ある一点で止まった。
––––あれは、僕の願望がそう見せただけだったのだろうか。
確かに彼女の目は、焦点を僕に合わせているように思えた。
僕の姿が見えているはずはないのに。
そう思うのに、視線を外すことができなかった。
彼女はちょっと首を傾げると、突然その右手をあげた。
それはまるで何かを探すように、僕の方へ伸ばされていた。
だってこんなこと初めてだったんだ。
言い訳するわけじゃないけれど、言い訳って誰に?
とにかく、僕は思わずその場を逃げ出してしまったのだ。
しばらくして戻ってみると、彼女の姿はすでになく、代わりに小さな雪だるまがひとつ、残されていた。
もはやそれだけが、彼女がそこにいた証明だった。
今年はよく粘った方だと思う。
頑固な根雪も徐々に薄くなり、その範囲を狭めている。
あとどれくらい保つか定かではないが、恐らくそう遠くないうちに僕は消えてしまう。
彼女が倒れていた樹の根元に、小さな雪だるまをこしらえる。かたくなった雪は扱いにくく、いびつなかたちになってしまう。
まあ、いいか。
また次の冬に待とう。
じっとしているのは得意なのだから。
今は、そうだな、この夜の香りを覚えておくことにしよう。