04 8月7日
「始発まで、電車は来ないですよ、先輩」
「そう言われても、泊まるわけにはいかないよ。あと4時間程度、なんとかなるさ。この借りはまたあとで返すよ」
ボクはドアノブに手をかけた。
「待ってください」
タマキはボクの右腕をつかんで、引っ張った。バランスを崩したボクは、タマキに抱きしめられる形になった。
タマキはボクの唇に不器用に口づけた。
「タマキおまえ、何を」
「部屋の主が、かまわないって言ってるんですから、遠慮しないでください」
「よせ、タマキ」
タマキはさらに深く口付けてきた。ぎこちなく、舌を絡めようとする。
「ちょっと、やめろって。落ち着け。ボクだって、男なんだぞ」
「私だって、女ですよ」
「知ってるよ、だから」
「・・・私のこと、嫌いですか?」
ボクの両手をつかんで、タマキは言った。
「嫌いなら、ここまでくるはずないだろ」
「酔った隙に、私がお持ち帰りしちゃったから」
「仮にそうだったとしても、イヤなら逃げ出してたさ」
「だったら」
タマキは言った。
「もう一度上がってください」
タマキに両手をゆっくり引かれて、ボクはまた上がった。
ジョニー・ハートマンが“マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ(My One And Only Love)”を歌っていた。
絵に描いたようなラヴ・ソングで、キミの好きな曲だった。
“ぼくが愛するたったひとりの人”。
ボクは難しい顔をしていたと思う。
「先輩、なんでそんな顔になってるんですか?」
「タマキに襲われたからだ。ボクの純潔を奪おうなんて・・・」
「先輩が襲ってくれないからです」
「冗談がうまくなったな」
「本気で、冗談だと思いますか?」
ボクはドキッとした。
「彼女さんは、しばらく日本にいないんですよね。どんなに早くても、帰国は9月ですよね」
しまったとボクは思った。
「その間だけでかまいません。私の気持ち、受け取ってください」
ボクは再度ドキッとしていた。
「先輩」
「はい」
「これから、とても大事な話をします。聞いていただけますか?」
「・・・はい、分かりました」
まさか、だめ押しの告白なのか、とボクは思った。
「私、実は誰にも言えない秘密があるんです」
「急に、どうしたんだ」
「先輩になら、打ち明けてもいいかな、と思いまして」
「誰にも言えないんじゃ・・・」
「私、魔法使いなんです」
「え?」
タマキは予想不可能な言葉を使った。
「魔法?」
「はい」
「タマキ、大丈夫か?」
「はい?」
「悪いもんでも食ったんじゃないか?」
「先輩」
「はいっ」
「私、先輩に魔法をかけちゃいますよ」
「え?」
「かけちゃったら、先輩は私の命令に逆らえなくなっちゃいます」
「おまえ、本当に・・・」
「いいですか?」
タマキはボクに拒否する機会をくれたらしかった。
でも、ボクが答える前に、タマキは右の人差し指でボクの鼻の頭をちょこんと押した。
催眠術のようでもあった。
「これで先輩は、私の魔法にかかっちゃいました」
「ホントに?」
「はい。私の命令にはもう逆らえません」
「そうなのか?」
「もちろんです」
タマキは居住まいを正して、続けた。
「でも、私はよい魔法使いです。このままだと先輩がかわいそうなので、9月になったら、魔法は自然に解けることにしてあげます。9月1日の0時ちょうどになったら、魔法は解けます。ですから、8月31日の24時までは絶対に解けません」
「タマキ・・・」
8月31日はボクの誕生日だった。
「9月1日の0時ちょうどになった途端に、先輩は魔法にかかったことを忘れてしまいます。ですから、何も心配はいりません。私は悪い魔法使いではなく、よい魔法使いです。ですから」
「え?」
「何が起こっても、それは全部魔法のせいなんです。先輩に責任はないんです」
「それって・・・」
「たった今から8月31日の24時まで、先輩は私の恋人です。先輩の恋人は、私なんです。先輩は魔法にかかっているので、私に逆らえません」
タマキはスウェットを脱ぎ始めた。
「ちょっと、待てってば」
あっという間にタマキは全裸になってしまった。
スウェットの下はショーツをはいているだけだったから、あっと思ったときにはすべてが見えていた。
タマキは着やせするタイプなのだと分かった。
「出るとこ出てない」なんて、とんでもない。
今まではわざと身体の線を出さないようにしていたのかもしれない。
タマキはボクに抱きついてきた。
「おい、いくらなんでも・・・」
「先輩は私に逆らえないんです。それに、誰にでもこんなことするわけじゃありません」
タマキはボクの右手を、自分の左胸にそっと当てた。
柔らかな感触の奥から、タマキの強い鼓動が、早い鼓動が、伝わってきた。
「もうずっと、先輩が好きなんです。現在進行形です」
身体を預けてきた。ベッドに倒れこんだ。
「抱いてください」
タマキが上になって、また不器用に唇を合わせてきた。
「デートの最後には、恋人どうしは愛しあうものなんですから」
* * * *
タマキはボクの右肩に顔を埋めていた。
「夢がひとつ叶っちゃいました」
顔を上げて、ボクを見た。
「先輩に、って、ずっと思ってました。すごく嬉しい気持ちで、いっぱいです」
にっこりしながら、少し涙ぐんでいた。
CDはリピート再生になっていた。“ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル”が再び流れ始めた。
“恋をするのはとてもすばらしい”。
ハートマンの歌に続いて、コルトレーンのテナーが聞こえた。
「先輩、とても優しいんですね。初めてなのに、すごくあふれちゃいました」
ボクは自分も、タマキも、止めることができなかった。
また難しい顔になっていたと思う。
「先輩、なんでそんな顔になってるんですか?」
「・・・」
「私、よくなかったですか・・・」
「そうじゃないよ。でも、なんでタマキが」
「先輩を好きになってはいけないなんて法律はありませんよ」
「次の国会で審議入りだ」
タマキはくすくす笑った。
「そんな先輩も大好きです」
かわいい笑い方だと思った。
「私、後悔なんて絶対しません。今の自分に、すごく納得してます」
「タマキ、それって・・・」
「彼女さんの教えを、身につけたんです」
ボクがいつかキミに投げつけた言葉が、ひと回りして帰ってきた。
「けど、タマキなら、もっといい男がいくらでも・・・」
ボクと違って明るい性格だし、ゼミでも人気者だと思うし、友達だってたくさんいるはずだ。
「そのセリフは、言いたかったならもっと早くじゃないと、もう無意味です」
「確かに。ごめんなさい」
「謝るのはおかしいです、先輩。でも、そう思えたなら」
タマキは言った。
「私が先輩よりも、自分を隠すのが上手だから、です」
「隠す?」
「はい。上手に隠しすぎて、先輩に気づいてもらえなかったのは失敗でした」
「タマキ・・・」
「ドアの鍵を」
タマキは少し押さえた声で言った。
「開けてほしかったのに・・・」
ボクにはなんのことか分からなかった。
でも、そのことをタマキに訊く前に、タマキが言葉をつないだ。
「先輩」
上目遣いでボクを見た。
「もう一度、いいですか? 今度は、もっとゆっくり」
私と先輩は恋人なんですから、と、タマキは言った。
頬を少しだけ赤らめていた。
「魔法は解けていないですよ」




