03 8月6日 (その2)
「あれ、起きちゃいましたか、先輩」
ボクはベッドの上に横たわっていた。ここまで来た記憶がなかった。
「先輩、眠りながら歩いてましたから。器用ですね。私の部屋が1階でよかったです」
「もしかして、肩、貸してくれた?」
「そんなこと、気にしないでください」
「ありがとう。ん? あ、ごめん。ベッドまで使わせてもらって」
ベッドはタマキの匂いがした。
ボクは慌ててベッドから降りた。まだ少しふらついていた。
「大丈夫ですか?」
「おかげで、さっきよりはだいぶよくなったよ」
「ひとまず、お水を飲んでください」
タマキは冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出し、コップに1杯くれた。
ボクは指示に従った。少し落ち着いてきた。
タマキは部屋着らしいスウェットに着替えていた。確か「ゆったりめのスウエットをよく着ています」と聞いた覚えがある。
シャンプーらしき匂いがした。
シャワーを浴びたのかもしれない。
今はコーヒーをドリップする準備をしているようだった。
「ちっ、堕落した女の部屋を見てやろうと思っていたのに」
「それは残念でしたね、先輩」
タマキの部屋は1DKで、とてもすっきりと片付いていた。
想像可能な数日後のボクの部屋とは真逆だった。
小さなクマのぬいぐるみがベッドの枕元にあった。
女の子らしい部屋だと思った。
「狭いですけど、おくつろぎください、先輩」
それが何かは分からなかったけど、部屋には薄くフローラル系の匂いがしていた。
さっきのシャンプーの匂いとは違う。
石けんの匂いかもしれないと思った。
そこに、コーヒーの香りが漂ってきた。
部屋にはテレビがなかった。
テレビがありそうな場所には、値が張りそうなCDコンポがあった。
「テレビ、好きじゃないんです。音楽は好きなんですけど」
その嗜好はボクと同じだった。
ボクもテレビを見ない代わりに、自分でコンポを組んでいた。
「先輩の部屋にも、相変わらずテレビはありませんでしたね」
「よくチェックしてるな。やっぱマニアだろ」
コンポのそばのラックに、100枚程度のCDがあった。
半分はジャズ、更に半分はクラシック、残りはポップスという感じだった。
「先輩のライブラリにはまったく及びませんけどね」
ボクはタマキの20倍以上のディスクを持ってるかもしれなかった。
タマキはエラ・フィッツジェラルドのヴォーカルと、ジョー・パスのギターがデュエットした“スピーク・ロウ(Speak Low)”をかけた。
「タマキ、いい趣味をしてるじゃないか。いつ聴いてもかっこいいなあ、これ」
“愛を語るなら、そっと囁いて”。
「“スピーク・ロウ”の演奏として最高ランクの1枚だ」
ボクは気分がよくなってきた。
「カフェ・オレでいいですか、先輩。ブラックだと胃にくると思ったので・・・あえてあったかくしましたけど」
「気を遣ってくれてありがとう。なんか、申し訳ない。というか、おかまいなく」
「そのセリフは遅いですよ、先輩」
タマキはふたつのカップをテーブルに置いた。
おつまみです、と言って、ウォーカーズのショートブレッドまで出てきた。
「ウォーカーズとは気が効くじゃないか。さらに見直したよ。タマキも好きなの?」
「はい。・・・先輩、少しでもおなかに入れた方がいいですよ」
「ありがとう。カフェ・オレもおいしいよ」
「どうしたんですか、先輩。そんなに誉めてもらうと気味が悪いです」
ボクはベッドを背もたれにできるように座布団に座り、タマキはボクの左側で、コンポが操作しやすい位置にいた。
曲は“カムズ・ラヴ(Comes Love)”になっていた。
「そうだ、CD替えてもいいですか」
「もちろん。タマキの部屋なんだから」
「はい」
タマキはジョニー・ハートマンとジョン・コルトレーンが共演したバラード・アルバムをかけた。
“ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル(They Say It's Wonderful)”が始まった。夜向きの1枚だった。
「タマキ、本当にいい趣味してるな」
「ありがとうございます。でも、先輩は覚えていないんですか?」
「ん? 何を?」
「このCDは、先輩のお薦めで教えていただいたものですよ」
「あれ、そうだっけ。何枚か貸したのは覚えているけど」
「さっきのもそうですよ」
「・・・なんか思い出してきた。リストを書いた気がする」
「そうです。20枚ほどリスト・アップしてくださったメモをいただきました。そのメモから、そのときお店に在庫していたものを買ったんです。他にもあとからこつこつと、何枚も買ったんですよ。キャノンボール・アダレイの『サムシン・エルス』とか」
「そうだったとは」
「先輩、実は自画自賛でしたね」
「そんなつもりはないよ。でも、いいディスクだったろ?」
「はい、ありがとうございました」
タマキはにっこりした。
「先輩も、よかったらシャワー使ってください」
着替えもないし、遠慮した。
「私のでよろしければお貸ししますよ。私、部屋着は男物の、ゆるめのものを着るのが好きだから、先輩でも大丈夫だと思います」
「いや、そこまでしてもらうのは気が引けるよ」
「もしかして、私の下着の方がいいですか?」
「・・・おい」
そろそろここを出ないと、終電が危うくなってきた。
「ごちそうさま。おかげで楽しい時間を過ごせたよ。どうもありがとう」
「あれ? 先輩、駅までの道、分かりますか?」
記憶がないので分からなかった。
「私、もう部屋着なので、送っていきませんよ」
「いいよいいよ、時間も遅いし、気にするなよ」
「先輩、まだ少しふらふらしてますよ」
「そうかな。でも、おかげでかなりよくなったし、なんとかなるさ。道が分からなかったら、ファミレスでも、漫画喫茶でも、見つけて入るよ」
ボクは玄関へ向かった。タマキが心配そうに続いてきた。
「見送ってくれなくてもいいから、ボクが出たら、すぐに鍵を閉めろよ」
「ファミレスとか、漫画喫茶とか・・・そんなとこに行くくらいなら、泊まっていってください」
ボクは自分の耳を疑った。タマキは更に押してきた。
「研究室にある名簿の件、あの約束を今、守っていただきます。泊まっていってください」
「約束のことは覚えてるよ。だが、しかし・・・」
「泊まっていって、くれないんですか。私の部屋じゃ、イヤですか?」
「そんなことないけど、妙齢の女性の部屋に、恋人でもない男が泊まるのはまずいだろ。ヘンな噂が立つぞ」
前にも似たようなことを言った気がした。
「妙齢だなんて、古くさいですよ。先輩、まだ危ないですし、私はちっともかまいません」
「ボクがかまうんだ」
「私のこと、ちゃんと女の子として見てくれているんですね。今まで、そんなふうに扱ってくれたことなんて、ないくせに」
「そんなことないよ。タマキはどう見ても女の子じゃないか」
「・・・一見、男の人に見えたんですよね」
「根にもってんなあ、タマキ」
* * * *
約1年前、初めて学校でタマキを見かけたとき、タマキは男物の白いシャツに黒いジーンズをはいていた。遠目からは、長髪の男子に見えた。
挨拶をされたとき、ボクは深く考えもせず、後輩に向かってひと言目に「男かと思ったよ」と言ってしまったのだった。
その後で、「苗字なのか、名前なのか、両方なのか、よく分からんヤツだ」と言ったのだった。
* * * *
「だって、タマキはスマートだし、それに」
「それに?」
「・・・なんでもないです」
「分かってます。体型の起伏が・・・出るとこ出てないって、言いたいんでしょう」
「う・・・」
図星だった。
前につい口を滑らせて、キミに言ってしまったことが、しっかりタマキに伝わっていた。
「ホント、失礼な先輩ですね。見たこと、ないくせに」
「いや、見たことあったらまずいだろ」
そうこうしているうちに、終電は行ってしまった。




