03 8月6日 (その1)
・・・翌日、電話が鳴ったので目を開けた。
昨日のボクは、タマキにお休みを言ったあとすぐに横になった。
羊を数えるまでもなく泥のようになっていたと思う。
そのあとは、夜中に一度トイレに行ったような気がするけれど、エアコンのおかげでまあまあ眠れたと思う。
日付が変わったあとはうとうとと夢ばかり見てたような気がするので、熟睡とまではいかなかったようだけど、とにかくひたすらベッドにいた。
ベッドから出たくなかった。
でも仕方ない。
きっとタマキだろう。
留守番電話が応答を始めていたけれど、ボクは受話器を取った。
「はい、もしもし」
「おはようございます、先輩。出てくださるなんて初めてです」
当たりだった。
「そうだっけ?」
「少し驚いてます。先輩も電話に出ることができるんですね」
「・・・切ってもいいですか」
「まだですよ、先輩。用件を言ってません」
「なんでしょうか」
「ディナーのこと、忘れてないですよね?」
「んー、今日の17時だっけ」
「そうです。もう15時を過ぎてますけど」
「あ、そうなんだ・・・」
「寝起きのようですね」
「そのとおりだよ。まだ眠れると思うけど」
「ダメですよ、先輩。いつまで惰眠をむさぼるんですか。起きてください。お出かけの準備をしないと、約束の時間に間に合いませんよ」
「タマキはもしかしてボクのおかんなのか・・・」
「気を効かせてアフタヌーン・コールをしたんですから、あまり待たせないでくださいね」
「アフタヌーン・コールって・・・分かったよ。気が効く後輩で嬉しいよ」
「まずはお水でも飲んで、シャワーを浴びてすっきりしてください」
「タマキ、実はどっかからのぞいてるんじゃないだろナァ」
「ふふ、どうでしょう」
なるべく遅れないでくださいね、と言い残して、タマキは受話器を置いた。
ボクの遅刻は充分想定のうちらしい。
癪なので早めに行ってやろうかと思ったけれど、それはそれで術中にはまった気がするのでやめて、普通に行くことにした。
とりあえず、コーヒーを飲みたかった。
無精髭を剃る前に。
タマキの指示に従って、各停で4駅ほど西へ向かった。
電車の冷房は効きすぎていた。
タマキ指定の駅のホームに降りたときの外気との温度差でくらくらした。
それでも、約束の時間の3分前に改札を出られた。
すぐ目の前で、タマキが待っていた。
学校ではいつも男物を着るようなラフな姿しか見たことがなかった。
先日のドライヴではおしゃれな服装だったけど、それでもパンツ・ルックだった。
なのに、今は紺色のシックな袖無しワンピースに、白い小さなショルダー、白いパンプスを履いていた。
ワンピースは膝が出るくらいの丈だった。
一見してすらっとしており、とても新鮮に見えた。
「お待ちしていました、先輩。遅刻しないできてくださって、嬉しいです」
「見違えたよ、タマキ」
「先輩のために、ちょっとだけおしゃれしてみました」
「よく似合ってるよ」
「冗談だとしても、嬉しいです。ありがとうございます」
タマキは確かに嬉しそうだった。
「うん、女の子なんだってちゃんと分かるよ。『馬子にも衣装』って、ホントなんだな。諺って奥が深いよ」
「先輩、一瞬でぶちこわしですか。いい雰囲気で始まったのに。せっかくのデートなんですよ」
「デートなの、今日って?」
「違うんですか? 若い女の子と、若いかもしれないおっさんが、夕暮れ時に待ち合わせをしたっていうのに」
どこかで聞いたようなセリフだった。
「んー、素直に納得できないのは何故だろう・・・」
「デートです、先輩」
タマキの主張に押し切られた。
「ちゃんと剃ってきてくれたんですね」
「ん?」
「カッコいいですよ、先輩」
タマキはごく自然に、やさしくボクの右手を握った。
「ここから5分ぐらいです、先輩」
ボクはタマキに引っぱられて、ついていった。手を握られていることに戸惑いを感じながら。
「着きました、先輩」
品のいい居酒屋だった。いや、「居酒屋」ではくだけすぎかもしれない。
店内は燻したような黒を基調とした木目張りで、奥には小さいながらもステージがあり、週末にはジャズ系のライヴをやるらしい。
空調はほどよい温度で、天井ではファンがゆっくり回っていた。
今はジャズのレコードがうるさくないヴォリュームで流れていた。
CDではないと分かったのは、スクラッチ・ノイズがあったことと、カウンターのそばに置かれた譜面台の上に、LPジャケットが載せられていたからだ。
レッド・ガーランドの『グルーヴィー』が始まったばかりだった。
ボクもよく聴いたレコードだ。“シージャム・ブルース(C-Jam Blues)”が心地よく流れていた。
「やっぱり、感じのいいお店でよかった」
「あれ、タマキは何度も来ているんじゃないの?」
「お店の前はよく通っているんですけど、ほとんど日中のことで。入ったのは初めてです」
「なるほど」
「先輩はジャズがお好きですし、一緒に来るのもいいなと思ってました」
そういえば、タマキに頼まれて、ボクのお薦めのジャズCDを何枚か貸したことがあった。
ずいぶん昔のような気がした。
開放感があったのと、相手が気遣い不要のタマキだったからか、ボクはつい飲み過ぎてしまった。
ほとんど寝起きだったために、さらにあまり食べなかったために、さらには「黒薔薇」よりも口当たりのいいシーバス・リーガルだったために、ついダブルで2杯やってしまった。
うっかりして、チェイサーをあまり飲まないままだった。
タマキはボクと同じものを飲んだけれど、けろっとしていた。
チーズの盛り合わせをつまみにしていたのは覚えているのだけど、他に何を頼んだのか、自分で精算できたのか、もはや謎になっていた。
タマキとどんなおしゃべりをしたのかは、店を出るちょっと前からのことしか思い出せない。
「大丈夫ですか、先輩」
「ちょっと、ダメかも。頭痛いし。でも今流れている曲は分かるよ。チェット・ベイカーで“エヴリシング・ハプンズ・トゥ・ミー(Everything Happens To Me)”だ」
「ああ、ドライブの時の先輩が持ってきてくださったカセットに・・・」
「そのとおり。ボクの大好きな演奏だよ」
ボクは今回も心の中でつぶやいた。“よくないことならなんでも、ボクに起こるんだ”。
「やっぱり、いいなあ。ボクのテーマ曲みたいなもんでもあるし」
「そう言えば。私、まだ調べてませんでした」
タマキは白いバッグから緑色の表紙をした手帳を取り出し、さらさらとメモをとった。
「それはともかく、先輩、やっぱりお酒弱いんですね」
「まあね」
「ゼミの飲み会に出てこないし、この前もお飲みになりませんでしたから、知りませんでした」
確かに、学校がらみの飲み会には一度も出たことがない。
「キライじゃないんだけど、あまり飲めないんだ」
「大丈夫ですか、先輩。顔が真っ赤です」
「平気だよ」
と言いつつも、少しふらついてしまった。
「嘘つきですね、先輩」
タマキが支えてくれたので、倒れることはなかった。
「コーラ買っていきましょうか?」
「・・・いらないからな」
「あと10分ぐらい歩けますか?」
「大丈夫だよ。駅はあっちだろ」
「そうですね」
タマキは駅と反対方向へボクを引っ張った。
よく考えたら、駅までは5分くらいのはずだった。
「ここから10分ほどで私の部屋ですから、休憩していってください。コーヒーぐらい出しますから」