02 8月5日 (その2)
研究室を出ると、思わずへたり込んだ。
廊下は蒸し暑い上に、昨日、今日と満足に眠れなかったからだった。
「ほら、大丈夫ですか、先輩。肩を貸しますから、捕まってください」
「今日のタマキは天使に見えるよ」
「心が込もっていない言葉は届かないんですよ、先輩。それに、提出は終わりましたので、今からは保護者です」
タマキの体温と匂いを感じた。
後輩の女の子に保護されるなんて、どうかと思ったけれども、このときのボクは燃え尽きて灰になっていたようなものなので、タマキがいてくれてすごく助かった。
「命の恩人だよ、タマキ」
「届きません。それに、保護者です」
「けっこうこだわるんだな」
「こんな状態でも、口だけは達者なんですね、先輩。歩けますか? 階段になりますよ」
「手すりにつかまるから、大丈夫。肩を返すよ。ありがとう、タマキ」
「肩の分も含めて、大きな貸しにしておきます、先輩」
レポートから解放されたボクはふらついて締まらない表情ながら、少しだけ元気になってきた。
「さ、帰りますよ、先輩」
「そうだな」
「手すりはもうありませんけど、大丈夫ですか」
「次の難所は、駅の階段、上り下りだな・・・」
直射日光を浴びるのは気が進まなかった。
既にボクはそれなりに日焼けをしていたはずだけど、タマキはまったくしていないようだった。
日焼け止めでも使っているのかもしれない。
* * * *
タマキとボクは電車の路線も方向も同じだったので、たまにこうして一緒に帰ったり、駅などで行き会うことがあった。
学校からだと、ボクの方が先に下車することになる。
電車はお昼時なのですいていたけれども、ボクは乗車時間よりものんびり座ることを優先して各駅停車に乗りこみ、ドア付近に腰を下ろした。
車内のエアコンは快適だったのに、ドアが開いたままなので効率が悪いと思った。
各駅停車はここで後からくる快速や急行の通過待ちとなっていた。
タマキは何食わぬ顔でボクのすぐ左に座った。
「タマキは急行だか快速に乗った方がいいんじゃなかったっけ?」
「よだれを垂らすほど呆けている先輩が心配なので、送っていきます」
「は?」
「大丈夫です。襲ったりしませんから」
「当たり前だ」
タマキは本当にボクの最寄り駅で降りて、ついてきた。
「まだ15分くらい歩くんだけど、ホントにくるの?」
「もちろんです。前におうかがいしたときは、彼女さんのおかげでとても片付いていましたけど、今日は怪しいですよね」
「期待されてるほどではないと思うよ。ボクがレポートで焦って散らかしたけど、あいつは今朝までいたし、昨晩はけっこう余裕があったみたいで、気を回して片付けてくれてたし」
「彼女さん、偉大です。ますます尊敬しちゃいます。それに比べて」
タマキは軽蔑のまなざしをボクにくれた。
「頑張ったボクにもう少し優しくしてくれても・・・」
「ごまかされないですよ。自業自得ですからね、先輩」
「厳しいなあ」
「彼女さんに頼まれていますから。怒ってやってくれって」
「タマキはボクの後輩のはずなのになあ・・・もっと労ってくれても」
「私が尊敬している彼女さんの頼みなら、喜んでお引き受けしますけど、締まりのない先輩はお断りです」
ボクの部屋に来たがる人間なんて、そう言えばキミ以外ではタマキが初めてだった。
タマキは後輩で、気易いやつヤツだし、よく考えるとキミよりつきあいが長かった。
かわいい女の子ではあるけれど、失礼ながら、これまでタマキに「女」を感じたことはなかった。
ドライヴの時に大泣きしていたタマキでも、妹をなだめているような気になっていた。
とはいえ、キミがいたなら、タマキがついてくるのは断ったと思う。
キミはタマキならうるさく言わないだろうけど、変に誤解されそうな原因は作りたくなかった。
でも、ボクは確かに気が緩んでふらふらしていたし、タマキならまあいいかと思ってしまった。
「さ、先輩、私は道をきちんと覚えていませんので申し訳ありませんが、右ですか左ですか、それともまっすぐですか?」
階段を上って表に出ると、強い日差しをものともせずにすかさずタマキは言った。
「近道したいから、左だ」
「分かりました。あっ先輩、停めてある自転車にぶつかっちゃいますよ」
タマキがボクの肩に掛かっている黒いズタ袋-バッグともいう-を押さえて、ボクを止めてくれた。
危ないところだった。
「これで先輩への貸しがまた増えました。そろそろ、お店でディナーをごちそうしてくださってもいいですよね」
「ええっ・・・」
ボクは露骨にイヤな顔をした。
「なんですか、先輩。人に面倒をみさせておいて、ひどいです」
「みさせておいてとは、不届き千万」
いろいろ助かっているのは事実だったけど。
「大丈夫です。先輩はまだバイト代をあまり使ってないはずですから」
「う。なんで・・・」
「前に先輩が、今度のバイトでは毎月25日に出るって、言ってましたから。それに、25日からあとは、バイトよりもドライヴのことで忙しかったんですよね、先輩。ドライヴの時も、あまりお金を使わずにすみましたよね」
ボクは墓穴を掘っていたようだった。
「今日辺り、いい機会ですね、先輩。ランチからでもかまいませんよ」
確かに、ランチにはちょうどいい時間だった。
「・・・仕方ない。予算の都合もあるから、今はラーメンでもいいか? ルートの途中にあるし」
「さすが先輩、太っ腹ですね。見た目どおりです」
「うるさい」
これまた確かに、最近のボクは運動不足でたるんできていた。
タマキに簡単に分かってしまうとは、自分で思っている以上なのかもしれない。
「節約できた分は、デザートにまわしていただいてもかまいませんよ」
「聞こえない」
「では、ディナーへまわすということで、了解しました」
いつの間にこんなにしたたかになったんだ、タマキ・・・。
ボクは行きつけのラーメン屋さんへタマキを連れていった。
ボクの好きな豚骨醤油にネギ盛り、煮卵付きにして、ふたりとも同じものを注文した。
ボクは汗っかきな方だと思うからけっこう汗をかいていたけれど、タマキはそれほどでもないようだった。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。さすがです、先輩」
外に出るとすぐにタマキは言った。
ボクはハンカチで汗を拭きながら言葉を返した。
「タマキのために厳選したお店だ」
「常連さんなんですよね、先輩。お店の人と親しそうでしたし、世間話とかして。今日はいつもの彼女と違うね、なんて」
「ホント、店長が余計なことまで・・・」
「私で何人目ですか、先輩?」
「・・・1億2千万人ぐらいだよ」
「まだ頭がおかしいみたいですね、先輩。きちんと送ってあげますから、大丈夫ですよ」
タマキの頭の方がボクより遙かにさえていた。
ボクはラーメンのおかげで足取りはよくなったけれど、おなかがふくれたので眠気が復活してしまった。