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8月の魔法  作者: ソラヒト
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02 8月5日 (その1)


「パーティーのみんなで待ち合わせているから、見送りはいいよ」

「了解。気をつけて行ってこいよ」

「うん、ありがと。レポート、ちゃんと出すのよ」

「ああ。もちろん」


 ボクはレポートに追われていたので、空港までの見送りはどのみち不可能だったと思う。

 キミは昨日荷造りを終えると、ボクの部屋に来た。

 ボクの部屋の方がキミの部屋より交通の便がよかったので、キミはボクの部屋から出発することにしたのだった。


「ねえ」

「なんでしょうか」

「キスの交換をしよう」


 キミはボクにキスをした。

 ボクはキミにキスをした。


「あなたのキス、確かに受け取ったわ」

「なんか意味があるのか?」

「お守りよ」

「キミのキスも?」

「覚えていてね」


 キミはボクに微笑んでくれた。


「じゃあ、行ってくるね」


 キミは軽く手を振ると、大荷物をものともせず意気揚々と出かけていった。

 ボクは苦笑いでキミを送り出した。

 部屋の窓を閉めて、エアコンをオンにした。


    *      *      *      *


 キミが早朝に出発してから、ボクも急いで学校へ向かうことにした。

 この日の正午の締め切りまで残り5時間ほどは、土壇場でドジらないように、学校で仕上げまで過ごすのが最善策と思ったからだった。

 幸いなことに、試験期間中の大学図書館は朝7時から開いていた。

 ボクは3階の第2学習室の左隅に座り、追い込みに入った。そこに座ったのは、資料の棚にいちばん近いからだった。

 第2学習室は冷房がほとんどきかず、少し暑苦しかった。

 これでも朝のことだからまだましなのだろう。

 試験をこなしながら気が乗らないレポートを20枚以上埋めていく作業は、ボクにとっては苦行でしかなかった。

 しかし、やらないわけにはいかない。

 キミだってあんなに頑張ったのだから、ボクも頑張らなくては。

 キミのおかげでボクもそう思えたのだった。


 3日の帰りに借り出しておいた、分厚い関連書籍をめくりつつ、8時頃には17枚まで埋めることができた。

 なんとか間に合いそうな目処がついた。

 ボクはちょっとひと息入れようと思った。

 少し気が抜けた。

 不慣れなことを無理にしているとダメージがでかい。

 過労気味だったから、いつしか学習室の机に突っ伏していた。

 ・・・しばらくすると、何か大きなものがボクのそばに落ちたような鈍い音がした。

 ボクが体勢を変えたせいで、借りてきた分厚い関連書籍の1冊を落としたらしかったが、ボクはまだ朦朧としていた。


「何やってるんですか、先輩。あ、あ~あ、もう」


 という声がした。

 ボクを「先輩」なんて呼ぶのは、ボクの知る限りこの世でひとりしかいない。

 タマキだった。

 後輩として、まずまずかわいいやつだ。


    *      *      *      *


 初めて挨拶されたときのことを覚えている。


── 苗字なのか、名前なのか、両方なのか、よく分からんヤツだ。

── ひどいです、先輩。両方はないですよ。


 同じゼミでつきあいは2年目となると、それなりに仲よくなっていた。

 でも、人づきあいを好まないボクにはきわめて例外的な存在だった。

 そもそもボクから声をかけたのではなく(そんなことはあり得ない)、タマキの方からボクに近づいてきて、何かと声をかけてくれるようになっていた。

 そして、キミとタマキは既に知り合っていて、キミとボクがつきあい始めて、三人でつるむようになり・・・。

 この間のドライヴはボクとタマキだけで行ったけれど、ボクはタマキのことをより身近に感じられるようになった。

 タマキもボクをより身近に感じてくれるようになったと思う。


    *      *      *      *


 タマキはボクが落とした書籍を拾ってくれてから、こう言った。


「先輩、何やってるんですか? まさか、例のレポートですか?」

「そのとおり」

「まだ出してなかったんですか? 締め切りは今日の正午ですよ」

「ストーリーはできてるし、あと3枚程度だから、間に合うはず・・・」

「ええっ! もう10時ですよ」


 ボクはそう聞くと一瞬で目が覚めた。

 汗をかいていたけれど、更に冷たい汗が出てきた。


「なんてこった」


 1枚30分として、11時30分頃、ここから研究室まで5分程度、なんとか間に合う。


「助かったよ、タマキ。タマキにさち多かれ、だ」

「そんなこと言ってる場合ではないですよ、先輩。まずは・・・」


 タマキはバッグからティッシュを取り出した。

 続いて自分の唇の右端を人差し指でちょんちょんと指しながら、言った。


「まずは先輩、よだれを拭いて下さい」

「は?」


 なるほど、机の上がなんだか濡れて、ボクの口元は怪しくなっていた。明らかに汗ではない。

 キミに乳幼児と似たようなものだと言われたことを思い出した。


「いつにも増してカッコ悪いです」


 タマキは机を拭いてくれた。


「はい、これで、自分の口元ぐらいなんとかしてください」

「どうも」


 タマキがくれたティッシュで、指示に従った。


「まったく、いつもギリギリですね。個々の課題は、教授が7月初めには出してくださったのに」

「ボクがそれに気づいたのは2週間くらい前だし、試験勉強に燃えていたんだ」

「嘘つきですね、先輩」


 ボクはたじろいだ。


「私、助手のAさんが研究室の掲示板に課題一覧を貼りだしてくださったのを待ちかまえて、確認したらすぐに先輩に電話したんですから」

「・・・あれ、そうだったかな」

「留守電でしたけどね。メッセージをちゃあんと入れておきました」


 タマキは「留守電」を強調して言った。


「んー、もしかして、間違って消しちゃったかな」

「本当でも嘘でもひどすぎです、先輩。試験勉強だって、ろくにやってないくせに」


 タマキの鋭い突っ込みが続いた。

 元のタマキかそれ以上に、キレのあるタマキだった。

 もしかしたら、お互いに一歩ずつ踏み込んで距離を縮められたのかもしれない。

 試験勉強はやらなかったわけではなかった。

 しかし、ひいき目に見ても、勉強1割、息抜き9割といったところだったので、タマキの完勝だと思った。


「何でボクのことそんなによく知ってるんだ? まさか、マニア?」

「もう約2年も後輩やってますから、自然と分かるようになりました。さあ、そんなこと話してる場合じゃないですよ。もう締め切りなんですよ、先輩」

「そうだった。頼もしい後輩がいてくれて、ボクは感涙にむせびそうだ」

「いいですから、とっとと手を動かして下さい。提出まで監督してあげますから」


 タマキのフォローのおかげで、ボクはなんとか11時40分までに20枚のレポート用紙を埋め、21枚目の3分の1ほどをおまけに埋めることができた。


「さ、提出に行きますよ、先輩」

「なんでタマキが張り切ってんだ?」

「提出までは、監督です」

「・・・分かりました、監督」


 2階で書籍を返却して、研究棟へ移動し、無事にレポートを提出できた。11時52分だった。

 教授は不在だったので、助手のAさんにお渡しした。Aさんはにやにやして言った。


「ぎりぎりだけど、間に合ったんだからOKだ」


 そのとおり。ボクは危機を脱することができたのだった。

 研究室の冷房がやけに気持ちよく感じられた。

 タマキはなんでわざわざ3階の第2学習室に来てくれたのか、ボクは気づいていなかった。


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