祝福されし者(2)
ガタゴトと体が左右に揺られる。皮と獣の匂いが鼻を刺激し、気持ちが悪い。
あれから俺は、なにやら蓋の付いたカゴのようなものに押し込まれ、半日放置された挙句、馬車で運ばれていた。
おそらく馬車だと思う。
獣臭く、ヒヒーンと鳴くものを馬と定義するなら馬車だ。
ああ、しかし魔神とか言っていたから、異世界という可能性もあるのか。
ヒヒーンと鳴くチュパカブラーである可能性もあるわけだ。
まあでも馬でいいだろう。
現実逃避している間にも、馬車はすごい勢いで走っていく。かなりの悪路を走っているらしく、揺れ方が酷い。
揺れ方というより、もはや跳ね方だ。
揺さぶられっ子症候群という言葉はこの世界にはないんだろうな。
それがもうずっと続いている。
正確な時間は分からないが、確実に一時間は越えているだろう。
もっとかもしれない。
なにしろこの中では何もわからないのだ。
何も見えず、音もほとんど聞こえない。
恐怖と焦りだけが募っていく。
本当に俺は捨てられるのか?
こんな産まれてすぐに?
血や体液を拭われもしてないので、体の表面で乾いてパリパリになっている。
さっきからそのせいで体全体が痒い。
今の自分に何ができるか?
必死で考えるも、ロクな案が思い浮かばない。
馬車を操っている男をどうにかして説得するか?
赤ん坊が喋っても余計気味悪がられるだけだ。そもそも喋れるのかどうかも怪しい。
試してみようとするが、喉が乾きすぎて変な音しか漏れなかった。
やがて、馬車が止まった。
軋む車輪と馬の蹄の音が消えた代わりに、ごそごそと人が動く気配と物音がかすかに聞こえてきた。
その音はどんどん近づいて、ギイッと床が軋んだ。
ランタンのような、オレンジ色の光がカゴの隙間から差し込んでくる。
そして勢いよく持ち上げられる。
「ふうー。重いな。いってーなんが入ってんだ」
「詮索するなって念を押されてるだろ」
どうやら俺を捨てる任を負った男たちは、何も聞かされていないようだ。
これで、俺に同情した男がこっそりと俺を助けてくれるという、昔話的な展開は潰えたわけだ。
「こんな夜更けに俺たちに捨ててこさせるなんて、よっぽどの弱味なんだろうな。な、な! これであいつらを脅せねえかな?」
「俺はお前が殺されても知らん振りするからな」
相棒に冷たくあしらわれ、男はひるんだようだ。
俺としてはそっちの方が生存確率が高そうなので、ぜひ推奨したい。
「わ、わかってるよ。冗談だよ」
「バカ言ってないで、早く済ませるぞ。こんな物騒な所、いつまでもいられるか」
どんな物騒なんだ!?
そんな物騒な所に俺は捨てられるのか!?
不安が最高潮に達する間にも、事態は進んでしまう。
「せー、の!」
二、三回揺らされて、タイミングよくカゴごと投げられた。
「っ!!」
衝撃に声も出ない。
痛みに体をよじろうとしても、狭いカゴの中ではそれも叶わない。
「ふー。終わった終わった。帰ろうぜ」
「ああ。魔物が出んとも限らん、早く行くぞ」
魔物ってなんだ!?
疑問に答えてくれる者はいない。が、とりあえずここが異世界だということは確信した。
問いかける間もなく、男たちはさっさと帰って行った。
馬車の灯りが遠ざかって、やがて辺りは完全な闇に包まれた。
痛む体を何とか動かして、カゴの蓋を押し上げる。
蓋が下になっていたらさっそく詰んでたな。
未だに選択肢の一つも提示されていないというのに、なぜこんな明らかなバットエンド直行ルートを邁進しているのか。
べちゃりと、倒れるように着地する。
地面に着いた手は土の感触を掴んだ。
湿った、腐葉土のような土だ。
(森の中か・・・・・・?)
答えるように風が吹き、ザワザワと枝葉が擦れる音がする。
辺りは真っ暗だ。
何も見えない。
ひやりとした空気が肌に突き刺さり、内部へと侵入してくる。
ぶるりと体が震え、押し出された自分の息だけが地面に吸い込まれて消える。
(本当にそうか?)
唐突に疑問が頭をよぎった。
本当はすぐ近くに魔物とやらがいるのではないか?
じっくりとこちらを観察して、食らいつこうとしているのではないか?
何匹もの魔物が自分を囲み、今にも食らいつこうと開いた口から涎を垂らし、後ろ脚の筋肉を膨らませているのではないか?
揺れる枝葉の音に、どうして足音が混じっていないと言える?
(くそっ!)
嫌な想像ばかりが次々と浮かんでくる。
異界の森に捨てられ、すっかり弱気になっている。
ともかく今は、この瞬間は生きているのだ。
ならば生きている間にできることをしよう。
今の自分に何ができる?
赤ん坊にできることは少ない。
(ともかく、前に進もう)
今のままでは魔物どころか、野犬に襲われるだけで苦しんで死ねる。
馬車が去って行った方向とは逆に進み出す。
長時間馬車で移動した距離を戻れるとも思えなかったし、戻れたとしても、見つかったら今度こそ殺されるような気がしたからだ。
先の見えない道を文字通り這うように、体をくるんだ布を引きずりながらハイハイで進む。
進んでから、その異常性に気付く。
ハイハイが出来るということは、首が座っているということだ。
首が座るのはだいたい生後三か月から五か月程度だ。
つまり、この体はたった半日でそれだけの成長を遂げたのか。
これがこの体の、『魔神の祝福』とやらのチート効果か。
そのチートのせいでこんな目に合っているのだから、まったく釣り合っていない。
せめて無双できるような強さぐらいは欲しい。
右手、左足。
左手、右足。
順番に動かして、ただ前へと進む。
できるだけ速く。
ここでじっとしていればいるだけ、死亡率が上がる。
(なんとか森を抜けないと)
湿った地面の上に手足を着くたびに、じとっとした水気が布越しに、肘や膝に張り付く。
しかしそんなことはすぐに気にならなくなった。
「ゎぶっ!」
頭から地面に倒れ込む。
そうだ。
子供は頭の方が重いのだ。
ハイハイをしていた頃など忘れるどころか、記憶が機能していないときなので、やり方が分からない。
「べっ、べっ」
口の中に入った土を吐きだそうとするが、乾ききって唾液すら出てこないので上手くいかなかった。
仕方なく舌を動かして押し出す。
当たり前だが土臭くてまずい。
唾液がないせいで、あまり味を感じないのが救いか。
口の中に残った土が、じゃりじゃりと歯に不快な感触を与える。
地面に落ちた小石や枝が、まだ柔らかい肌に刺さる。
痛みに歯を食いしばると、またじゃりじゃりという。
(ああ、くそっ!)
右手を前に出して、思う。
(なぜ俺がこんな目に!)
左足を前に進めて、恐れる。
(いきなりこんな異世界に連れてこられて、わけもわからず夜の森に捨てられて)
左手を前に叩き付けて、憎み、
右足で地を蹴りつけて、憎む。
(ふざけるなふざけるな! そもそも元々の俺は誰なんだ!?)
転生だのなんだのと浮かれていたが、俺には元の世界での生活や人生、そして俺の両親がいるはずだ。
それらの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
それなのに、知識や経験といったものはきれいに残っている。
何者かの作為は明らかだ。
(つまり、俺は誰かの、魔神と呼ばれる誰かの悪意によって異世界に連れてこられ、今、こんな目に合っているのか!)
産まれてすぐの重労働に、赤ん坊の体が悲鳴を上げている。
手足の感覚は痛みを通り越して、棒のように何も感じない。
喉は乾き、舌は縮こまって呼吸を阻害する。
腹も減った。
乳の一滴も与えられていないのだ。
よもつへぐいの考え方では、俺はこの世界に拒絶されているのだ。
全身で前に進み、決意する。
(なんとしても、元の世界に帰ってやる!)
そのためにもまず生き残らなければ。
赤ん坊の体では全力でも、一体どれだけ進めているのか。
「っ!」
頭から恐らく樹と思われるものに突っ込んでしまい、痛みと恐怖を噛み殺しながら方向転換をする。
「ひっ!?」
斜めに突き出した手が地面とは違う感触を掴み、思わず悲鳴を上げて腕を上げる。
未だに手に残る感触からなにかの虫だろうと当たりをつけ、刺されたりしていない事を確認してから、別の方向へと体を向ける。
この調子では、前に進めているのかも怪しい。
同じところをぐるぐる回っているだけではないのか?
視界の利かない森は、たやすく人の感覚を狂わせる。
文字通り先が見えないのだ。
手をついた地面のすぐ横で、無数の毒虫が蠢いているのではないか。
おぼろげに見える木々の輪郭は、本当に全てそれのものなのか。
自分のすぐ横に闇色の誰かが立っていて、じっと見つめられているような妄想にかられてしまう。
膨れ上がる恐怖心と焦りを懸命に押さえつけて、単純作業に徹する。
右手を前に、
左足を前に、
左手を前に、
右足を前に、
その一連の動作を繰り返し、機械のように無心を貫く。
手足の感覚は既にないが、関係ない。
感覚があろうとなかろうと、同じ動作をしているのなら前に進んでいるはずだと、自分に言い聞かせる。
そのせいで、気づくのが遅れた。
──────フゥー、フゥー
自分以外の息遣いが聞こえる。
「っ!」
咄嗟に動きを止めて、息を殺す。
だが人間の俺が気づける距離だ。
野生の動物ならとっくに気づいているだろう。
(なにか、武器になるものは!?)
必死に辺りを探るが、そんなものはない。
荒い息遣いはまだ聞こえてくる。
(場所が変わっていない?)
どうやら息遣いの主に、俺を襲うつもりはないらしい。そして、俺の正体を探ろうと近づくこともしない。
(怪我か何かして動けないのか?)
それならばチャンスかもしれない。
(せめて血だけでも飲めれば)
随分前から、腹の虫が限界を訴えてきている。
このままでは腹を食い破って、外に出てきかねない。
慰めに尖った石を拾い、慎重に近づく。
相手に動きはない。
さらに近づく。
息遣いがはっきりと聞こえる。
フゥー、モォー・・・フゥー
(なんだ牛か)
鳴き声から判断する。
牛と似た鳴き声を出す動物を他に考えるが、関連のあるものは件くらいしか思いつかない。件なら人語を話すはずなので却下する。
触れることができる距離まで近づいても、動く気配はない。
どうやら相当に弱っているようだ。
牛は完全に倒れ込んでいる。
それでも一応、蹴られないように後ろ脚の後ろは避ける。
ようやく夜目が利いてきて、ぼんやりと周囲がわかるようになってきた。
(牝牛か)
単に足を折って動けないのかもしれないが、病気で倒れているのかもしれない。
感染症は怖いが、この際贅沢は言っていられない。
飲まずに餓死するか、飲んで毒で死ぬか。
(どちらでもない、飲んで生きてやる!)
動物相手なら恥ずかしいという気持ちも湧かない。
こうして俺は、この世界に来て初めての食事にようやくありつけた。
ある程度腹が満たされて、少し余裕ができた。
すると、途端に眠気が襲ってくる。
さすが赤ん坊ボディー。
だがこの牝牛の傍で眠るのはマズイ。
この牝牛を襲いに来た獣や魔物に、ついでとばかりに俺まで襲われかねないからだ。
瞬きで眠気を奥に押し込み、牝牛から離れる。
しかしどこまで行けばいいのか。
俺が安住できる場所は、果たしてこの世界にあるのだろうか。
(最悪、このまま動き回って夜が明けるのを待つか)
この体は成長が異常に早いようだし、歩けるようになるまで待つというのも手だ。
そんなことを考えながら、しばらく進んだ時だった。
(これは、石か?)
地面に埋まった大きな石が手に触れた。
表面が平らな石だ。
砂利交じりの土の上よりはマシなのでその上を進もうと、少し方向を変える。
すると、また次も同じような石があった。
また次も。
(これはまさか、石畳か?)
止まって、目を凝らす。
何か大きな物の輪郭がうっすらと見える。
(建物か!?)
慌てて、建造物らしき影の方へぺたぺたとハイハイする。
どうやらここは廃村のようだ。
中に入ると、少しひんやりとした空気が、運動で疲れた体を包んだ。
ちゃんと壁もある。
(ここなら大丈夫そうだ)
そしてもう、眠気と疲労で限界だった。
倒れ込んで、布を引き寄せる。
目蓋が落ちて、思考が途切れる。
こうして、俺の異世界での一日目が終わった。
ちょっと長めです。
少しハードモードにしすぎたかもしれない。
次話は本日の18時過ぎに上げます。