プロローグ
この異世界が腹立たしい。
この異世界が憎々しい。
「おいおい逃げんなよ『魔神』。せっかくの初戦闘イベントじゃん」
どうしようもなく悲しくて、いっそ笑いさえこみあげてくる。
「おっ。そうだよそうだよ。やっぱ何事も楽しまなくちゃな。別にオレも初イベで決着がつくとは思ってねえけどよ。やっぱほら、大技の撃ち合いとかやってみたいじゃん」
こちらが零した笑みを見てか、目の前の鬱陶しい男がさらにテンションを上げる。
言われて、というわけではないが、顔を上げる。
七メートルほど前方にその男はいた。
少し開けた場所とはいえ森の中なので、あまり距離は取れない。
背格好からして、十代後半と思われる。
白に近い銀髪に、さぞかし女にモテそうな甘いマスク。
その頭部以外を、傷一つない成金趣味のような甲冑で覆っている。
そして右手には、一振りの大剣。
(これが、勇者か)
『女神の祝福』を受けし勇者。
何もかもをも手に入れているであろう勇者の顔は、自信に満ち溢れていた。
(対する俺はどうだ)
何もかもを失ってしまった。
もう少しで、もう少しでまともな人間らしい生活が、やっとこの世界でも送れると思ったのに。
この世界で、生きていくことができると思ったのに。
それが今ではこの有り様だ。
身も心も深く傷つき、満身創痍。
唯一手元に残った短刀を、力の限り握り締める。
「ご主人様!」
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえる。
悲しみに溢れた、悲鳴に近い叫び。
(もうどうでもいい)
声を振り払うようにして、一歩前に出る。
彼女たちには逃げるように言ってある。計画が失敗した以上、いつまでも巻き込むわけにはいかない。
「おら、来いよ『魔神』。それともこっちから行こうか?」
勇者。
男の顔を視界に入れる度に、負の感情が心の底から浮かび上がってくる。
(こいつが悪いわけじゃない)
わかっているのだ。この澱のような悪感情は、元々あったものだ。
この世界に生れ落ちてからずっと、湧き出るようにして溜まっていったものだ。
つまり、これは八つ当たりだ。
だが、正当な八つ当たりだ。
(どうして俺が、こいつを妬まずにいられるだろうか)
勇者に向かって左手を伸ばし、魔法陣を展開させる。
ほとんど無意識に編んだそれは、見慣れない黒色に光っていた。
体の表面を這いずる黒い紋様が、左手から染み出して魔法円の外周を取り囲み、見たこともない魔法陣へと変貌させる。
「×××××××」
口がひとりでに動き、聞きなれない呪文が諳んじられる。
効果を発動させた魔法陣から、黒い氷柱のような物体が発射される。空を裂くように飛翔する氷柱の速度はかなりのものだが、目で追えないことはない。
「おお! あっぶね!」
事実、勇者は危なげながらも向かって右側に躱してみせた。
「うおわっ!?」
だが、その方向には既に別の魔法を放ってある。
右手で展開した黒い魔法陣から発射された黒い氷塊が、勇者ご自慢の甲冑へと衝突する。
この見知らぬ魔法は明らかに自身の意思を蝕んでいるが、対処をしようという気力は一切湧いてこない。
(死ぬんなら、死ぬで、どうでもいい)
今はただ、この絶望を勇者にぶつけることに全力を傾ける。
「てめえ、なにしやがる!?」
少しへこんだ甲冑をさすりながら、勇者が怒鳴り声をあげる。
勇者が仕切り直すためか、大きく後ろに飛び退く。
間髪入れず右から飛んできた火球を適当に躱して、勇者へと斬りかかるが、大剣をもって迎えられる。
半歩右へと踏み込んで、振り下ろされる大剣を見送り、短剣の間合いへとさらに一歩。
その前に再度迫ってきた大剣の腹を突いて、軌道を変える。
大剣が自分の周囲の空間を削る度に、意識が鋭敏になっていく。
ゴウッと耳のすぐ傍を大剣が唸り声をあげて通り過ぎる。
余計なものが削がれていく。
この世界での立場や生活やこれからの未来、彼女たちの存在。
そして、自身の命でさえも。
ほんの数時間前まで、それらは大切なものだった。
今はそうではない。
致命的に軽くなった体で、そらに踏み込む。
皮一枚の猶予を残して、服が切り裂かれる。
どうせ防御に意味はない。
ならばするだけ無駄だ。
視線と短刀の動きで勇者を誘導し、左から飛んできた風魔法へとぶつけさせる。
動きの止まった瞬間に斬りかかるが、辛うじて大剣で防がれる。
キンと澄んだ音とともに、短刀の剣先が斬り落とされる。
間合いがさらに短くなってしまった。
その分だけ、さらに前へ出る。
撃ち込まれる魔法をついでに躱しながら斬り合いを続けていると、気が付けば体のあちこちから出血していた。
このままさらに何もかもが失われていって、最後に残るものはなんだろうか。
あるいはそれこそが、自分が最も手に入れたかったものかもしれない。
息はとっくに上がり切っている。
まばたきを許されない眼球は干上がっている。
酸素と水分が失われた。
次はなんだ?
もっともっと前に。
生き急ぎ、人生を全速力で駆け抜けたとしても、ゴールテープを切った先にあるのは己の墓穴だ。
だがその墓穴の底に、なにかあるのだとしたら?
急かされるようにして前へ跳び込む。
気が付けば、手の中の短剣が弾き飛ばされていた。
それならばと伸ばした左手に、『魔神』の黒い紋様が這っているのが目に入る。
すでに左腕は奪われたも同然だ。
次はなんだ?
勇者の大剣が振り下ろされようとするのが見えた。
既に足に力は入らず、動くことはできない。
「ご主人様!」
どこからか声が聞こえた。
次の瞬間。
凄まじい衝撃とともに、俺の意識は失われた。
第一話は本日中に上げます。