相葉洋子
相葉洋子 卒業後―後編。最終話。
「姉ちゃん、私たちここで帰るね」
次の角を曲がれば、私の家に着く。確かに、家に泊まるという話はしていないが、カラオケボックスから家と駅では反対方向だ。
「帰るって、電車ないわよ?」
愛美の発言は無茶だ。何を思って言ったのか。
視線を追ってみる。
家の前にケンイチが立っていた。
私は言った。
「じゃあ、愛美の家に行こうか?」
待てコラ。自分でも思ったし、二人からも言われた。
「どおりで、今日は変だなって思ったんですよ」
「姉ちゃん、それはずるい」
メイと愛美、口々に責め立てる。
「違うわよ。別に今夜だって会う約束してたわけじゃないし」
言うと、愛美はわざとらしい溜め息を吐き、メイは頭を小さく振った。
そんなあからさまに、呆れなくてもいいのに。
「とにかく、私たちは自力で帰る。心配しなくても大丈夫」
「姉さんにカラオケおごってもらったから、愛美の家までなら二人でタクシー代出せるし」
それじゃあ。
二人は止める間も与えず、去ってしまった。
二人には後で、謝んなきゃな。
私は深呼吸して、ケンイチの方へ向かった。
「何でいるのよ」
彼は戸惑いながら、
「来なきゃいけないって思ったから」
不器用にはにかんで見せた。
彼の前を通り過ぎ、家の門を開けた。
「入ったら? 寒いでしょ」
「いいのか?」
「いいわよ」
家は普段から誰もいない。母はとうの昔に死んでたし、父は仕事でろくに帰ってきた試しがない。姉すら、男のとこに入り浸っている。
私が男を入れたところで、咎められる言われも無ければ、咎める人すらいない。
昔、愛美に羨ましがられたっけ。
ケンイチを、男の人を、初めて家に入れた。
変に胸が高鳴る。
ケンイチを居間に通すと、すぐにコーヒーを出した。ケンイチは猫舌で、時間をかけて飲んでいた。私は飲み終えるまで待った。
コーヒーを半ばまで飲むと、
「ごめんな」
優しい声が痛かった。謝るのは彼じゃない。
「別に」
どうして、素直になれないのだろう。謝ってしまったほうが楽なのに。
「別に謝る理由なんかないでしょ」
「あるよ」
聞きたくて、目を逸らした。
「ずっと、待たせてた」
待ってた。本当に待ってた。言われて気付いた。
「今更?」
せせら笑った。正直言うと、涙が出かけた。
「今まで気付かなかった」
違うな、ケンイチは訂正した。
「確信が無かった。だから、気付かないフリをしてた」
二人の離れた時間が長すぎて、私の中ではもう終わったものと、ケンイチは思っていた。でも、心のどこかで待っているんじゃないか。でも、それは自分のエゴじゃないのか。私に確かめて、自分が傷つく結果になることを恐れた。彼はそう説明した。
「卑怯だとは思った。そして、相葉が何も聞いてないのに、自分の確信だけで今、話してることもズルいと思う」
だから、すまない。
「ずるいよ」
「うん」
「なんで、いっつも大人ぶるの」
「ごめん」
「なんで、アンタだけ大人なのよ」
「そんなことないよ」
「私だけ、子供みたいじゃない」
抱き寄せられていた。
私はそのまま、ケンイチの胸に甘えていた。不思議と居心地がよかった。
「また付き合うかどうか、オレにもよく分からない」
優しく頭を撫でる手が、心地よかった。
「このままでいい気がする。そう思う反面、より深く付き合いたい気持ちもある」
「……したいってこと?」
ケンイチは少し慌てた様子だったが、少し、考えて、
「そうかもしれない」
耳元で囁いた。確信犯だ。狙って囁いてきた。その手馴れた感じが、安心するけどムカつく。
「相葉の部屋に行く?」
ケンイチの問いかけに、私は無言で頷いた。ケンイチは面白がるように、微笑んでいた。
「何?」
「いや、相葉が黙って頷くの初めて見た」
可愛いと付け加えられ、可愛くないと怒って見せた。
二人で笑って、ケンイチがもう一度尋ねる。
私はまた、無言で頷いた。(意識したから、若干ぎこちない気がする)
部屋に向かう途中、無言だった。というより、私はすでに頭の中が真っ白になりかけて、階段を登る足取りも覚束無いほど、緊張していた。
自分の部屋のドアが、やたら耳に響く。ケンイチは気になってないだろうか。
ああ、しまった。お風呂に入りたい。
今更言っても、しょうがないのかな。
言っていいのか、分からない。
下着はこの前買ったばかりの物でよかった。
お風呂が気になる。電灯消さなきゃ。
あいば。
……コーヒー臭い。さっき飲んだから、当たり前か。でも苦くは無い。
随分、前に愛美とふざけてしたことがあるけど、唇や舌だけでも男の人って力強いんだ。
頭を撫でる手、背中をさする手。耳にかかる吐息。優しくて、くすぐったい。
!
首筋を何かが這う。思わず退いてしまった。それが分かっているかのように、追い掛けてくる。
首をかしげたまま、硬直してしまう。
止まった。
ケンイチの動きが止まった。ケンイチの時間だけ止まったように。
私は自分が嫌がったのが原因だと思った。
「ごめん、違うの」
ケンイチは止まったままだった。目には、彼自身の手が映っている。私の胸を触ろうとする寸前の。
「ケンイチ?」
ケンイチはいったん目をつぶり、力なく笑って、
「ごめん」
私を抱きしめた。何がごめん?
「寝ようか? 一緒に寝てもいい?」
いや、もともとそのつもりだったんだけど。
違う、このニュアンスは本当にただ、一緒に寝るだけだ。
どうなってるのか、分からない。
ケンイチは早々に、人のベッドに潜り込んでしまった。私も追いかけるように、入っていく。
私、何か悪いことしたのかな。
「私のせい?」
「いや、違うよ」
「本当に? 正直に言って、怒らないから」
「いや、本当に相葉のせいじゃない」
木造の天井。電気は消えていて、埃っぽい木目は見えない。窓を見ても暗く、近くの公園で咲いていたはずの桜は不気味な影になっており、私は目を逸らしていた。敷かれた布団は暖かく、切ない。私一人ではないから。
ふと顔を横に向けると、隣の男はまた布団からはみ出ている。寝相ではない、起きているのは分かっている。
避けているのだ 私を。
何で……?
「ねえ……ケンイチ」
私は横にいる彼の名を呼んだ。
続けて、聞いた。
訴えに近かったかもしれない。
「どうして何もしないの? 私が汚いから?」
「違う。そんな事は、言わないでくれ」
搾り出したような声が返ってきた。
「違うのなら、何故? いいじゃないの、抱けば」
だって、私は好きよ。このまま、訳のわからないまま、夜を過ごすのは嫌。
「何故拒むの?」
「触れない」
「……おっぱい小っちゃいから?」
吹き出しながらも、答える。
「ぜんぜん関係ない」
一瞬、緩和した空気はまた張り詰めた。
「どうして触れないの?」
遠くから、電車が通る音が聞こえる。こんな時間に走るのだから、貨物列車か寝台列車だろう。静かな空気に滑車の音がよく響いた。聞こえなくなるのを待って、会話を戻した。
「黙らないでよ」
ケンイチは答えない。
「初めてってワケじゃないんでしょ? 私知ってるんだから」
むしろ初めては私なんだし。その私がなんで、ここまで気を使うことになってるのか。
「せめて……答えてよ」
もう、答えてもらえないのか。諦め始めた時、
「大好きなんだ」
……え?
「聞こえないわ」
聞き違いと思った。それはできない理由にならないから。
「好き過ぎて、触れないんだ」
ケンイチが適当な嘘をついたようではなかった。むしろ、適当でもなかった。さらに厄介なことに、その気持ちが私には分かってしまった。
そんなの、そんなの今更になって……。
「じゃあ、なんでしたいなんて言うのよ?」
「ごめん」
オレもこうなるまで知らなかった。言われなくても、続きが分かった。
ケンイチは震えていた。
私は泣けなかった。
ただ哀れで、泣くよりも胸が痛かった。ケンイチの背中を抱いて、眠った。