相葉洋子 一年
帰宅部シリーズ第一弾、帰宅部の女帝「相葉」を描いた三部作。第一作目。
いつだったかの話
木造の天井。電気は消えていて、埃っぽい木目は見えない。窓を見ても暗く、近くの公園で咲いていたはずの桜は不気味な影になっており、私は目を逸らしていた。敷かれた布団は暖かく、切ない。私一人ではないから。
ふと顔を横に向けると、隣の男はまた布団からはみ出ている。寝相ではない、起きているのは分かっている。
避けているのだ 私を。
何で……?
「ねえ…………」
私は横にいる彼の名を呼んだ。
続けて、聞いた。
訴えに近かったかもしれない。
どうして何もしないの?
私が汚いから?
「違う。そんな事は、言わないでくれ」
違うのなら、何故?
いいじゃないの、抱けば。
私は好きよ。
何故拒むの?
触れられない?
どうして触れられないの?
黙らないでよ。
初めてってワケじゃないんでしょ? 私知ってるんだから。
せめて……答えてよ。
「 」
……え?
聞こえないわ。
「 」
そんなの、そんなの今更になって……。
卒業式前日。
私は相葉、桜坂高校三年生。後輩に姉ちゃんと慕われ、同学年には『ケンイチの恐ろしい彼女』と退かれている。
ケンイチの彼女、周りはそう言う。否定するのはややこしく、複雑な感情が絡み合っていて、誰かに説明をするのは面倒くさいし、私にはその事を話すだけで胸が痛くなるから嫌なのだ。多分、ケンイチもそうだろう。
だから私は誰にも、何も言わない。
これから語るのは私ではない。
何の因果か、わざわざ卒業式前日に映し出される、私の夢なのだから。
三年前 春
高校の入学式、初めてのホームルーム。まだ名も知らない皆が緊張を隠せない中、私の前に座っている男子は急に振り返り、
「ケンイチって言うんだ。よろしく」
堂々と話しかけた。男子の笑顔は、ちっとも固まってない、至って自然な笑顔だった。
「え? あ、ああ……よ、よろしく」
私にとってそれは意外でつい、しどろもどろになる。
ケンイチは私の返事を聞くと子供のような声色を出し、
「あくしゅあくしゅ」
その奇妙なコミュニケーションの取り方に、
「は、はあ……」
戸惑いながらも求められた握手に答えた。
「こら、石田」
こつんっと、先生に叩かれた。大して痛いはずでもないのに、ケンイチは大袈裟に顔を歪めた。それはとても滑稽で、私は吹き出しかけてうつむいた。
「痛いッスよ、先生。何も入学早々、新入生を小突かなくてもいいじゃないですか」
唇を尖らせて抗議する。先生は笑い、
「お前が初日から遅刻しないような生徒なら、俺も注意だけで済ますぞ」
指摘する。ケンイチは苦笑いになって、
「ごもっともです」
仰々しくふざけて返事した。
「馬鹿」
先生も呆れて、それだけ言い放って教壇に戻った。ケンイチは先生が背を向けている僅かな間を見逃さず、こちらを見て、
「怒られちゃった」
痛そうな顔で叩かれた部分をさすり、舌を出しておどけて見せた。
私は屈託のないケンイチに好感を持つ。
「付き合ってくれないか?」
ケンイチが言ってきたのは一週間もしない、電話口での会話の中だった。
ケンイチと話すのは楽しい。
普段話しているだけでも、些細なことで口ゲンカになっても、結局笑い事にしてしまう。私がその事で本気で怒っていてもだ。まるで私を昔から知っているかのように。
知らなかった。
男の子と付き合うのがこんなに楽しいなんて。
私が中学生の頃に嫌われ者だったせいもある。
(理由は今でも思い当たらない。いずれ誰かに回ってくるそれが、たまたま私だったのだろうと今は納得している……させている)
そのせいで日常における全てに嫌気がして、早くこんな所から出ていきたいと、ずっと進学を夢見てきた。新しい境地で全てをリセットし、高校でやり直したかった。
今、私の隣にケンイチがいる。『嫌われ者』と扱われた私を『好きだ』と慕うケンイチ。
私は彼が『好き』なのか知らない。私の中にあるケンイチへの感情、これをその言葉に当てはめるべきだろうか?
私は言われ慣れていない言葉を耳にし、それに照れているだけではないのか?
『好き』ではなく、私を慕ってくれて『嬉しい』だけじゃないの?
そこがハッキリしないと、ケンイチとは付き合えない。
ケンイチとこんな感情で付き合うなんて、そんな自分勝手は許せない。
ケンイチをがっかりさせたくない。彼とどう付き合うのか、ちゃんと決着が付くまで私は答えない。
ケンイチには、伝えてある。
「考えさせて」
彼は過ぎて行く日常で、ただ、私の答えを待っている。
でも、少し不思議。ケンイチは何にも変わらない。
だから、私はつい尋ねる。
「答えを待つって、辛くない?」
私は貴方を待たせているのが辛い。もう考えたくない位にまで考えた。それでも、苦痛を伴いながら考えて。それは私が貴方をいい加減に思っていない証拠。
ケンイチは沈黙して、しばらくしてから答えた。
「相葉が長い時間考えてくれるのは、それだけ俺のことを考える証拠だろ。それって嬉しい事だと思うよ。だから、しばらくは待つよ」
……同じ考え。
「辛いかって聞かれたら、辛いかな。だから、待ち疲れてどうにかなる前に答えてよ。もし相葉が『付き合う』って言ってくれても、本人が壊れてちゃね」
私はケンイチのこういう点で驚く。真面目な話で、軽くふざけられる人間なんか、私の周りにいない。ケンイチはホントに私と同じ高一なんだろうか。
彼は大人だ。私なんかよりずっと……だから私は考えるんだ。彼と対等に付き合うために。
夏
週末はいつもデートだ。遊園地に映画館、カラオケとボウリング、二人だけなのにとっても楽しい。
お互いの家にも行った。ケンイチは女の子の家に入るのが初めてだったらしく、私の家では凄く緊張して、居る間中ずっと正座になってて、足が紫色になってもがんばった。私はずっと崩してもいいと心配していたが、最後には、
「あははははは!」
ケンイチがしびれた足を相手に悪戦苦闘するのがおかしく、指を指して笑った。
逆に私がケンイチの家に行くと、お母さんは普通の対応だったが、弟が問題だった。ケンイチの話では、私は弟に似ているらしい。女の私を男と被らせるのはどうかと思う。まあ、ケンイチらしいと言えばそうだけど……。
「ただいまー」
弟は何処かに出かけていたらしく、私がケンイチの部屋で一段落して彼と雑談をし始めた時に帰ってきた。
弟の部屋はケンイチの部屋を横断しなければ入れないようになっていて、私とは嫌でも顔を会わすことになる。
どんな弟かな……?
期待と不安を巡らし、弟が戸を開けるのを待った。
廊下から近づいてくる足音、ケンイチの部屋の戸が開かれて、兄とは全然似つかない童顔が現れた。
あんまり似てないので、私は言葉を失ってしまった。
ケンイチの弟はケンイチとは三つ違いで中学生になったばかり。それで幼く見えたとしても、私にはまだ小学生でさらに低学年の顔が、体だけ大きくなったようなアンバランスのせいで、何も知らない純粋そうな印象を受けた。生き字引のようなケンイチとはまるっきり正反対である。
兄弟だから似てないとおかしいという訳ではない、そういうのもいる。
ただ、あんまりにも違うんで、
「お邪魔してます……」
私は変に緊張してしまい、余所余所しく挨拶する。ケンイチの弟はしばし私を見つめて、逃げた。
階段を駆け上がり、乱暴にドアを閉める音がした。
「おぉ? ヤツめ、俺の想像以上の反応を!」
大笑いするケンイチに、
「喜んでないで、私はどうしたらいいのよ!」
困惑する私。
それからも弟は物陰からこちらの様子を窺ったり、ケンイチの部屋を通る度に駆け足になったり、まるで初めて見た生き物に対してするような反応を見せていた。
ケンイチも弟の異様な反応に笑っていられなくなり、
「彼女連れてきたのがそんなに珍しかったかなぁ……?」
普段でも弟は無愛想で人見知りが激しい。だが、とても優しい弟で今日は変に緊張しているだけなのだと、私に懸命にフォローしていた。こんなに焦ったケンイチは初めて見た。
ケンイチの家は面白かったんだけど……弟が……。
それよりケンイチっておかしい。同じ高校一年生なのに、会話の内容は大人っぽい。それなのに、現れる表情は子供のようでころころと豊かに変わる。
やはり私はそんなケンイチが好きなのだろう。
秋
放課後。図書館に用事があった私は衝撃を受ける。ケンイチが本を読んでいたのだ。
今までに見たこともない表情。とても穏やかで彼の周りにある空間が止まっているかのような。ただ目だけが懸命に字を追っている。砂地が水を吸うように、彼の目が字を読み取っている風に見えた。でも、彼は砂地が泥に変わるほど、同じページを読み、次のページを捲るまで時間を掛けていた。
読むのが遅いはずはない。ケンイチはよく図書館に入り浸り、文庫程度の本は昼休み中に読みきってしまう。そしてその日の放課後に、その内容を嬉々として話すのだ。
私はそのいつもと違う読書法を、静かな表情で懸命に読む彼の姿と、その空間独特の雰囲気をじっと見入っていた。
チャイムが鳴る。
彼は天井を仰いでチャイムの音を確認した。時計を見ながら席を立つ。本を戻しに何処かへと消え、また別の本を持ってきてその本に付録された貸出カードに記入し終えると、私の方へとやって来る。
「待った?」
驚いた。
……私って、何度ケンイチに驚かされているんだろう?
「知ってたの?」
私はそのままの感想を口に出す。だって、こちらを見たような節はなかったし。
彼は微笑んで、
「うん」
「そんな素振りは無かったよ」
「図書館に近づく足音と、扉の開け方で解った。相葉のそれは覚えてるから」
そんなんで判別できるんだ……。ちょっと怖い気もするけど、嬉しいような……でもやっぱり変かな……?
ん……待って。
「知ってて、今までほっといたの?」
訊くとケンイチは苦い顔をして、
「実は入ってからどうしたのかが、よく分からなかったんだ。そのまま近づいてくれば声を掛けようと思ってたし、まさかドアを開けたままじっとしてるとは思わなかったんで、オレを確認してどっかに行ったかとばかり思ってたんだよ」
「じゃ、確認してくれてもいいじゃない?」
いつにもなく食い下がる私。私と解ってたのなら、本なんか読まずに見てほしかった。
「私があそこでじっとしていたのは、あなたを見ていただけじゃないのよ。ケンイチが止まっているような空間を破って、私の事に気付いてほしかった。本を閉じて私の元へ来て欲しかったのよ!」
なんで、こんなに怒鳴っているんだろう。なんでこんなに感情が吹き出すんだろう。
本に嫉妬? いや、違う。私の知ってるケンイチがあの時に消えていたのが、彼のまた新しい部分を発見して自分が離されていることを実感したのが嫌なんだ。
「解らないからってほっとかないでよ!」
嫌だ。こんな黒い気持ちは……ケンイチの前でこんな……こんな八つ当たりのような子供っぽい気持ちをぶつけるのは嫌だ!
「相葉?」
ケンイチの声を振り切って走る。下駄箱へ。
何で?
走る、外へ。
何故私は出ていくの?
訳の分からないまま飛び出そうと、
「!」
ギュッと腕が捕まった。駆け出そうとした足が勢い余って、倒れそうになる。
背中を優しく支える手。
「待ってよ!」
ケンイチは怯えているように瞳が揺れていて、それでいて優しい顔だった。
いつかケンイチが言った言葉を思い出す。
『オレは甘いんだ。優しくは無いと思う。例え家族が、相葉が盗みを働いても、オレを刺しても許すだろう。それは優しさじゃない。優しさは厳しさが一緒じゃなきゃ、そうじゃない……』
思い出した言葉を呟く私に、ケンイチは辛そうな顔をする。ケンイチはもう、何が言いたいか分かっている。
「ごめんよ」
胸が熱くなった。
「私は変なことを言って逃げたのよ? なんで優しい顔で捕まえるの? なんですぐに責めないの? 付き合うのがケンイチと初めてでも、これ位のことは分かる……」
顔も熱い。何もかもが熱くなっていく。
「私の心は変わった! ケンイチは変わらない! 何故なの!?」
涙が溢れる。熱くなった顔を冷まそうとしているはずなのに、その流れていく軌跡はもっと熱くなっている。
「私にとってケンイチは私の心をどんどん変えるほどの存在よ……ケンイチにとっての私は何なの……?」
うつむきそうになる。でも、ちゃんとケンイチの顔を見て言わなきゃ、最後まで。
「私はあなたと対等に付き合いたいの……だからあなたにも変わって欲しいの、好きだから……好きだから対等でいたいの!!」
私の叫びはケンイチの顔を曇らせ、去っていく私は、彼の心に傷を残しただけだった。
そして。
ケンイチは笑わなくなっていた。私が奪ったからだ。
必ず見かけるのは放課後の図書室。空間はもう止まってない。彼は普通に読むようになった。彼の不思議な読書も、空間を止める力も、私が奪った。
毎日の授業の合間に図書館と図書館の裏をチェックする。知らない人は必ずいて、ケンイチは必ずいなかった。
教室でも、彼はいなかった。本人は先生が来るまで教室におらず、何か避けられているようだった。
別れの言葉を言われるつもりだった。でも、自分から訊くこともできず、ただ、待った。
私とケンイチは終わらないまま、時が過ぎる。
冬
年が明けた。誕生日を過ぎても、中間テストを受けても、期末テストを受けても、去年を思い出すのはケンイチと一緒にいた時間だけ。
私が逃げて、今はケンイチが逃げて、二人は終わったんだ。
何もかもが幻のように思える。でも、ケンイチとの幻を消したのは、私なのだろう。
今はただ、時間が過ぎていくのを見つめることしかできない。
ほんとはね、しってたの。
けんいちはけんいちなりに、わたしをあいしてくれたこと。
でもね。
わたしにはけんいちとおなじぶんだけのあい。
もてなかった。
けんいちもてさぐりだったんだよね?
わたしとおなじようにふかいやみをかんじていた。
えー、青春物書き石崎京悟でございます。
ご意見・ご質問・ご要望などは、賛否かかわらずありがたく頂戴したいので、どしどしお寄せください。