V戦士インタビュー 吉野大吾
2月1日に春季キャンプがスタートするのでこのV戦士インタビューも今回でひとまず終了となる。そこで締めとしてイニング数、勝利数、防御率がチーム1と名実ともにエースとなった吉野大吾に話を聞いた。
インタビュアー(以下イ)「そろそろ春季キャンプがスタートしますが、昨年は見事な活躍でした」
吉野(以下吉)「ありがとうございます。でももう終わった事ですからね」
イ「オフはどのように過ごしていますか」
吉「インタビューやテレビ出演が多くて結構疲れましたね。あんまり向いていないので余計に。基本的にはオフという名前の通り最低限の運動をする以外は休んでいましたよ。今週末にはもう(キャンプ地である)沖縄に渡る予定です。焦らずじっくり調整していきたいですね」
イ「昨年は一気に殻を破った印象でしたがここまで活躍できた要因は何でしょうか」
吉「今までより他人の事を見られるようになった事ですかね。自分に対しても客観的に見ることが出来るようになった。もう30歳だし急激に力が伸びることはない。だから今のスペックの中から最大限に発揮するようにしなければいけない。それが出来るようになったのが一番」
イ「昨年は赤坂、松浦など新しい選手が多くローテーションに定着しました」
吉「先発はある程度なら多ければ多いほうがいい。自分としてもガンガン伸びていく選手たちがいい刺激になって、そういうピッチャーには負けられないとなった所はありましたから」
イ「まだまだエースは譲らないぞと」
吉「そうですね。最低でも後5年は譲る気はありません。大事なのは安定してチームに貢献し続けること。エースと呼ばれるからにはいい時だけでなく悪いときでも抑えるピッチングが出来ないといけないし、簡単なものではない。松浦や赤坂はいい素質を持っている。しかしこれからそれをフルに生かせるかはこれからの成長と心がけが大事」
吉野は野球どころである大阪の出身。小学生の頃からボーイズリーグで全国制覇を経験するなど将来を期待されていたが高校時代は怪我が重なる雌伏の時期を過ごした。しかし傷が癒えた大学で真価を発揮する。
イ「吉野選手が野球を始めたのはいつですか」
吉「あんまり正確な記憶はありませんが、この間実家でアルバム見たら2歳の時に小さなバットを持って構えてる写真を見つけました。それこそ物心ついたときには野球が好きでした」
イ「親が勧めたのですか」
吉「それもあるでしょうね。父は高校野球でかなりいいところまで行ったのですが怪我で現役を断念したので長男の僕に期待する部分はあったんでしょう。当時は地元という事で大阪のファンでした。特に(前大阪監督の)正弓選手が好きでした」
イ「ずっと野球をしてきたという事ですか」
吉「そうですね。小学生になる前の事を思い出そうとするとキャッチボールをしていた事ばかりが浮かぶぐらいです。とにかく僕をプロ野球選手にしようとずっと考えていたようなので」
イ「そして小学2年生の時、ボーイズリーグの名門である大阪南ボーイズに入部しました」
吉「その頃からずっと硬式球でしたね。何となくしみじみします」
イ「小学生の頃のポジションはどこでしたか」
吉「これはもうずっと投手でした。父がまず投手をやらせたというのもあるし、プロを目指すならまずは潰しのきく投手という考えだったようです」
イ「そして6年生の時に全国制覇を達成しました」
吉「この時はもう一人同級生に凄い投手がいたので僕は2番手でした」
イ「吉野選手より凄かったのですか」
吉「ええ、それはもう凄かったですよ。身長が頭ひとつ分ぐらい高くて、左投げからすごい威力のあるストレートを投げ込んでいました。あまりにボールに威力がありすぎるのでチームのバッティング練習の際に投げるなって事になって、大体僕がなげていました」
イ「その経験が今に通じるコントロールを磨いたという事は」
吉「ないですよ、多分。ただ彼の名前は竹下って言うんですけど、高校の時に投げすぎて肩が壊れてしまって投手を断念したんです。今もメールのやり取りをする仲で去年も色々励ましてくれたり、竹下なくして僕はここにいません。そういう意味では単なる親友以上のものはありますね、正直」
イ「吉野選手の高校時代はどうでしたか」
吉「僕も辛かったですね。中学まで同じボーイズリーグで、竹下は和泉紅南高校で僕は山口県の修王館高校に進学しましたが僕も怪我をしてしまって」
イ「その時は肘を痛めたと言われていますが」
吉「そうです。2年生の時に先発を任されるようになったんですがその頃に痛みも出るようになって。でも自分にとって今が一番大事と思って言わなかったんですがそれがまずかった。2年の夏は県大会の決勝戦で敗れましたが、この試合中はずっと痛みを我慢し続けていました」
イ「そして3年の時はほとんど投げられなかった」
吉「今思うとなんて判断をしてしまったんだろうと後悔しています。それでも監督が各地の大学の指導者に声をかけて下さったのでどうにか進学できた。とにかく大事なのは怪我をせず活躍し続ける事と悟ったのはこの時です」
イ「そして進んだ緑山大学では長谷部建(現チチハル)呂相民(現台北)とともにビッグ3と呼ばれるなど注目されました」
吉「肉体が育ちきって、後はそれをどう生かすかという段階に入ったのが大学時代ですね。1年生の時はまだ怪我の影響があったのですが、2年生からは出番も多くなって。投げるのが楽しかったですね。成長が実感できましたから」
イ「そしてプロでは大連に1位指名を受けました」
吉「プロならどこでも入団するつもりだったので1位指名はありがたかったですね」
イ「大連のイメージはどうでしたか」
吉「あの頃は飯島監督でしたから。明るいイメージがあっていいチームに入ったなという感じでした」
大きな期待をかけられての入団だったが、吉野はその期待に応えるようにプロでも順調に成長していく。2年目からはそれまでの天沼智久からエースの名称を譲り受けられるまでになった。しかしそれからは本当に苦しい時期だったと言う。
イ「プロでは1年目から6勝を上げました」
吉「シーズン途中に怪我をしてしまったのがマイナスで、駄目だったなあもっとしっかりやらないととばかり思っていました。ただ試合に出られたらボールは通用していたので来年こそはと燃えていましたね」
イ「その言葉通り、2年目には12勝を上げて一気にエースまで登りつめました」
吉「当時のエースが今はコーチの天沼さんでした。天沼さんも大学卒業から2年目でエースになった投手。経験豊富で自分の考えをしっかり持っているプロフェッショナルでした。現役時代は特に何かを教えてもらったという事はありませんでしたが、その存在自体がもうひとつの教材と言いますか、見習ったものはたくさんあります」
イ「2年目のオフにその天沼投手は現役を引退、それ以降は投手陣の柱と期待されます」
吉「当時は外国人のエスターリンという投手がいて、それと今は釜山にいる左の呉章広さんもいて、それと僕がローテーションを主に担っていました」
イ「その中で安定して規定投球回数に到達するタフさを見せました」
吉「そうは言うもののピッチングの内容はね。エースなら勝ち星にこだわって優勝をしたいとずっと思いながら投げていた。あの頃は大体こんなもんだろうと、悪い意味でビジネスライクなピッチングをしていましたから」
イ「しかし去年はそういった部分を感じられませんでした」
吉「よく変わったという事でしょう。今はいい投手が多いし、気を抜いたらすぐにローテーションから外れるぐらいの層の厚さがある。それがチームにとっては一番の武器となるところなので」
イ「大日本シリーズで投げる感触はどうでしたか」
吉「1戦目を任されるようになって高橋さんと勝負するようになるとは1年前の自分に言っても信じられなかったかも知れません。でもマウンドの上では自分を信じる事が一番大事だ、観客だけでなく野球ファン全員が自分を見つめているから恥ずかしいピッチングはできないと強気になって投げました」
イ「そして1勝1敗の成績を残しました」
吉「1勝はできたのでそこはいいです。次に出られたら1敗という忘れ物を取り戻したいですね。より完璧に、より高みに登りつめることはできるはずですから」
イ「では最後に、ファンに向けて一言お願いします」
吉「今季はタイトル獲得とチームの連覇に貢献する事、それだけを考えています。ファンの皆様を失望させないよう、最大限の事をしていきたいので応援をよろしくお願いします」