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大連監督列伝その1

初代監督 野神翼


 プロ入りしたのは30年代で、83年には60歳を超えていた大ベテラン。現役時代は埼玉や神戸で主に投手として大活躍したが、打者として何度も規定打席に到達した事があり「エースで4番」を地で行く存在だった。50年代前半に現役を引退。その実績から見て監督のポストが与えられても不思議ではなかったが、本人の謙虚な人柄ゆえかコーチや二軍監督としてここまで過ごしてきた。よって一軍監督は大連が本人にとっても初めてとなる。


 大連は元々社会人野球の強豪として多くの優秀な選手が集まっていた。現球団社長の森田正毅、後に監督となった飯島昇一や潔原勇仁、現在はコーチの小早敷俊悟といった面々である。これをベースに、前身の幸波大連に所属していたがドラフトで指名されて福岡で活躍していた潘一鶴が大連に復帰。そしてベテランの成木文彦や池水正和といった投手や、野神監督が二軍監督時代に目をつけていた立原幸治、佐藤啓一郎、成田豊といった選手、それに外国人のバーニー・ロイド投手とロイ・メルティング外野手などが加わった。


 1年目は準備の良さに加えてベテランの奮起、ヘッドコーチだった山野潔人と二人三脚によるチーム掌握の成功といった要素が加わり大陸カンファレンス初代王者に輝いた。しかし山野コーチは体調不良を理由に1年限りでユニフォームを脱ぎ、成木らベテランの衰えやロイドの退団といった理由も重なり2年目は2位となる。高齢の野神監督はこの年限りで「自分の役目は終わった」と勇退した。明治生まれらしい頑固一徹の指導でアマチュア社会人をプロ集団に脱皮させた功績は大きい。後に野球殿堂入りし、5年前に死去。


 投手で多く使われていたのは立原である。仙台の二軍監督時代、野神監督が一番買っていたのがこの立原だったが本人の練習嫌いがたたってなかなか伸びてこなかった。しかし環境を変えることで急激に成長し、1年目は19勝とまさにエースの働きを見せた。先発は立原、成木、ロイドに加えて若い大沢忠之がローテーションを担った。リリーフは池水を軸にサウスポーの温井文安、サイドスローの肥土政則といった選手が奮闘、そしてストッパーには切れのいいストレートを度胸よく投げ込む佐藤が抜擢された。


 野手は1番センターに俊足の成田だったが、足以外はそうでもないので1年目の終盤は7番打者に座る事も多かった。その場合はセカンド小早敷、ショート潔原のキーストンコンビがそのまま一二番に座った。これが後の10年間大連のスタンダードとなる。3番ライトメルティング、4番サード潘、5番レフト森田は非常にバランスが良い強力なクリーンナップだった。6番ファーストに長打のある飯島、そして8番キャッチャーには木村重安や王光満といった選手がついたが決定打に欠けた。


83年 1位/4

8成田

6潔原

9メルティング

5潘一鶴

7森田

3飯島

4小早敷

2木村

1立原


84年 2位/4

4小早敷

6潔原

9メルティング

5潘一鶴

7森田

3飯島

8高橋

2王光満

1立原




二代目 森沢清一


現役時代はパンチ力のあるサードとして神戸などで活躍。タイトルを取るほどの実力者ではなかったが曲者の雰囲気が全身から漂い、ここぞの場面で手痛い一撃を放つという対戦相手にとっては嫌なバッターだった。70年代の終わりに引退して解説者となっていたが、83年に大連の初代打撃コーチとして再びユニフォームを身にまとい、野神監督の後任監督に就任した。当時の年齢は40代前半と、60歳を越えていた野神監督から一気に若返った。


 指導自体は野神監督と同様に厳しいものだったが、本人の醸し出すつかみ所のないどこかユーモラスな雰囲気がそれを打ち消していた。しかし選手たちはよく鍛えられており、自分のやるべき仕事をきっちりこなす職人集団といったチームカラーを確立した。野神監督が連れてきた選手とはやや折り合いが悪かったか、初代エースの立原が1年で台南に移籍するなど多少のゴタゴタはあった。立原が去った後の86年から大陸カンファレンスは4球団制から6球団制になった。


 その86年は「大連史上最強の一発屋」と言われる中山鉄也が17勝(中山の現役通算勝利数は20勝)と大爆発。大沢や30歳と遅咲きの佐野正志らで先発ローテーションを構築した。またリリーフには張明欽が台頭した。張は今後10年チームの貴重なリリーフとしてフル回転する。野手では黄金ルーキーの松尾涼が3番センターに定着。また、森沢監督就任と同時に獲得したベテラン捕手の朝川竜郎が安定したリードで投手陣を支えた。ライトは俊足の高橋秀紀と巧打の永岡泰範が併用され、メルティングはレフトに回った。


 88年には同じようなメンバーで再び優勝する。リリーフエースの佐藤啓一郎が86年を境に故障が多発して主力から脱落したが張がその穴を埋めた。また、87年に入団したオリバー・ローレンスが安定したコントロールを武器に先発として活躍。野手ではファーストの飯島が衰えてきたが王良福が持ち前の長打力を発揮してスタメンとなった。89年と90年は連続で3位に終わると契約満了となり退団した。


85年 2位/4

4小早敷

6潔原

7メルティング

5潘一鶴

9ロジャース

3飯島

8高橋

2朝川

1大沢


86年 1位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

7メルティング

3王良福

9高橋

2朝川

1中山


87年 3位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

7メルティング

3王良福

9高橋

2朝川

1大沢


88年 1位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

3王良福

7メルティング

9永岡

2朝川

1ローレンス


89年 3位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

3王良福

7メルティング

9永岡

2周飛連

1大沢


90年 3位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

3王良福

7メルティング

9高橋

2程志門

1大沢




三代目 矢尾村国輝


 現役時代は仙台などで活躍。高い身体能力をベースにした華麗な守備は天才的と言われていた。しかし本来は野球に対してすべき努力を別の方向に向けてしまったので衰えが早かった。日本に所属球団がなくなった後は地球の裏側に行ってまで野球を続けるなど独自の道を進んだ。その後紆余曲折を経て大連の守備走塁コーチに就任。野神監督退任時にも監督候補と言われたが年下の森沢監督に先を越される。森沢監督退任後は順当に監督就任。


 投手陣は天沼智久、朴光星という若い先発が台頭。ベテラン大沢とともに三本柱を形成した。リリーフは当時21歳の国本剛秀を抜擢、国本は持ち前のストレートと縦に割れるスライダーを武器に磐石のストッパーとして矢尾村監督を支えた。捕手は森沢監督時代後半からポスト朝川が叫ばれてきたが、矢尾村体制では若くて強肩で打撃もいい程志門が重用された。正捕手候補だった周飛連は打撃力を生かしてファーストにコンバートされ、なかなかの活躍を見せた。


 野手に関して、矢尾村監督が熱心に取り組んだのは林葉輔の育成であった。その甲斐あって林はライトに定着。今でも不動のレギュラーとして活躍している。衰えたメルティングの後継者として確実性は劣るが驚異的なパワーを誇るウォルター・ディクソンを獲得。評判通りの長打力で得点源となった。また、優勝した93年には総合力に優れたアダム・ハーバートがベテラン潘に代わってサードに定着した。翌年、30歳になる松尾をレフトにコンバートしてセンターには俊足の三浦修吾を置いた。ディクソンはファーストにコンバート。


 矢尾村監督体制は5年続いた。最終年となる95年は3位だったが、間を置かずにその年4位だった同一カンファレンスである光州の監督に就任した。その際、ベテランの大沢とハーバートを連れて行ったので一部では騒ぎになった。光州は矢尾村監督の下で最大の黄金時代を迎える一方、大連は苦難の道を歩む。このような結果や、二遊間の整備がなされなかった事から非難する声もある。しかし常に波乱万丈の人生を歩んできただけにここぞの場面での采配の冴えは驚異的だった。林や三浦の育成にも成功し、実績に関しては文句の言いようがない。


91年 2位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

5潘一鶴

7ディクソン

3王良福

9永岡

2程志門

1天沼


92年 2位/6

4小早敷

6潔原

8松尾

7ディクソン

9林

5潘一鶴

3周飛連

2程志門

1大沢


93年 1位/6

4小早敷

6潔原

9林

8松尾

7ディクソン

5ハーバート

3周飛連

2程志門

1天沼


94年 3位/6

4小早敷

6潔原

9林

7松尾

3ディクソン

5ハーバート

8三浦

2程志門

1朴光星


95年 3位/6

8三浦

4小早敷

7松尾

9林

3ディクソン

5ハーバート

2程志門

6潔原

1天沼




四代目 松山誠人


 現役時代は横浜などで活躍。高い打撃力とセカンドやキャッチャーもこなす器用な守備力を併せ持った実力者だったがそれ以上に打つ選手がリーグ内にいたためにタイトルはおろかベストナインやゴールデングラブ賞といった表彰にも届かなかった不運な選手。一塁守備に関しては当代一の誉れが高かったが記者投票では相手が悪かった。現役引退後は横浜、東京のコーチなどを経て大連の監督に就任した。


 就任時のチーム状況は大沢とハーバートが矢尾村監督とともに移籍、ディクソンや小早敷に衰えが見られ潘一鶴、潔原、高橋と初期を知るベテランが引退と世代交代の時期に入っていた。そこで松山監督は意欲的にチームの改革を進めた。その目玉となったのはストッパー国本の先発転向であったが、それまでの疲労がたまっていた国本が故障してしまう。また新外国人のグレッグ・ベイリーは奪三振王に輝くも援護に恵まれず7勝12敗、朴が不調で4勝11敗など苦しい舵取りを迫られた。捕手は程の打撃力が落ちてきた事でそれまではあまり問題視されなかった不安定なリードという弱点が浮かび上がってきた。


 野手も誤算が相次いだ。チームの中心打者である松尾が開幕直後に足を痛めて離脱し、シーズンを棒に振る。サードの新外国人ジョージ・ナイルは打撃に穴が多く安定感なし、ショートも守備の浜岡直利と打撃の李慶智が併用されたがどちらも決め手に欠けた。ファーストのディクソンは急激に衰えて戦力にならず、すでに代打メインとなっていた王や周のスタメン起用を増やさざるを得なかった。1番の三浦と4番の林以外はかなり流動的な打順となり、シーズン終了までこれといった形が出来なかった。結局この96年、チームは初の最下位に沈む。


 翌年、ディクソンの解雇とフットワークが低下した小早敷のサードコンバートによって空いたファーストにはマイク・バイス、セカンドにはマテオ・クインを獲得した。バイスは低打率で期待外れだったがクインはクラッチヒッターぶりを見せて大連に欠かせない戦力となる。さらに松尾も復帰。しかし開幕投手を任されたベイリーは慣れられたか2勝10敗と低迷、朴や程も相変わらず煮え切らない成績で5位に終わる。この年限りで松山監督は「大連史上最悪の監督」という屈辱的な汚名とともに退場していった。


 松山監督にとっては時期と運が悪かった。当時特に叩かれた国本の先発転向は次の成木監督が引き継ぎ成功させた。また、リリーフ陣に田斗錫、広井良友、城下淳之といった新風を吹き込んだ。二遊間の世代交代に関してはそれまでがあまりにも手付かずだった中で潔原引退など厳しい面はあった。順位を見ると最悪と言われても仕方がないかも知れない。しかし松山監督のまいた種は次の成木監督時代に花を咲かせた。


96年 6位/6

8三浦

7楊光成

4小早敷

9林

5ナイル

2程志門

3周飛連

6浜岡

1ベイリー


97年 5位/6

8三浦

6李慶智

3松尾

9林

4クイン

5小早敷

3バイス

2程志門

1天沼

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