V戦士インタビュー 比山仁
延長戦がなくなった今季、大連の9回を守り抜いたのが比山仁であった。潜在能力は認められながらもこれまで発揮できずにいた彼だが、ついに覚醒してチームの東洋一に大きく貢献した。活躍の秘訣は何だったのか。
インタビュアー(以下イ)「東洋一おめでとうございます。今季は大活躍でした」
比山仁(以下比)「ありがとうございます」
イ「まず、今季抑えの切り札としてチームになくてはならない存在となりましたが、今年を振り返ってどうでしたか」
比「その時その時は辛かったり苦しかったりはあったはずですけど、今となってはあっという間に過ぎ去った感じですね」
イ「それだけ充実していたという事でしょうか」
比「そうですね。今季は結果が出たのが良かったですね。監督からは『9回は何があってもお前だ』と言われて、それで今まで以上に燃えたというか、力を引き出してもらいました。」
イ「確かに、抑えとしてセーブを積み重ねるごとにピッチングが良くなっているように見えました」
比「やはりバッターを抑えると楽しいですし、セーブがつくのもそう。ピンチでも今までは『ここで打たれたらどうしよう』でしたが『何としても抑えてやる』と強気に考えられるようになりました」
イ「最終的には36セーブを積み重ねたわけですが、この数字についてはどう思いますか」
比「まあ満足しています。ただ今年は割とずっといい調子だったのでこの数字を残せたという部分もあるはずです。来季以降もこの36セーブを目標にしたいですが、それには悪いなりに抑えられるようにならないといけない。まだまだ伸ばせる場所は多いと思います」
比山は熊本県出身。野球が盛んなことで知られる土地でおおらかに育った。子供の頃は運動神経がよくスポーツなら何でも得意な明るく活発な子供だったという。
イ「比山選手の球歴について伺います。比山選手が野球を始めたのはいつ頃でしょうか」
比「確か10歳の頃です。最初はサッカーをしていたんですけど、練習するグラウンドが隣の小学校で遠かったので、自分の小学校にある野球部に入ったのが小4でした」
イ「ポジションはどこでしたか」
比「1年目は控えで、5年生で外野手になって、6年生で内野手でショートがメインになりました」
イ「ピッチャーはやらなかったのですか」
比「小学生の頃は身長が低かったので。あ、でも少しは投げたかも。まあメインは内野で、ピッチャーはほとんど記憶がありません。中学に入ると身長が伸びてきたのでピッチャーがメインになりました。3年で30cmは伸びましたね」
イ「中学時代はどのようなピッチャーでしたか」
比「それまで投手したことがなかったので変化球は投げられませんでしたが結構抑えられましたね」
イ「それはやはり比山投手の天性の野球勘ということでしょうか」
比「そう言われると凄いみたいですね(笑)。でもまあそういうことだったのかも知れません。中学校で野球部の顧問だった月田先生がOBという事で熊本南高校に進学しました」
熊本南高校は熊本県でも屈指の野球名門高校として知られている。この恵まれた環境で本格的な指導を受けた比山はおおいに成長し、九州でも屈指の本格派投手としてプロのスカウトたちからの熱い視線を集める事になる。
イ「高校時代はどのように過ごしていましたか」
比「ずっと野球野球でした。同級生には大阪から野球をするためだけに来たという部員もいましたし、僕は地元出身だけどそういう別のところから来た部員には負けないようにとずっと思って頑張りました。基本的にのんきな性格でしたが、とにかく高校時代はずっと燃えていたような記憶があります」
イ「そして187cmの長身から繰り出す最速148キロのストレートが武器の大型右腕として注目されるようになりました」
比「プロのスカウトがグラウンドに来たことはありました。しかし正直に言いますと高校の段階でプロはまだ早いと思っていました。技術が全然足りていませんでしたから。まず変化球がほとんどない。それにコントロールも酷いものだったし、プロに入っても通用するレベルには遠かった」
イ「それで大学進学を決意したのですね」
比「ええ。色々な大学から声がかかりましたが関西体育大学に決めたのは、OBの宇多利通さん(37 現安東)にあこがれたからでした。当時は福岡のエースで何度か試合を見に行きましたが、僕が見た試合はいつも完封か1失点ぐらいのピッチングで『これがエースなんだ』と思いました。常に結果を残すのがエースなんだろうと考えていますから、理想はあの宇多さんです」
イ「大学では1年生の時に怪我をしたもののその後復帰し、3年春のシーズンにはリーグ最優秀選手に選出されるなどまた一段と大きく成長しました」
比「怪我したときは焦りました。でも大島準監督が『まだ3年あるから絶対に焦るな』と言ってくれて。とにかく怪我してからは体幹を鍛えました。この時にしっかりと体の基礎を固めたお陰で今年も持ったんだと思います。公式戦初登板は2年の秋でしたが、今までより軽く投げたはずが威力は増していて効果を実感しました。それに変化球もこの頃にようやくものにしました。今投げているフォークも大島監督から教わったものですし」
イ「そしてドラフトでは大連の3位指名でした」
比「僕の場合4年生の時に少し肘を痛めたのでアピールする期間が短かった。でもとにかく指名されればいいと考えていましたから。どこじゃないととか順位のこだわりはありませんでした。むしろ3位は予想以上に高かったぐらいです」
本格派として期待された比山だがプロでは伸び悩んだ。ブルペンでは抜群のボールを投げるのにマウンドに立つと緊張のあまり普段の実力を発揮できず炎上を繰り返して3年が過ぎた。しかし劉監督はそんな比山に抑えの重責を担わせた。
イ「プロに入ってからはどうでしたか」
比「1年目の春季キャンプでは一軍スタートでしたがまったくついていけませんでした。テレビで見た選手たちが今目の前にいるなんて思って、完全に飲まれていた。で、張り切りすぎて故障して、4月まで復帰できませんでした」
イ「しかし復帰後、二軍戦では防御率1点台と実力を見せ、一軍での登板も経験しました。」
比「一軍初登板は覚えていません。緊張だけで全てが終わった。結果は酷かったですが(1回を3失点)何を投げて誰に打たれたとかもビデオを見て初めて知ったぐらいでしたから」
イ「昨年までなかなか台頭できなかったのは精神的な面によるものが多いのでしょうか」
比「そうですね。自分にプレッシャーをかけすぎていたというか、完璧な結果を求めすぎていたんだと思います。四球を与えてはいけないのは当然ですよで。でも出てしまう時は出るものですから。去年までは四球を出したらその事について考えすぎてしまい、崩れる事が多かった」
イ「しかし今年はそういった場面もほとんどありませんでした。精神的な壁をどのように克服したのでしょう」
比「まずポジションが固まったのが自分にとってはやりやすかったですね。当初は先発かリリーフかわからなかった。調整の仕方が違うのでちょっと混乱した部分もあった。でも劉監督は後ろでとまず決めた。それで調整が楽になったのはあります。それと今年は自分が抑えをするにとって楽なルールでした」
イ「それはどういう事でしょうか」
比「今年は延長戦がなくなったので9回は一番最後でしょう。自分が打たれたらその時点で終わり。僕の場合はそれでようやく開き直れた。内容よりもセーブという結果が大事なんだと。それに先発から小松原さんや野藤さんやみんながつないで最後を任せるというポジションなので、責任感がありますよ。チームの勝敗は自分のピッチングにかかっているんですから。去年まで抑えの西坂(有司 31 現京城)さんがいなくなって、もう逃げ場はない、自分がやるしかないと」
イ「最後に、来季に向けて一言お願いします」
比「今年は自分にとってもチームにとっても最高の結果を残す事が出来ました。まずはそれを続ける事。個人の目標としては、やはりタイトルはほしいですね。岩辺(仁志 名古屋)さんや辻川(久児 大阪)さんのような長く活躍できる抑えになれればと思っています。ファンの皆様には、今年も勇気付けられました。皆様の声援あってのプロ野球選手なので、来年からも球場での声援をお願いします」