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恋愛

教室

作者: 三田智
掲載日:2026/11/02


高校二年の春、彼女は僕の前の席になった。


彼女はいつも元気だった。授業中もよく笑い、休み時間には友達と廊下を走り回っている。先生に注意されても「はーい」と返事だけは立派で、五分後にはまた笑っていた。


僕は正反対だった。


成績はいつも上位。委員長を任されることも多く、先生からの信頼も厚い。人前でふざけることはほとんどなかった。


だから、最初は彼女のことを少し苦手だと思っていた。


「ねえ、ノート見せて」


ある日の放課後、彼女が僕の机にやってきた。


「授業中、寝てただろ」


「寝てない。目を閉じて考えてただけ」


「何を?」


「今日の晩ごはん」


思わず笑ってしまった。


それが、彼女と初めてまともに話した日だった。


それから彼女は、何かと僕に話しかけるようになった。


テスト前には勉強を教えた。彼女は数学が苦手で、同じ問題を三回説明しても理解できないことがあった。


「なんでここでマイナスになるの?」


「さっき説明しただろ」


「もう一回!」


「今度こそ最後だからな」


そう言いながら、結局何度でも教えた。


その代わり、彼女は僕を昼休みに連れ出した。


購買の焼きそばパンを買うために走らされたり、校庭でバレーボールをしたり、文化祭の準備では勝手に僕の顔に絵の具をつけたりした。


「委員長、笑ってよ。人生つまんないでしょ」


「君ほど忙しくないだけだよ」


「じゃあ、私が楽しくしてあげる」


彼女はそう言って、いつも笑った。


気づけば、僕は彼女が教室にいるかどうかを確かめるようになっていた。


朝、教室に入ると彼女の声を探した。


彼女が休んだ日は、なんとなく一日が長かった。


でも、好きだとは言えなかった。


彼女も同じだったのかもしれない。


僕が誰かと話していると、彼女は少しだけ不機嫌になった。僕がテストで満点を取ると、自分のことのように喜んでくれた。


けれど、二人とも肝心なことだけは口にしなかった。


夏休み前、クラスで花火大会に行くことになった。


帰り道、みんなから少し遅れて、僕と彼女は二人で歩いていた。


「ねえ、もし私がいなくなったら寂しい?」


突然、彼女が聞いた。


「どうして?」


「なんとなく」


「まあ、ノートを見せる相手がいなくなるから困るかな」


「ひどい!」


彼女は笑った。


僕も笑った。


あのとき、どうして本当のことを言わなかったのだろう。


夏休みが終わる頃、彼女が転校することを知った。


父親の仕事の都合で、遠くの町へ引っ越すらしい。


その話を聞いたとき、僕は何も言えなかった。


「来月の終わりには行くんだって」


彼女はいつもと同じ調子で話した。


「そっか」


僕の返事は、それだけだった。


彼女は少しだけ僕の顔を見て、それから笑った。


「泣かないでよ。まだ一か月あるんだから」


「泣いてないよ」


「顔が泣きそう」


その日から、僕たちの一か月は、少しだけ特別になった。


最後の文化祭では、二人でクラスの出し物を担当した。


彼女は接客係で、僕は会計係。


彼女は僕の名前を勝手に看板に書き、「本日のイケメン会計」と紹介して、クラス中を笑わせた。


打ち上げでは、みんなで写真を撮った。


彼女は僕の隣に立ち、肩を寄せてきた。


「これ、絶対消さないでね」


「消すわけないだろ」


「約束ね」


彼女は小指を差し出した。


僕たちは子どもみたいに指切りをした。


そして、最後の日。


彼女の机には、もう何もなかった。


いつも置いてあったペンケースも、教科書も、落書きだらけのノートも。


彼女は最後まで明るかった。


クラスのみんなに手を振り、先生に挨拶し、友達と写真を撮った。


僕は少し離れたところから、それを見ていた。


帰り際、彼女が僕のところへ来た。


「ねえ、これ」


差し出されたのは、一枚の小さな紙だった。


開くと、そこには僕の名前と、短い文章が書いてあった。


『いつも勉強を教えてくれてありがとう。

一緒にいると、学校がすごく楽しかった。

本当は、もっと一緒にいたかったよ。』


最後の一行だけ、少し文字が震えていた。


「じゃあね」


彼女は笑った。


僕は何か言わなければと思った。


ずっと言いたかった言葉があった。


好きだと。

行かないでほしいと。

もっと一緒にいたいと。


でも、喉の奥で言葉が止まった。


「元気でね」


結局、それしか言えなかった。


彼女は一度だけうなずいて、教室を出ていった。


廊下の向こうに消えていく背中を、僕はずっと見ていた。


その日の帰り、彼女のいない教室に一人で残った。


前の席には、もう誰もいない。


机の端には、彼女がいつも描いていた小さな星の落書きが残っていた。


僕は初めて、彼女のいない明日が来ることを悲しいと思った。


それから何年かが過ぎた。


僕たちは何度かメッセージを交わした。誕生日にはおめでとうと送り合い、たまに近況を報告した。


でも、あの頃のように毎日話すことはなくなった。


ある日、久しぶりに彼女のSNSを見つけた。


そこには、見知らぬ町で笑っている彼女の写真があった。


相変わらず元気そうだった。


僕は写真を見ながら、あの日の教室を思い出した。


そして、あの小さな紙を引き出しから取り出した。


何年経っても、そこにはあの日の文字が残っていた。


『本当は、もっと一緒にいたかったよ。』


僕は小さく笑って、ようやく気づいた。


彼女も、僕と同じ気持ちだったのだ。


もし、あの日に戻れるなら。


もう一度、彼女に数学を教えたい。


焼きそばパンを買いに走りたい。


くだらないことで笑い合いたい。


そして、今度こそ伝えたい。


「僕も、君ともっと一緒にいたかった」


窓の外では、春の風が吹いていた。


あの頃の僕たちは、まだ知らなかった。


好きという気持ちは、伝えなければ消えてしまうこともある。


そして、何気ない毎日こそが、あとになって一番戻りたくなる時間になることも。


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