教室
高校二年の春、彼女は僕の前の席になった。
彼女はいつも元気だった。授業中もよく笑い、休み時間には友達と廊下を走り回っている。先生に注意されても「はーい」と返事だけは立派で、五分後にはまた笑っていた。
僕は正反対だった。
成績はいつも上位。委員長を任されることも多く、先生からの信頼も厚い。人前でふざけることはほとんどなかった。
だから、最初は彼女のことを少し苦手だと思っていた。
「ねえ、ノート見せて」
ある日の放課後、彼女が僕の机にやってきた。
「授業中、寝てただろ」
「寝てない。目を閉じて考えてただけ」
「何を?」
「今日の晩ごはん」
思わず笑ってしまった。
それが、彼女と初めてまともに話した日だった。
それから彼女は、何かと僕に話しかけるようになった。
テスト前には勉強を教えた。彼女は数学が苦手で、同じ問題を三回説明しても理解できないことがあった。
「なんでここでマイナスになるの?」
「さっき説明しただろ」
「もう一回!」
「今度こそ最後だからな」
そう言いながら、結局何度でも教えた。
その代わり、彼女は僕を昼休みに連れ出した。
購買の焼きそばパンを買うために走らされたり、校庭でバレーボールをしたり、文化祭の準備では勝手に僕の顔に絵の具をつけたりした。
「委員長、笑ってよ。人生つまんないでしょ」
「君ほど忙しくないだけだよ」
「じゃあ、私が楽しくしてあげる」
彼女はそう言って、いつも笑った。
気づけば、僕は彼女が教室にいるかどうかを確かめるようになっていた。
朝、教室に入ると彼女の声を探した。
彼女が休んだ日は、なんとなく一日が長かった。
でも、好きだとは言えなかった。
彼女も同じだったのかもしれない。
僕が誰かと話していると、彼女は少しだけ不機嫌になった。僕がテストで満点を取ると、自分のことのように喜んでくれた。
けれど、二人とも肝心なことだけは口にしなかった。
夏休み前、クラスで花火大会に行くことになった。
帰り道、みんなから少し遅れて、僕と彼女は二人で歩いていた。
「ねえ、もし私がいなくなったら寂しい?」
突然、彼女が聞いた。
「どうして?」
「なんとなく」
「まあ、ノートを見せる相手がいなくなるから困るかな」
「ひどい!」
彼女は笑った。
僕も笑った。
あのとき、どうして本当のことを言わなかったのだろう。
夏休みが終わる頃、彼女が転校することを知った。
父親の仕事の都合で、遠くの町へ引っ越すらしい。
その話を聞いたとき、僕は何も言えなかった。
「来月の終わりには行くんだって」
彼女はいつもと同じ調子で話した。
「そっか」
僕の返事は、それだけだった。
彼女は少しだけ僕の顔を見て、それから笑った。
「泣かないでよ。まだ一か月あるんだから」
「泣いてないよ」
「顔が泣きそう」
その日から、僕たちの一か月は、少しだけ特別になった。
最後の文化祭では、二人でクラスの出し物を担当した。
彼女は接客係で、僕は会計係。
彼女は僕の名前を勝手に看板に書き、「本日のイケメン会計」と紹介して、クラス中を笑わせた。
打ち上げでは、みんなで写真を撮った。
彼女は僕の隣に立ち、肩を寄せてきた。
「これ、絶対消さないでね」
「消すわけないだろ」
「約束ね」
彼女は小指を差し出した。
僕たちは子どもみたいに指切りをした。
そして、最後の日。
彼女の机には、もう何もなかった。
いつも置いてあったペンケースも、教科書も、落書きだらけのノートも。
彼女は最後まで明るかった。
クラスのみんなに手を振り、先生に挨拶し、友達と写真を撮った。
僕は少し離れたところから、それを見ていた。
帰り際、彼女が僕のところへ来た。
「ねえ、これ」
差し出されたのは、一枚の小さな紙だった。
開くと、そこには僕の名前と、短い文章が書いてあった。
『いつも勉強を教えてくれてありがとう。
一緒にいると、学校がすごく楽しかった。
本当は、もっと一緒にいたかったよ。』
最後の一行だけ、少し文字が震えていた。
「じゃあね」
彼女は笑った。
僕は何か言わなければと思った。
ずっと言いたかった言葉があった。
好きだと。
行かないでほしいと。
もっと一緒にいたいと。
でも、喉の奥で言葉が止まった。
「元気でね」
結局、それしか言えなかった。
彼女は一度だけうなずいて、教室を出ていった。
廊下の向こうに消えていく背中を、僕はずっと見ていた。
その日の帰り、彼女のいない教室に一人で残った。
前の席には、もう誰もいない。
机の端には、彼女がいつも描いていた小さな星の落書きが残っていた。
僕は初めて、彼女のいない明日が来ることを悲しいと思った。
それから何年かが過ぎた。
僕たちは何度かメッセージを交わした。誕生日にはおめでとうと送り合い、たまに近況を報告した。
でも、あの頃のように毎日話すことはなくなった。
ある日、久しぶりに彼女のSNSを見つけた。
そこには、見知らぬ町で笑っている彼女の写真があった。
相変わらず元気そうだった。
僕は写真を見ながら、あの日の教室を思い出した。
そして、あの小さな紙を引き出しから取り出した。
何年経っても、そこにはあの日の文字が残っていた。
『本当は、もっと一緒にいたかったよ。』
僕は小さく笑って、ようやく気づいた。
彼女も、僕と同じ気持ちだったのだ。
もし、あの日に戻れるなら。
もう一度、彼女に数学を教えたい。
焼きそばパンを買いに走りたい。
くだらないことで笑い合いたい。
そして、今度こそ伝えたい。
「僕も、君ともっと一緒にいたかった」
窓の外では、春の風が吹いていた。
あの頃の僕たちは、まだ知らなかった。
好きという気持ちは、伝えなければ消えてしまうこともある。
そして、何気ない毎日こそが、あとになって一番戻りたくなる時間になることも。




