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愛する作家の殺し方

作者: 斑鳩睡蓮
掲載日:2026/05/31

 この屋敷の中に犯人はいない。

 探偵はそう言った。


 ***


 雪が降っている。一月末の森は葉の代わりに雪をつけて白くなっていた。銀世界がどこまでも続き、果ては灰色の雲に霞む。分厚い雲の向こう側で陽が落ちたのか、ゆっくりと窓越しの景色は暗くなっていく。


 三谷啓介(けいすけ)は屋敷の玄関で窓を覗き、呼び鈴が鳴るのを待っていた。次で最後の客だ、と思っていたら、ノックの音がした。扉の向こう側に男が立っている。白い呼び鈴のボタンは雪に紛れて見つからなかったようだった。


「お邪魔します。いやはや、無事に小野田先生のお宅に着けてよかったですよ。六時くらいから大雪の予報だったんで」


 肩に雪を積もらせた男が肩を竦める。丸眼鏡は曇り、濡れた前髪が額にぺったりと張りついていた。男のコートをハンガーに掛けつつ、啓介は玄関に掛けられた時計をちらりと見た。時刻は午後五時四十八分。


「ぎりぎりでしたね。やはり、パーティーの開始時間を早めて正解でした。さあ、会場にご案内いたします」


 男は人好きのする笑みを浮かべた。


「もしかして、僕が最後でしたか」


「ええ。あなたが最後です、堀川(めぐる)さま。なぜお分かりに?」


「玄関にはもう人がいないですし、あなたが──ええっと」


「三谷です」


「そう、三谷さんが躊躇いなく玄関を動かれたので、もう誰も来る予定がないのかなと」


 眉を動かした啓介の顔が廻の丸眼鏡に映りこむ。


「まるで探偵ですね、中泉探偵みたいな」


 小野田修一の著作に出てくる探偵の名を出すと、廻が飛び上がった。


「そんな! とんでもないです! 僕なんて、ただの先生のファンなだけですよ。今日のデビュー三十周年パーティーに呼んでいただけたのも、未だに信じられないくらいで……。ああ、そうだ。ちゃんと『離島の古城』の初版を持ってきました。先生のデビュー作にサインをいただきたくて。今まで誰にも姿を見せなかった先生から、直接サインをいただけるチャンスなんて、もう二度と来ないかもしれませんからね!」


 会場に案内する道すがら、廻は早口で喋りつづけている。啓介も彼が小野田修一の熱心なファンであることは知っていた。新刊が出るたびに長文の手紙をわざわざ送ってくるほどのファンを忘れるわけがない。そしてだからこそ、啓介は一読者にすぎない彼をパーティーに招いたのだ。


「──五年前の『アズールの秘蹟』から作風が変わったなあとは思うんですが、今の作風も僕は好きで、最新刊の『原罪』は書評家からは不評だったらしいですけど新鮮で──」


「着きましたよ」


 啓介の言葉が終わりのない廻の話を断ち切る。廻はようやっと一人で喋りすぎたことに気がついたらしく、口を押さえて赤面した。


「す、すみません。つい、その、憧れの作家と会えると思うと興奮してしまって、その」


「はい、分かっておりますよ。そのお気持ちを小野田に伝えてやってください。彼も喜ぶと思います」


 微笑みかけ、啓介は広間の扉を開けて廻を中に通した。きらびやかに飾り付けられた広間では、五十人ほどの客が談笑している。小野田修一と縁のある人々だ。歴代の担当編集、作家、映画監督、音楽家まで様々な業界から集っている。ベストセラー作家である小野田修一の人気ぶりを思えば、パーティーの規模は小さすぎるくらいだった。殿上人の中に放りこまれた廻は分かりやすく緊張しており、覚束ない足取りで会場を彷徨っていた。


 啓介は壁際を通り、壇上に登った。人のざわめきが止む頃を見計らい、マイクに向かって声を入れる。


「本日はみなさま、作家小野田修一のデビュー三十周年記念パーティーにお越しいただき、まことにありがとうございます。私は小野田修一の秘書をしております、三谷啓介と申します。小野田が登壇するまで、しばしご歓談してお待ちいただければと思います」


 パーティー開始直後に小野田に挨拶をしてもらう予定だったが、まだ姿が見えないのだ。啓介は会場に漂う不満げな空気を感じつつも、顔色は変えないように努めた。壇上から降りて、料理を会場に運びこませる。


「三谷さん、小野田先生はまだいらっしゃらないので?」


 かつての担当編集、山田晴美だ。彼女は小野田修一の顔を見たことがない。秘書である啓介の顔しか知らないのだが、それはこの場にいる全員が同じだった。業界人ではない堀川廻だけは啓介の顔も知らなかったのだけれど。


「そうみたいです。実は先ほどから連絡が取れなくて……」


「先生はどちらに行かれたんでしょうか。こんなに雪が降っているのに」


「少し外に出て行くと言われたきりで、私も分からなくて。ですが、さすがにもう遅すぎますし、外を見てこようかと思っております」


「危険ですよ、三谷さん。今、外は吹雪いてるみたいです」


 携帯電話の画面を見せながら廻がやってくる。画面上では白い風が荒れ狂っているニュース動画が表示されていた。


「……では、先生は吹雪の中に?」


 晴美の声が震えた。


「まさかそんな。……一度先生の部屋を見てみます。もしかしたら帰っているかもしれませんし」


 啓介は慌てて広間を後にした。なぜか廻がついてくるが、構っている余裕はない。二階の奥、南側の部屋へ駆けこむ。


「先生!」


 左右の壁が書棚になった書斎だ。窓には分厚い遮光カーテンが引かれ、窓際にはデスクトップ型のコンピュータが置かれている机がある。机の上は綺麗に片づけられているのに、埃がうっすらと積もっていた。がらんとした部屋には誰もいない。


 しかし、隣の寝室にそれはあった。


「……え」


 部屋の明かりを点けた瞬間、間抜けな音が唇からこぼれおちる。


 ベッドが赤い。赤い飛沫は白い壁にも飛んでいて、ペンキの入ったバケツをぶちまけたようだった。まだ乾いていない液体はシーツを伝ってぽたぽたと床を濡らしていく。


「入らせてもらいますね」


 廻が硬直している啓介の横を通り過ぎる。


「……血、みたいです」


 廻の言葉で漂っていた鉄錆の匂いが強くなったような錯覚がした。もしも、この血が小野田修一のものだったとしたら、きっと今彼は生きていないはずだ。あまりにも出血が多すぎる。


「で、でも、身体がありません」


「そう、ですね。誰かが移動させたんでしょうか」


 啓介は思わず肩を震わせた。部屋が寒い。見れば、窓が僅かに開いたままになっている。その隙間から室内に雪が入りこんでいたのだった。


「三谷さん、窓は閉めないほうがいいんじゃないかと思います」


「え?」


「殺人事件かもしれないからですよ」


 廻の丸眼鏡が不気味に光を跳ね返していた。




 しんしんと降り続ける雪の中を車がやってくる。吹雪は和らいだものの、ワイパーがいまいち役に立たずにフロントガラスの雪を撫でていた。車が止まった振動で、車体の上のランプにまとわりついた雪が滑り落ちた。車を降りて、寒そうに肩を縮こめて走ってくる人影はふたつ。


「どうも、夜分遅くに失礼します。私は捜査一課の刑事で山本と言います。こちらは部下の後藤です」


「後藤です、どうも」


 白くなったコートを玄関口で脱ぎ、二人はスーツ姿になった。中肉中背で刑事というには柔らかな顔つきの男が山本、頭をスポーツ刈りにした背の高い若い男が後藤だ。啓介は二人のコートを玄関のコート掛けに並べながら、緊張に騒ぐ心臓を落ち着けようとぎこちない呼吸をしていた。


「堀川君、久しぶりだなあ」


 山本が笑顔で廻の肩を叩く。廻は照れ臭そうに丸眼鏡を押し上げた。


「お久しぶりです、山本さん、後藤さん。今回もお世話になります」


「いやあ、お世話になるのはこちらの方だ。君にはいつも助けられてばかりだよ」


 困惑して固まっていると、後藤が啓介に声を掛けてきた。


「堀川君はアレなんですよ」


「アレ、とは?」


 後藤は格好をつけてウインクをして見せる。


「名探偵、というやつなんです」


 思わず廻の顔を凝視した。


「ん? 三谷さん、どうかしました?」


 にへらと無防備に笑う彼が、小説なんかに出てくるような"名探偵"だとはにわかに信じられなかった。


「──なるほど、死体はまだ見つかっていない、と。それで、パーティーに出席している客人たちは会場にね。小野田さんが殺されたかもしれないという話はもうしました?」


「いえ、ですが、小野田の行方が分からないという話はしてあります」


 手短に事情を話しながら寝室を経由して会場に向かった。目立った血痕が寝台とそのすぐ側の壁にのみ付着していることだけが気になる、とだけ言って、山本たちはさっさと部屋を出ていったのだ。


「血はまだ新しかったので、たぶん犯人はこの中にいるってやつですよね」


 後藤は何気なく言うのだが、啓介は青ざめた。


「……後藤さん、怖いことを言わないでください。お客さまを疑いたくもありませんし」


 廻は眉を寄せたが、何も言わなかった。代わりに山本が返答をする。


「そうは言っても殺人事件かもしれないとなると、お客人に事情聴取はしなきゃならんのですよ」


 言い分はもっともで、反論のしようもない。これは、殺人事件なのだ。警察を呼んだときには覚悟をしていたはずが、認識の甘さを今更ながら突き付けられる。


「たしかに、そうですよね……。わかりました、まずはこちらから皆さんにお声がけしてみます」




 最初の挨拶をした場所で啓介は再びマイクを手に取った。小野田修一が見つかったのかとざわついた人々だったが、啓介の発した言葉に顔色を変えた。


「皆さま、ご歓談中失礼いたします。このような場では非常に申し上げにくいことですが、小野田の寝室で、大量の血が見つかりました。まだ、小野田自身は見つかってはいないのですが、事件性が高かったので警察の方々に来ていただきました。その、それで、皆さまには事情聴取を受けていただきたく──」


「なんだよ! こんなつまんねえ会にわざわざ参加したっていうのに、小野田修一はいないし、殺人事件の容疑者扱いされるっていうのかよ!」


 シャンパンゴールドのスーツに身を包んだ男が叫んだ。たしか彼は映画監督で、小野田修一の作品の映画化を手掛けたことで名を売ったのだ。


「お、落ち着いてください、大森さま。ただ、お話をしてくださるだけで構いませんので……」


 脇から誰かの手が伸びて、啓介から汗でべたべたのマイクを奪っていく。


「捜査一課の山本です。事情聴取というほど大仰なことは行いません。まだ殺人事件であるとは確定していませんので、小野田先生を探すためにご協力をお願いしたい」


「山本さん……」


 大丈夫です、小野田先生は必ず見つけますよ。小声で山本はそう言った。実際、小野田修一を探すためであるという名目は効果があったらしく、いくらか客の態度が軟化したようだった。後藤の誘導にしたがって、順繰りに即席取調室となった客間へ通されていく。




 招待客の事情聴取が始まり数時間。啓介は手持無沙汰に隣室で一人歩き回っていた。するとそこへ慌ただしく後藤が駆けこんでくる。


「三谷さん! これ! 見覚えありますか!」


 手袋をはめた後藤の手には白い布に包まれた包丁があった。光を受けて刃が鈍色に光っているが、根本はくすんでいる。


「おそらく血を洗い流し切れなかったんでしょう。布の方にも少し血がついていますし」


 確かに布に赤黒い痕がついていた。洗うにしても中途半端なものだ。布に包んで隠すだけの冷静さがあるのに、洗い方が雑すぎる。いっそ、綺麗に洗い流して元の場所に戻した方が見つからないだろうに。


「見覚えはあります。キッチンの包丁です。私が普段使っているものですが……どこにあったんですか?」


「ガレージです。事情聴取の間、屋敷中を歩き回って小野田氏を探していたんですが、車で小野田さんを運んだ可能性に思い当たり、行ってみたってわけです。小野田氏は見つかりませんでしたし、車も動かした形跡がなかったので空振りかぁと思ったら、こんなものが出てきたんですよ」


 いやー寒かった、と後藤はオイルヒーターの前にしゃがみこんだ。


「屋敷を探すという話でしたら、私も手伝いましたのに」


「まあ、確かに屋敷に詳しい三谷さんがいたら、もっとスムーズに探し回れたのかもしれませんけどね。でも、三谷さんも容疑者の一人……おっと、これは言っちゃいけなかったか」


「いえ、至極真っ当な意見です。この屋敷の中の誰かが犯人なんでしょうから」


 血塗れのベッドに、血の付いた包丁、雪に閉ざされた屋敷。まるでミステリ小説だ。啓介はふっと目を伏せた。


「大丈夫ですよ! まだ、小野田氏が亡くなったとは限りません! そもそも小野田氏はまだ見つかっていないですし! 雪のせいで捜索が遅れてるのだけが心配ですけど!」


 啓介を元気づけようとしたのか、後藤の声はやたらと明るい。後藤によると、雪が弱まり次第捜索隊が付近の山に入ることになっているという。なら、ちょうど捜索が始まった頃合いだろうか。いつからか窓の揺れが小さくなり、雪影を見なくなっていた。薄ら明るい夜の中、遠くで強い光がいくつも揺れている。


「……こんなに寒いのに」


 言葉と一緒に吐いた息が窓ガラスを白く曇らせた。




「三谷さん」


 振り返る。山本は神妙な面持ちで啓介を見ていた。その後ろに立っている廻の表情は丸眼鏡の反射でよく分からない。


「小野田修一を殺した犯人は、あなたですね?」


 待ち望んだ問い掛けに、啓介は微笑んだ。


「なぜ分かったんです?」


 山本は意外そうに眉を跳ね上げた。包丁を隠し、死体も隠した犯人があっさりと容疑を認めるとは思わなかったようだ。


「誰も、小野田修一の顔を知らなかったからですよ。知らない人間を殺すことはできません。ですが、この屋敷で唯一あなただけは小野田先生の顔を知っている」


「はい。その通りです。──私が小野田修一を殺しました」


「なぜ、殺したのですか? よりにもよってデビュー三十周年パーティーの日に」


「……そうですね。おそらく疲れたからです。今日を選んだのは、小野田修一が殺されたことで、小野田修一という才能を食い潰した彼らを怖がらせてやりたかったからです」


 淡々と啓介は大したことのない動機を話した。案外、しようもない理由で人は人を殺す。それは現実の中でも小説の中でも変わりはない。


「小野田氏の遺体はどこにやったんですか?」


 再び窓の外に目をやった。光は遠ざかり、今は雪に照らされた夜の淵が覗いている。


「この雪の中に埋めました」


「──それは嘘ですね」


 今まで黙りこくっていた廻が口を開いた。丸眼鏡の奥の目が啓介の奥底まで見透かすように注がれる。感情の読めない視線だった。けれど、殺人者を見つめるにはあまりに優しい。


「この屋敷の中に犯人はいません。いいえ、初めから犯人なんていうものは存在しないんですよ、三谷さん」


「え?」


 声を上げたのは啓介ではなく、後藤だ。啓介は顔色を変えなかった山本の方を気にしつつ、首を傾げてみせた。


「どういうことですか? 寝室には血が飛び散っていましたし、血のついた包丁だってありました。現に、小野田は行方不明じゃないですか」


「それです」


 廻は人差し指をくるりと回す。


「小野田修一という人物は、そもそも存在しないんじゃないですか? ──いや、正確には五年前に亡くなっているんじゃないですか?」


 ひゅ、と啓介の喉が音を立てた。これでは廻の発言を認めたも同然だった。


「小野田修一先生の本名は田中悟というのでは? そして本来のこの屋敷の主である田中さんは、五年前に癌で亡くなっている。今の屋敷の持ち主は三谷啓介となっていて、田中さんから屋敷を譲渡されたと記録されている」


 ああ、彼はもう全てに気づいている。


「……ええ。よくお気づきになられましたね」


 諦めに似た溜息が口からこぼれた。


「この先は僕の推測を交えて話すので、違ったりしたら教えてください」


 丸眼鏡を押し上げ、廻は話し始めた。


「パーティー会場でも不思議に思っていたのですが、皆さんに話を聞かせてもらったところ、やはり誰も小野田修一先生の顔を知らず、秘書の三谷さんの顔だけを知っている様子でした。だから最初は、三谷さんが小野田修一先生なのではないかと思ったのですが、だとしたら書斎はあんなにも片付いてはいないはずです。もし、あなたが先生ご本人だったとしたら、いつも通りの仕事場を見せるだけでよかったんですから」


 行方不明の小野田修一を探すために啓介が最初に向かったのは、埃の積もった書斎だった。棚の本も整然と並べられ、ペンすら机上に出ていない。人が普段作業している部屋にしては生活感がなさすぎた。


「何よりも。吹雪の中で小野田先生が行方不明になったかもしれないと言われても、あなたは動揺しませんでしたね。最初に僕を玄関で迎えてくれたときも、外にまるで注意を払わなかった。あの後、会場で小野田先生が外に出て行ったという話をしていたのに」


 自嘲で唇が歪んだ。啓介のミスは、どうやら屋敷に堀川廻を招いたことから始まっていたらしい。


「あなたは外に誰もいないことを知っていたんだ。だから、捜索を急がせようとはしなかった。どれだけ探そうと、身体なんて出てこないと分かっていたから」


 今もまだ、警察官や消防隊員たちは存在しないものを雪の中で探しているだろうか、……こんなに寒いのに。


「元々隠すべき死体がなかったとすれば、寝室でベッドだけが血に濡れていたことにも説明がつきます。バケツをひっくり返したみたいな量の血が出ていたら、普通は運ぶときもどこかしらに血痕がつくと思うんですが、どこにも見当たりませんでした。だから、あの血は既にあるものをぶちまけたんです。血は購入したんですよね、おそらく?」


「はい、人の血を選びました。獣だとすぐに分かってしまうと聞いたので」


 バケツ一杯に研究用の血液試料を注いで、使われていない寝台にぶちまけた。生臭い匂いに胸やけしたのを鮮烈に覚えている。


「五年前に田中さんが亡くなり、三谷さんは小野田修一の名を継いで作品を書き続けたんじゃないですか? そして、小野田修一の名を背負うことに疲れたあなたは小野田修一を殺すことを考えた」


「そんなことまで分かるなんて、堀川さんが名探偵だと呼ばれるのも納得です。ですが一つだけ補足させてください。悟が──いえ小野田が死んでからの原稿も小野田が書いたものです。私が必要に応じて修正や加筆をしていたりはしますが」


「では、疲れたというのはもしや、小野田先生の遺稿がもうなくなってしまった、ということですか?」


 山本に向かって、啓介は小さく頷いた。


 始めてしまった嘘を終わらせる方法が分からなかった。小野田修一の言葉を綴るには、才が足らなかった。啓介の必死の穴埋めは、人々の目には小野田修一がその才能を失っていくようにすら映ったはずだ。ほんとうはただ、小野田修一を死なせたくなかっただけだったのに。


「これは、小野田修一という作家を殺した私への罰だったのです」


 くたびれた微笑みを浮かべる。愛した作家を自らの手で汚した罪に、ずっと罰がほしかった。けれど、それはもう叶わない幻の罰。


「……まさか、大ファンのあなたに暴かれてしまうとは思いませんでした、堀川廻さん。あなたの手紙をいつも、小野田は喜んでいましたよ。あの書斎の引き出しにすべて大切に保管してあります」


「い、やあ、えっと、その、それは、あのあまりにも光栄すぎてですね、えっと、えっと」


 驚いた顔がにやけ顔にじわりと変わって、廻の表情は丸眼鏡とクセのある前髪に隠れていった。謎を解いていたときの怜悧さはそこにはない。


「──山本さん、この件はどのように処理されるのでしょうか?」


 急におろおろし始めて話ができなくなった廻を脇に、啓介は問うた。


「まあ、すべてをお歴々に説明するというのも一つの手ではあるんでしょうが、私個人としてはこのまま小野田先生は事故で亡くなった、と説明してもいいのではないかと思います。無論、報告書には本当の経緯を書かせてもらいますが」


「ええええ! い、いいんですか!?」


 後藤が素っ頓狂な声を出したので、山本の手が後藤の肩をはたいた。後藤の頭の位置が高いので山本の手では絶妙に届かないのだ。


「この世には必要な嘘というものがあるだろう? そう、白い嘘というやつだ」


 啓介は目を見開いた。


 ずっと胸のうちで荒れ狂っていた吹雪が、たった今止んだ。




 外に出ると、降り積もった新雪が玄関灯の光を跳ね返していて、ひどく明るかった。コートを着込んだ山本と後藤は、一番初めの足跡をつけて帰っていく。


「小野田修一を殺してくださって、ありがとうございます。山本さん、後藤さん」


 遠ざかる二人の背中に、啓介は深く頭を下げた。


「私は長年警察官をやっとりますが、こんなことを言われたのは初めてです」


「ですね! 俺も初めてです! 人殺しも初めてですが!」


 突然後藤が顔から雪に突っ込んだ。どうやら山本に勢いよく背中を叩かれたようだ。後藤は映画に出てくるゾンビのような動きでむくりと立ち上がると、濡れた顔のまま啓介に手を振った。振り返せば嬉しそうに歩き去っていく。


「山本さん! 急になんですかぁ!」


「お前なあ、いつも言葉に気をつけろといっとるじゃないか!」


「俺、なんか言っちゃいましたっけ?」


「……このばかもん」


 まばたきをするように粉雪が降っていた。風の凪いだ夜は静かで、屋敷の玄関口にも二人の会話が冷気と一緒に流れてくる。


「あの二人、いつもあんな感じなんですよね。絶妙に聞こえるところで喧嘩して帰っていくっていうか、今までの印象を壊して帰っていくっていうか」


 いつの間にか廻が隣に立っていた。温かい屋内から外に出たせいで眼鏡が曇っている。


「私の嘘を解いたのが、堀川さんでよかったです。本当にありがとうございました」


 丁寧に頭を下げる。感謝を伝えきれないのが残念だった。


「あ、いえいえいえいえ、僕なんてちょこっと口を挟んだだけっていうか……。勝手に田中さんのことを調べてすみませんでした」


 啓介に続いて廻も深々と腰を折る。二人で頭を突き合わせている格好になってしまい、苦笑しながら二人は姿勢を正した。


「いいんです。もしもこれが殺人事件になっても、いつかはバレてしまったでしょうし。そう思えば、嘘を嘘のまま終わらせてくれて本当によかった」


 望んだかたちとは違うけれど、それでも。


「三谷さん、お願いがあるんですけど、いいですか?」


「なんでしょう? 私にできることなら何でも──」


 肩掛け鞄の中から廻は一冊の本を取り出した。小野田修一の最新刊──今や遺作となった単行本だった。今までの小野田修一の作風とはまるで違うと非難された作品。


「この本にサインをいただきたいんです」


「なぜです? この本は、だって」


「あー、言わないでくださいね。僕、この小説も好きなんです。まだ評価されていないだけだと思ってるんですから」


 戸惑う啓介の手に廻は律義に本を握らせる。おまけにサインペンも。


「……誰のサインをお望みですか?」


「この本を書かれた方の。もし、既に筆名があるのなら、それが嬉しいです」


 本当に嬉しそうに言うものだから、仕方がない。


「そうですか」


 親指でサインペンのキャップを開けて、啓介は裏表紙の内側にペンを走らせた。


 ──小田修二。


 それは、まだ無名の小説家の名前だった。




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