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双生の魔王〜離れれば、空が裂ける。近づけば、世界が安定する。奇妙な“距離”で結ばれた二人の男の話〜  作者: 幻翠仁


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// 008 - 閃光の師



 最初に認識したのは、音だった。風を裂く鋭い唸り。それは枝葉のざわめきとは明らかに違う、一直線に空気を断つ音だった。次の瞬間、金属が噛み合う。甲高い擦過音が夜を引き裂き、火花が短く散る。


 闇の中で、スタンの剣が止められている。

 刃と刃が押し合い、鈍い震えが空気に伝わった。重い。そう思うより早く、スタンの足が半歩沈む。腐葉土が押し潰され、湿った土の匂いがふわりと立ち上った。押し込まれた剣を支えるように、スタンは歯を食いしばる。


 カガンはその光景を、数歩離れた先から認識していた。

 月光は枝葉に裂かれ、殆ど地面に届いていない。だが、刃の反射だけが一瞬だけ、闇の輪郭を浮かび上がらせる。


 そして――その剣を握る男の姿が、そこに立っていた。

 白髪交じりのくすんだ黒髪に、蓄えた髭。一文字に引き結ばれた口元。臙脂の長い外套。傷の入った鎧。使い込まれた騎士剣。刃を押し込む腕は、年齢を感じさせるはずなのに、揺るぎがない。その眼には迷いがなかった。長い戦場を越えてきた者だけが持つ、躊躇の消えた視線だった。


「師匠……来られたんですね」


 スタンが、小さく息を吐く。

 枯れ葉が舞い、刃と刃の間隙に沈黙が走る。


 カガンは眉を僅かに跳ねさせた。

 この顔に、見覚えがある。


 ――ガラク・カルティエ。

 スタン・カルティエの養父であり、元王国騎士団団長。その剣は戦場を横切る稲妻のようだと噂され、“イェレミアの閃光”の異名で呼ばれた男。


 伝説。イェレミア王国の切り札。

 そんな男が、スタンを追って一人(・・)で来た。

 殺気はない。だが、交渉の余地もない。そんな仕草だった。


 刃に掛かっていた圧が、ふっと緩んだ。

 押し合っていた鋼が僅かに滑り、微かな金属音を残して離れる。火花はもう散らない。代わりに、冷たい夜気が二人の間へゆっくりと流れ込んだ。


 ガラクが半歩、後ろへ退く。その動きは大きくない。だが、刃に込めていた重みが消えた瞬間、周囲の空気まで一段軽くなったようだった。落ち葉が一枚二人の足元へ、はらりと落ちる。


 スタンも同じように半歩退く。

 まるで昔の訓練をなぞるように、同じ距離。同じ速さ。押し込まれていた剣をゆっくりと引き、刃先を下げる。刃と刃の間に、僅かな間隙が生まれる。


 森が、また静かになった。

 枝葉の奥で風が一度だけ揺れ、遠くの梢がざわりと鳴る。腐葉土の匂いが、湿った夜気とともにゆっくりと漂ってきた。


 ガラクは、その間合いを崩さないまま、じっとスタンを見ていた。

 やがて、僅かに目を細める。それは怒りではない。長く剣を握ってきた者が目の前の相手を測るときの眼。静かな息が、老騎士の胸から落ちる。


「……スタンよ」


 低い声が、夜気に沈んだ。

 森は、それを吸い込むように黙っている。ガラクの視線は逸れない。


「お前は、王に背を向けたその罪……理解しておるな」


 言葉は重くはなかった。

 だが、刃よりも確かな重さで、二人の間に落ちた。


 スタンはすぐには答えなかった。

 ガラクの言葉は、森の奥へ沈んだまま、しばらく戻ってこない。枝葉の隙間を渡る風が一度だけ揺れ、枯れ葉が足元で乾いた音を立てる。


 スタンは剣を下げたまま、僅かに視線を落とした。

 伏せられた瞳は、逃げているわけではない。ただ、胸の奥で、何かを静かに確かめているようだった。やがて短く息を吐く。その呼吸には、迷いはない。だが、何処か遠いものを見送るような、僅かな寂しさが混じっていた。


「……理解しています」


 静かな声だった。夜の森に落ちても、震えない。

 それは言い訳ではなく、報告に近い響きだった。スタンはゆっくりと顔を上げる。ガラクの視線を正面から受け止めると、もう一度だけ言葉を重ねた。


「王に背いた罪。騎士としての誓いを破ったことも……すべて」


 一瞬だけ、言葉が途切れる。その沈黙には、悔いではなく、僅かな哀惜が乗せられていた。本来ならば、こうなるはずではなかったという、遠い可能性への名残。だが、それもすぐに消える。スタンは静かに首を振った。


「それでも――私は、あの場を去るしかなかった」


 その一語は、刃のようにまっすぐだった。

 ただ、スタンの声だけが、確かな重みを持って残っていた。


 ガラクは、しばらく何も言わなかった。

 スタンの言葉は、夜気の中でゆっくりと沈んでいく。森は相変わらず静かで遠くの梢が僅かに揺れる音だけが残っていた。


 老騎士の視線は、スタンから動かない。

 その瞳は、怒りを宿していない。ただ、長い年月を共にした弟子の言葉を、一つずつ秤にかけているようだった。やがて、低く息を吐く。


「……そうか」


 短い言葉だった。だが、その声には、重さがあった。

 ガラクはゆっくりと首を振る。


「ならば聞こう、スタン」

 静かな声だった。

 責める響きではない。問いだった。


「お前は昔、儂に言ったな――騎士の剣は、王のためにあるのではない。民のためにあるのだと」


 スタンの指が、僅かに柄を握り直した。

 ガラクは続ける。


「――今ここで、お前に問う。お前が守ろうとしたものは……本当に、この国より重いものだったのか」


 沈黙が落ちる。そのときだった。

 ガラクの視線が、ふいに横へ流れた。スタンの肩越し。数歩離れた闇の中。そこに立つ男を、ようやく認めたように捉えた。


「……そこの男。貴様だな」

 低い声が、森に落ちる。


 カガンは、僅かに首を傾けた。

 まるで、今になって自分が会話の中に引き摺り出されたことを、少しだけ面倒に思っているような仕草。ガラクの目が絞られる。


「スタンをここまで連れてきたのは。貴様か」


 森の空気が、僅かに張り詰めた。

 スタンの方が微かに動く。だがカガンは――微動だにしなかった。ただ、夜の闇の中で静かに喉を鳴らし、肩を竦めてみせた。


「さあ……どうだったかな。俺の記憶じゃ、足は自分で動かしてたが」


 ガラクの眉が、僅かに動いた。

 怒りではない。ただ、目の前の男を改めて測り直すような短い沈黙だった。老騎士の視線は、真っ直ぐカガンへと向けられる。


「……ほう」


 低く、短い声。それ以上は笑わない。

 だが、口元の皺がほんの僅かに深くなった。


「軽口を叩く余裕があるか……若いな」

「そりゃどうも。褒め言葉として受け取っておくぜ……」


 その声音には、挑発も敵意もない。

 ただ、本気でどうでも良さそうだった。


 森の空気が、僅かに張り詰める。

 ガラクの視線が細くなる。


「貴様。名は」

「カガン。それ以外に、名はねぇよ……ああ、別に覚える必要はねぇぜ? どうせアンタとは、長い付き合いにはならねぇだろうからな……」


 その言葉が落ちた瞬間、ガラクの眼が、ほんの僅かだけ鋭くなった。

 次の刹那――スタンが一歩、前へ出る。


「師匠……いえ。養父上(ちちうえ)


 低い声だった。その一言で、二人の視線が再び交わる。スタンの剣は、まだ下げられたままだ。だが、その背筋は、真っ直ぐだった。


「この男は関係ありません」


 短い言葉。だが、その声音には、確かな意思があった。ガラクはスタンを見た。しばらく何も言わない。そして、ゆっくりと首を振る。


「嘘をつくな。この場に立っている時点で、既に関係しておる」


 老騎士の声は静かだった。

 だが、その静けさこそが、刃よりも冷たく森の空気を切っていた。


 スタンは僅かに眉を寄せる。それでも引かない。背筋は真っ直ぐだった。闇の中に立つその姿は、王都を出た時よりもむしろ強く見えた。帰る場所を失った者ではなく、自ら場所を捨てた者の立ち姿だった。


「……それでも、彼は私の意思を歪めてはいません」

 低い声が、夜気へ落ちる。


「私が選びました。私が自らの意思で王座の間を去り、そしてここまで来た。誰に唆されたわけでもありません」


 ガラクは答えない。その代わりに、スタンの言葉を真正面から受け止めたまま、ゆっくりと目を細める。枝葉の隙間から落ちた月光が一瞬だけ老騎士の頬を掠め、深く刻まれた皺の陰に消えた。


「……庇うのだな」


 短い一言。スタンの喉が、僅かに動く。

 否定しようとして、しかし否定の形が違うと悟ったように、口を閉ざす。

 その沈黙を、背後からカガンが鼻で笑った。


「勘違いするなよ、閃光」

 軽い声だった。だが、その軽さは侮りではない。森の闇の中で、刃の柄に指先を掛けたまま、カガンは片肩だけを揺らす。


「庇われてるのは、どっちか分かったもんじゃねぇ」

 スタンの肩が、ぴくりと動いた。

 ガラクの視線が、静かにカガンへ流れる。


 数歩離れた場所に立つ白髪の男を、老騎士は改めて測るように見た。

 姿勢には隙がある。口調も軽い。だが、重心がまるでぶれていない。足裏のどこに力が掛かっているかさえ、読み取りにくい。剣を抜く前から、既に抜いた後の間合いに立っている人間の構えだった。


「……随分と口が回る。だが、儂の前で軽さを装うのは得策ではない」


 その瞬間、森の空気がまた僅かに変わった。

 生温い風が止まる。枝葉が揺れを失い、虫の声までもが遠のいたように感じられる。カガンはその変化を皮膚で拾い、小さく目を細めた。


 ――来る。

 そう思った刹那、スタンが一歩前へ出た。


「お待ちください」


 今度の声には、先ほどまでよりも強い意志が乗っていた。

 弟子としてではない。

 ひとりの騎士として、目の前の老騎士へ向ける声だった。


「ここで剣を交えることに、何の意味がありましょう」

 ガラクの目が、僅かに動く。スタンは続けた。


「……私は、王に背きました。その罪も理解しています。処罰を受けるべきだと言うなら、それも理解している。ですが――今ここで私を連れ戻せば、王が見誤ったもの(・・・・・・)まで、正しいことにされてしまう」


 枯れ葉が一枚、スタンの足元に落ちる。

 湿った土が、その軽い衝撃を音もなく吸い込んだ。


「見誤った、だと」


 ガラクの声が低くなる。

 怒気はまだない。だが、その底に、ようやく熱が灯り始めていた。


「王は、私とカガンを脅威と見た。魔王復活の徴だと。ですが、まだ分からないことの方が多い。空の縫痕が何故閉じるのか……何故双生が同世代に現れたのか……何一つとして、明らかになっていない」


 そこで一度、言葉を切る。

 ガラクの眼を、正面から受けたまま。


「――だからこそ、私は戻れないのです。戻れば、それで終わる。私も彼も、ただの厄災として処理される」


 ガラクの口元が、僅かに引き結ばれる。


「……それが、お前の答えか」

「はい」


 迷いはなかった。

 その返答のあと、森はしばらく何も言わなかった。枝の上に溜まっていた雫がひとつ落ちる。遠くで夜鳥が短く鳴き、それもすぐに闇へ沈んだ。カガンは沈黙の中で、ガラクの右肩が僅かに沈んだのを見た。力を抜いたのではない。むしろその逆だ。次の一手へ向けて、無駄を削いだ沈み方。


 老騎士の剣先が、ほんの僅かに持ち上がる。

 月光が、鋼の縁に細く走った。


「ならば、なおさら連れて帰る」

 低い声が、森の底へ落ちる。


「スタン。お前ひとりの覚悟で、王国の理を覆せると思うな」


 スタンの呼吸が深くなる。

 下げていた剣が、ゆっくりと持ち上がった。


「……理ならば、なおのこと問うべきです」

「問う場は王座の前にあった」

「いいえ……あれは、問う場ではありませんでした」


 空気が、軋んだ。その緊張の中心で、カガンは小さく喉を鳴らす。

 “師弟”というものは、どいつもこいつも面倒だ。だが、目の前のこの老騎士ガラクは、本気でスタンを斬る気ではない。少なくとも、一息で喉を断つような殺意はない。そこが、逆に厄介だった。


 殺すより、連れ帰る方が難しい。しかも、相手がスタンなら尚更だ。

 カガンは、腰の柄に静かに指を掛け直した。


「おい、聖騎士」

 視線はガラクから逸らさないまま、低く言う。


「説得は諦めろ。剣で語れ……お前にその覚悟があるのなら、な……」


 その言葉に、ガラクの眉が僅かに動く。

 スタンは何も返さない。ただ、剣を握る手にゆっくりと力を込めた。

 次の瞬間――老騎士の足元で、落ち葉が、跳ねた。



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