// 007 - 双生の夜
シュナイド大森林は、光を拒んでいた。
王都の灯りが背後で消えた瞬間、夜は質を変える。草原に落ちていた月光は森の入口で呑み込まれた。樹冠が天井のように重なり、空を細く裂いている。枝と枝の隙間から落ちてくる光は、絹糸のように細い。
足を踏み入れた瞬間、音が変わった。
土だ。王都では石が鳴る。だが森では、靴底は浅く沈む。湿った腐葉土が衝撃を吸い、足音は短く潰れる。葉が擦れ、遠くで何かがバサリと動く。低く、湿った匂いが、カガンの肺の奥へ流れ込んだ。
土と、樹液と、湧き水の匂い。シュナイド大森林は、静かだった。
だがそれは、安心できる静けさではない。生き物の呼吸が、地面の下でゆっくり動いているような沈黙だった。
カガンは足を止めない。だが走りもしない。
森の中で速度は意味を持たない。視線だけが左右を舐める。枝の影。倒木。地面の隆起。踏み跡。すべてを一つずつ拾う。
背後から、重い足音が近づく。スタンだ。騎士の甲冑を纏った身体は重い。鎧の継ぎ目が時折擦れ、低く鳴る。カガンは振り返らなかった。
森の奥へ、さらに数十歩。
やがて、一本の巨大な樹の根元で立ち止まった。幹は人の腕では回りきらないほど太く、表皮は深く裂けている。枝は上空で他の木と絡み合い、空を覆っていた。ここなら、月光が落ちない。カガンはそこでようやく振り返った。
耳を澄ます。森は静かだ。虫の声が遠くで鳴き、風が枝葉を揺らす。
だが、それだけだ。王都から追ってきた気配はない。包囲網の鐘の音も、兵の怒号も、魔術灯の唸りも、ここまでは届かない。
スタンもそこで立ち止まった。胸がゆっくり上下している。だが呼吸は整っている。追走の後にしては、異様に落ち着いていた。
「……追手は来ていないようだ」
スタンが低く言う。カガンは答えない。
視線は森ではなく、スタンを見ていた。数秒。静かな時間が流れる。その瞬間だった。カガンの身体が動いた。音はない。ただ、影が滑る。外套が僅かに揺れた次の瞬間、カガンは既にスタンの背後にいた。
短剣が抜かれ、刃がスタンの首筋を舐める。
冷たい金属を皮膚に押し込み、刃先は動脈の上で止まった。
森の静けさが、さらに深くなる。
スタンは動かなかった。肩の筋肉が僅かに緊張しただけだ。剣に手を伸ばすことも、身体を捻ることもない。ただ、息を一つ吐いた。
「……やはり来たか」
「フン……王都を出るまでの共犯だ。それ以上になったつもりはねぇ」
刃は動かない。
むしろ僅かに押し込まれ、皮膚が薄く凹む。血はまだ出ていない。だが一歩でも動けば、首は裂ける距離だった。
「質問に答えろ。間違えたら、ここで終わりだ」
スタンは少しだけ顎を上げた。
刃先が動脈の上で僅かに滑る。皮膚がさらに凹み、冷たい金属の感触が深くなる。それでも動かなかった。森の奥で、風が一度だけ枝を鳴らす。
「……何を聞きたい」
低く、落ち着いた声だった。
カガンは鼻で笑う。短剣の刃が僅かに押し込まれる。
「全部だ……俺とお前の距離が離れると胸が裂ける理由……それと同時に空の縫い痕が避けるワケ……そして、双生の意味だ……さあ、話せ」
赤い線が、ゆっくりと膨らんだ。
ほんの一滴。だが血は確かに生まれている。首筋を伝う前に、刃の冷たさに押し留められていた。
スタンは動かない。騎士の呼吸だけが、ゆっくりと胸郭を上下させる。甲冑の継ぎ目が微かに鳴り、その音が湿った森の空気に吸い込まれていく。
沈黙。虫の声が遠くで鳴き、すぐに途切れる。
森の闇が、二人の周囲で静かに息をしている。
「……その前に、一つ確認しておこう」
スタンの声に、カガンの目が細くなる。
「立場を履き違えるな。質問する立場じゃねぇ」
「あぁ……だが、これは君自身のためだ」
静かな声。短い沈黙。
僅かに緩まった刃先に、スタンは視線を前に向けたまま続けた。
「君は、魔王が何だったか知っているか」
「化け物だろ――世界を滅ぼしかけた、史上最悪の厄災」
「そうだ。だがそれは、表向きの話だ」
カガンの眉が僅かに跳ねる。
風が枝を揺らす。樹冠が僅かに軋み、空から落ちてくる糸のような月光が揺れた。光は二人の肩を掠めてすぐ消える。森はすぐにまた闇へ戻った。
「魔王は勇者一行に討伐された。そう、歴史書には書かれている」
「ほう……実際はそうじゃねぇってか」
森の奥で、どこかの枝が折れる音がした。
スタンの声は変わらない。
「魔王には、身体がない。人間の欲望、戦争、差別、飢餓、祈りの暴走を体現する概念だったからだ。だから――討伐出来なかった」
その言葉が落ちた瞬間だった。
カガンの胸の奥が、軋んだ。鋭い痛みではない。だが、骨の裏側を細い針でなぞられるような違和感が、心臓の奥でゆっくりと広がっていく。
その刹那――視界の端が黒く染まる。
侵食するように、焦土の匂いが鼻腔を掠めた。スタンと瓜二つな臙脂の髪を風に靡かせた男と、カガンに似た風貌の白髪を背に流した男。円陣を組む魔術師の一団。そして、視界の主である何かの揺れ。
視界はすぐに晴れる。
だが、短剣の刃が僅かに震えた。スタンは動かなかった。だがその背中は、掠めた記憶をなぞるように、ほんの僅かだけ呼吸を深くする。
森は静かだった。落ち葉が一枚、枝を離れて落ちる。
乾いた音もなく、湿った土へ吸い込まれた。
カガンは舌打ちを飲み込む。
胸の奥の違和感が、消えない。
「だから……封印したってのか。なら、俺らは……」
「そうだ。私たちはおそらく……ダーケンモルグを分けた者。正と負。秩序と衝動。それを人間に封じた、負の遺産というわけだ」
その言葉は、森の闇に沈んだ。
カガンの胸の奥で、再び針が軋む。刃はまだ、スタンの喉元にある。だがカガンは、まだ刺していない。
「ヴァルト王は、魔王復活を危惧している。同世代に生まれなかった双生が、こうして在る以上、復活は近い――そう、王は判断した」
王は判断した。
森が、しばらく何も言わなかった。虫の声も風も、何処か遠くへ退いたように静まり返る。カガンは短く息を吐いた。冷たい空気が肺を抜ける。胸の奥で軋んでいた針が、ほんの僅かだけ位置を変えた。
「……空の縫痕が呼応しているワケはなんだ」
「それは、私にも分からない。ダーケンモルグが引き合えば、理論上は裂けるはず……だが、その逆が起こっている。調べる必要があるだろう」
短い沈黙が落ちた。
カガンはしばらく動かなかった。刃はまだ、スタンの喉元にある。薄い血の線が、冷たい金属に触れて止まっている。
やがて、カガンは短く鼻を鳴らした。
短剣が、ゆっくりと持ち上がる。刃先が皮膚を離れ、赤い線だけが首筋に残った。カガンは手首を返し、刃先を夜気に晒す。月光が一瞬だけ鋼を掠め、すぐ森の闇に飲まれた。そのまま短剣を腰の鞘へ滑り込ませる。
金属が革に収まる乾いた音が、小さく鳴った。
スタンは、そこでようやく振り返った。眉が、僅かに上がる。まるで、石像が突然瞬きしたのを見たような、驚きに満ちた顔だった。
「……何だその顔は」
「いや、案外すんなり解放したなと思っただけだ……」
「ああ? チッ……勘違いするな」
カガンの眉間に皺が寄る。
口元が歪み、苦いものを噛んだような顔になる。
「俺らは、どの道離れられねぇ。お前を殺すのは造作もねぇが、殺したあとが悲惨だ。世界がどうなるか……フン、考えたくもねぇな」
言い切ったあと、カガンはふいと視線を逸らした。
まともに顔を見れば、余計なものまで拾ってしまいそうだった。だから視線はそのままスタンの肩越しに、シュナイド大森林の奥へ流れる。樹々の黒が幾重にも重なり、月光は途中で千切れて、闇の底へ吸い込まれていた。
視界の端で、気配が僅かに揺れる。スタンがまた目を見開いたのだと、見ずとも分かった。カガンは小さく舌打ちする。
「シュナイド大森林を抜けて山岳を越えた先に、ローフェン公国がある。そこまで行けりゃ、追手も撒ける……まずは、情報収集だ」
その時だった。ふっと、小さく笑う気配。
次の瞬間、視界の端から影が滑り込んできた。
一歩踏み出したスタンが、カガンの正面へ躍り出る。臙脂の髪が夜風に揺れ、月光を一瞬だけ掠めた。そこで立ち止まり、僅かに首を傾ける。その顔はまるで、困った子供を見る教師のようだった。
「当面は、同じ夜を共にすることになりそうだな」
その言葉が落ちた瞬間だった。
カガンの身体が弾かれたように動く。地面を蹴り、三歩ほど後ろへ跳ぶ。腐葉土が浅く沈み、乾いた葉が低く擦れた。喉の奥から、押し殺したような息が漏れる。それは笑いにも、吐き気を堪えるような音にも聞こえた。
「……気色悪いこと抜かすな。距離を保て……クソ聖騎士」
背後で、スタンが堪えきれず笑う。だがその笑いは、途中で途切れた。森の奥から、金属の擦過音が届いたからだ。甲冑が動く、重い音だった。




