// 006 - 追光裂路
屋根瓦の上に残っていた粉塵が、ようやく沈み始めていた。
崩れた足場の木片が夜風に揺れ、ぎぃと細く鳴る。遠くでは、まだ逃げ場を潰す宣告の鐘が鳴り響いている。地鳴らしのように轟く、粘着質な音。王都の石壁を撫で、屋根の海を渡り、路地の奥へと染み込んでいく。
逃走は終わっていない。
むしろ、今ようやく王都全体が目を覚ましたところだった。
カガンは棟木の上で一度だけ周囲を見回した。
瓦の波が月光に濡れている。煙突の影が長く伸び、屋根の谷間には黒い闇が溜まっていた。その闇の底で、青白い光が幾つか瞬いた。
魔術灯。塔の上。広場の縁。城壁沿いの監視台。
追跡の光が、増えている。
「イェレミアの奴らは、小心者ばかりで反吐が出るぜ……」
小さく呟く。次の瞬間、空気が歪んだ。
音はなかった。ただ、空の色が一瞬だけ濃くなる。夜の中に、見えない刃が走るような感覚。皮膚の奥で、警鐘が鳴る。
カガンは迷わず身体を横へ流した。
その刹那――屋根瓦が爆ぜた。遅れて轟音が来る。石粉が夜へ弾け、瓦が鉄砲のように飛び散る。先ほどまでカガンが立っていた棟木が、内側からえぐり取られたように崩れた。その変わり果てように、ヒューと喉を鳴らす。
「……今度は弓じゃねぇらしい」
低く吐き捨てる。
屋根の向こう、王城の外郭塔の上。青白い光輪がひとつ、ゆっくり回転していた。術式陣。複雑な紋様が宙に浮かび、空間そのものに焼き付いている。
その中央に、人影。
外套を纏った魔術師が杖を掲げている。
「やれやれ……今度は、王国魔術団か」
スタンが隣で息を吐く。
言い終わってすぐ、第二撃が来た。空気が折れる。それは光ではない。炎でもない。ただ空間そのものが押し潰される。目に見えない質量が、屋根の上を薙ぎ払う。瓦が一列まとめて剥がれ、煙突が根元から折れた。
カガンは跳んだ。
煙突を踏み台にして屋根の谷へ滑り込む。破片が肩を掠める。背後で屋根が崩れる音が響いた。スタンが重い足音を響かせて続く。
屋根の上を走る。瓦が足裏で鳴る。滑る。だが、止まらない。
王都の屋根は波のように連なり、通りの上を跨いで続いている。夜の街路がその下で細く裂けていた。
その裂け目の向こう――城門の方向。
カガンは視線を走らせた。正門へ続く大通りは、すでに光に満ちている。衛兵の槍列。魔導灯。塔上の弓兵。そこはもう、完全に封鎖されている。
だが、そこへ向かう。理由は単純だ。
正門が固いほど、その周辺は盲点が多い。
第三撃。空が裂けた。今度は見えた。青白い光の楔が屋根を貫く。直線の雷撃のような術式。瓦が焼け、石が溶ける。
「チッ……」
カガンは身を沈め、屋根の傾斜を滑り降りた。
足裏に熱が伝わる。焼けた瓦が靴底に貼り付く。
スタンがその上を踏み砕いて続いた。
「正門は封鎖されている。どうする気だ」
「アテはある……聖騎士様は、当然知らねぇルートだ」
短い会話のあいだにも、光が増えていく。
王都の塔の上で、術式陣が次々と展開している。青白い円が夜空に浮かび、回転し、重なり合う。魔術師たちが位置を取ったのだ。
都市そのものが、砲台になる。
第四撃。今度は地面だった。街路の石畳が内側から爆ぜる。石片が雨のように舞い上がる。屋根の下を走る衝撃波が、建物の壁を震わせた。
カガンは棟木を蹴り、次の屋根へ飛び移る。視界の端で、城壁が見えた。巨大な黒い弧。王都を囲う石の海。その中央に、巨大な門楼が聳え立っている。正門だ。松明の列が揺れ、槍の穂先が月を反射していた。
完全に固められている。
だが、問題はそこじゃない。門の左側。城壁の影。瓦の海の向こうに、細い裏路地が口を開けている。カガンの口元が、僅かに歪んだ。
「見張りなし。手薄。問題はねぇ……着いてきな」
その瞬間、空が白く光った。
今度は巨大だった。魔術師団が同時詠唱した術式だ。夜空に浮かんだ光輪が一斉に収束し、巨大な光槍となって落ちてくる。王都の屋根の海へ。
光槍が落ちる。夜が、一瞬だけ昼になる。青白い閃光が屋根の海を焼き、瓦の波が白く浮き上がった。次の瞬間、衝撃が来る。空気が圧縮され、爆ぜ、王都の屋根が一斉に震えた。煙突が折れ、瓦が跳ね、粉塵が舞い上がる。
カガンとスタンは走った。棟木を踏み鳴らす。瓦の尾根を越える。屋根の谷を滑り、次の家屋へ飛ぶ。背後で屋根が崩れ落ちる音が追いかけてくる。魔術の衝撃が建物の骨を軋ませ、壁を割り、石の破片を空へ弾き上げた。
だが、もう近い。
正門の門楼が視界いっぱいに広がる。巨大な石の弧。火の列。槍の森。怒号が響く。兵士たちが隊列を組み、盾を並べ、通りを塞いでいる。
完全封鎖。
だが、視線はそこを通り過ぎる。門楼の左側。城壁の基部。松明の光が届かない場所。石の陰に、細い路地が沈んでいる。王都の排水路へ続く裏道。屋根から見なければ気づかない、影の裂け目だ。
二人はそこへ降りた。瓦の端を蹴り、身体を捻り、転がるように石畳へ着地する。膝が衝撃を吸う。次の瞬間にはもう走り出している。背後でスタンが重い音を立てて降りた。鎧が僅かに鳴る。
路地は狭く、薄暗い。
湿った石壁が両側から迫り、空は細い帯のように切り取られている。水の匂いが強い。苔と腐葉の混ざった臭い。城壁の排水がここへ流れている。
「屋根だ! 屋根を見ろ!」
遠くで、兵の怒声が上がった。
だが遅い。カガンは路地の奥へ滑り込む。スタンは石壁に手を掛け、身体を低くして進む。足元を水が流れていた。薄い水路だ。城壁から流れ出る排水が細く通っている。その行き止まりに、鉄格子が落ちている。
「……おい、ここで終わりか?」
「さあ――どうだろうな」
カガンは口端を歪め、格子の脇、石壁の隅に手を入れる。瓦の欠片ほどの石が僅かに浮いている。それを押し込む。内部の石組みが軋む。古い排水路の隠し構造――王都の修繕が何度重なっても、ここだけは残った。
石壁が、半寸だけ動いた。人が一人通れる隙間。
スタンは顔を顰め、非難するようにため息を付いた。
「王都にこんな仕掛けがあったとは……」
「フン……小言は無しだ。お前はもう、王都の人間じゃねぇんだからな……」
顔を曇らせたスタンを横目に、カガンは身体を滑り込ませる。
石の内側はさらに狭い。膝ほどの高さしかない排水路。冷たい水が足首まで溜まっている。スタンも続く。鎧が石壁に擦れ、鈍い音を立てた。
暗い。月光は届かない。水音だけが響く。
遠くでまだ鐘が鳴っている。低く、粘つく音が石の管を伝って震えていた。
やがて前方が、僅かに白くなる。
出口。カガンは最後の石枠を蹴った。古い格子が外へ倒れる。夜風が一気に流れ込んだ。湿った空気が消え、冷たい森の匂いが鼻を刺す。
二人は外へ出た。
王都の外。城壁の外側は、夜の野だ。草が風に揺れ、地面には月光が薄く広がっている。背後には巨大な城壁。黒い山脈のような石の壁。その上を松明が走り、兵士の影が慌ただしく動いていた。
まだ気づかれていない。
だが、時間の問題だ。
カガンは振り返らない。視線は前にある。
北西。そこに、黒い壁が立っていた。月光を吸い込むような巨大な森。樹冠が空を覆い、夜をさらに深くする。枝と枝が絡み合い、闇が層を成している。王都の灯りは、そこへ届かない。
「……シュナイド大森林か」
目を細めたスタンに、カガンは肩で笑う。
「安心しろ。あの森は、兵よりずっと素直だぜ……」
背後で、城門の方から角笛が鳴った。
追跡は、まだ終わっていない。だが――二人はすでに、王都の秩序の外へ出ていた。シュナイド大森林の闇が、静かに口を開けている。




