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双生の魔王〜離れれば、空が裂ける。近づけば、世界が安定する。奇妙な“距離”で結ばれた二人の男の話〜  作者: 幻翠仁


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// 002 - 灰の円陣



 黒い灰雪はまだ舞っていた。

 空の中央に残った黒い縫痕が、王都の星を僅かに歪ませている。そこから落ちる煤はもうない。ただそこに在るだけで、夜の奥行きを浅くしていた。


 石畳に積もった灰を、風が撫でる。

 踏み締めると、微かな軋みが鳴った。

 異形の残骸は冷え切り、形を失い、ただ黒い粉となっている。


 背中越しに触れていた鎧の熱。

 それが消えた瞬間、カガンの身体はもう動いていた。反射ではなく習性だ。踵が石畳を打ち、外套が空気を裂く。屋台の倒れた梁を踏み台にして、後方へ大きく跳ぶ。視界が一瞬だけ反転し、橙の灯火と黒い夜が混ざる。


 着地。衝撃を膝で吸収し、片足を滑らせて制動を掛ける。灰が跳ね上がり、足首に纏わり付く。その刹那――胸の奥で、何かが握り潰された。


 鈍い。だが、確かな痛み。

 鼓動が一拍遅れ、その次の拍で倍に膨らむ。肋骨の裏側から鋭利なものが押し上げてくるような感覚。喉の奥が焼け、呼吸が引き裂かれる。


 ――遠い。思考ではなく、感覚で悟った。

 距離が、適性を越えた。視界の端で、スタンの肩も僅かに揺れる。剣を握る指先が一瞬だけ白くなる。彼もまた、同じ拍の乱れを受け取っている。


 空気が張り詰める。

 騎士団が反応する。盾が上がり、槍が揃う。鋼の穂先が月光を拾い、円が形を成す。白髪の男を中心に、静かな包囲。


 灰が、その円の中だけ濃く沈む。

 カガンはゆっくり息を吐いた。肺の奥に残っていた焦土の匂いが、現実の湿り気と混ざる。舌の上にざらつきが残る。


 刃はまだ抜き身だ。

 スタンが一歩踏み出す。鎧が擦れ、細い金属音が夜に溶ける。


「……君は敵か?」


 声は平坦だが、刃は真っ直ぐだった。

 カガンは唇の端を僅かに吊り上げる。


「その予定だったが――」


 言葉を切り捨て、カガンは踏み込んだ。

 それとほぼ同時に、スタンも地を蹴る。


 刃が正面から噛み合った。衝撃が腕を震わせる。火花が灰の上に散り、橙の灯火を一瞬だけ掻き消す。金属の匂いが鼻腔に満ちる。


 スタンの剣筋は実直で力を逃さずに、正面から圧を掛けてくる。

 カガンはそれを受け流し、刃の角度を僅かにずらし、横から喉元を狙う。


 足元で灰が舞い上がる。石畳が削れ、微かな破片が跳ねる。

 刃が絡み合ったまま、金属音を撒き散らす。互いの呼気が、夜気の中で白く混ざる。臙脂の髪が揺れ、白髪が灯火を反射する。視線が、交錯する。


 その瞬間、胸の奥が同時に軋んだ。

 鼓動が揃う。どちらかが速いのではない。どちらかが遅いのでもない。二つの拍が、無理矢理同じリズムへと縫い合わされる。


 灰色の風が、皮膚の内側を撫でた。

 焦土。割れた黒核。光の柱。刹那の残像が、刃の交差する隙間に差し込む。スタンの瞳孔が僅かに開き、カガンの奥歯が鳴る。


「……どうやら、状況が変わったらしい……」


 低い声が、刃越しに落ちた。

 スタンは答えない。ただ、視線は逸らさない。だがその剣は、ほんの僅かに角度を変えた。喉を断つ角度から、押し留める角度へ。


 数秒。灰が落ちる音すら聞こえそうな静寂。


 先に刃を引いたのは、スタンだった。

 切っ先を下げる。納めはしない。だが、殺す意志は外す。カガンも同じだけ距離を外す。剣を半身に構え直し、次の一歩を踏み出さない。


 その刹那、鋼の穂先が一斉に迫った。騎士団が円を狭める。盾が並び、槍が突き出される。白髪の男を中心に、冷たい半径が完成する。


 槍の穂先が、月光を呑み込んで鈍く光る。鋼が擦れ合う音が、幾重にも重なった。鎧の継ぎ目が鳴り、前線用の盾縁が石畳を掠める。半径は正確。訓練された円。逃がさず、近づけさせず、ただ圧迫するための距離。


 灰がその円の内側だけ、ゆっくりと沈む。

 白髪の肩に黒が積もる。臙脂の髪にも、同じ粉が落ちる。


 若い騎士が一歩踏み出した。

 槍を握る指は白い。喉が鳴る。


「団長の御前だぞ。頭を垂れろ」


 震えを怒気で覆い隠した声。

 カガンは槍の穂先を視界の端で測る。数は多い。だが躊躇が混ざっている。刺す覚悟と刺される覚悟、そのどちらもまだ薄い。


 騎士の物言いに、怒りはない。嘲笑もない。

 ただ、冷めた目で鼻を鳴らす。短く、乾いた音。


「下賤が! 分をわきまえろ!」


 怒号が石畳に跳ね返る。

 その瞬間、空の縫痕が、細く震えた。誰も気付かぬほどの揺らぎ。だが、二人の胸だけが同時に軋む。鼓動が乱れる。


 鋼の穂先が、一斉に僅かに揺れた。

 灰が、円の内側で渦を巻く。若い騎士の槍先が、ほんの数寸、前へ出る。

 その動きを、スタンの視線が捉えた。


「止まれ」


 低い声。短い。だが、石よりも重い。

 若い騎士が息を詰める。


「しかし団長、この者は――」

「止まれ」


 今度は、明確な命令だった。

 スタンは一歩、槍の列へ踏み出す。白い刃が緩やかに持ち上がり、槍の穂先と穂先の間へ差し込まれる。押し返すのではない。ただ、触れるだけ。だが、それだけで十分だった。穂先が逸れ、円の密度が崩れていく。


「槍を下げろ」

 夜気の中、スタンの声は静かだった。


「今この場で、彼は敵ではない」


 騎士たちの間に、ざわめきが走る。

 若い騎士の喉が鳴る。視線がカガンへ向き、次いでスタンに戻る。


「で、ですが――」

「下げろ。これは命令だ」


 重ねられた三度目の言葉は、刃より鋭かった。

 長い臙脂の髪が、風に僅かに揺れる。その背に、迷いはない。数拍の沈黙。やがて、ひとつ、槍が下がる。続いて、もうひとつ。鋼が石畳に触れる微かな音が、夜に落ちる。円は解けない。だが、殺意の角度だけが、外れた。


 灰が静かに沈んでいく。

 スタンは視線をカガンへと戻した。白い刃はまだ抜かれたままだ。だがその切っ先は喉ではなく、地を向いている。


「君と少し話をしたい」

「ハッ……奇遇だな。俺もだ」


 誰も、すぐには動かなかった。

 槍は下がったが、盾はまだ半ば上がっている。鎧の内側で荒い呼吸が続く。灰は相変わらず舞い、灯火の橙が揺れるたび、影が伸び縮みした。


 若い騎士の喉が、もう一度鳴る。だが声は出ない。

 スタンとカガンの間には、数歩の距離。遠すぎず、近すぎない。胸の奥の拍がゆっくりと揃っていく。空の縫痕が、微かに軋んだ。


「名は」


 短い問い。カガンは一瞬、空を仰ぐ。縫痕はまだ閉じていない。胸の奥で、脈が揃う。吐く息が白く溶ける。


「……俺は、カガン。苗字はねぇよ」


 低く、乾いた声。

 灰が、二人の間に落ちる。夜はまだ終わっていない。

 だが、その場の殺気だけは、確かに一段、薄れていた。



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