振動体
振動体
陸上自衛隊富士駐屯地所属の立花二尉は東富士演習場をゆっくりと歩いていた。
文字どおり富士山の東側に位置する広大な演習場は、いまはどんな訓練にも使用されていない。演習になれば戦車や戦闘車両が走り回る平原も、射撃の目標になる丘も、どこか荒涼とした風景の一部になっている。
まるで異星のようだ、と立花二尉は思う。
月か、火星か、ともかく生物が生存する環境ではないような、植物もほとんどない、細かな砂利が敷き詰められているだけの地形。
その後ろには巨大な富士山が、まるで守護神かなにかのように控えている。
吹き下ろす風は冷たい。背筋がぞくりとする。
異星、か。普段はそんなふうには考えない。ただ広々とした、広大な敷地だ、と思うだけ。それを、地球ではない風景のようだ、なんて思うのは、後ろをついてくる人物の影響にちがいない。
二尉の後ろには、ジーンズにシャツという姿の、五十をすこし過ぎたくらいに思える男が歩いている。
筑波かどこかの大学の准教授なのだという。
今日の二尉の仕事は、この准教授先生に演習場を案内すること、だ。
まあ、広報担当としてはまともな仕事ではある、と二尉は思い、自衛隊という組織柄威圧的に思われるのを避けるため、笑みを浮かべて准教授を振り返った。
「先生のご専門は、天文学ですか?」
きょろきょろとあたりを見回していた准教授は、はっと視線を戻し、うなずいた。
「このあたりも夜になると星がよく見えますよ。街明かりから離れていますからね」
「たしかに、そうでしょうね──」
ふーむ、と二尉は砂利道を歩く速度をすこし落とす。どうもこの先生は、放っておいても会話が続くような相手ではなさそうだった。
かといって、演習場の奥まではまだすこし距離がある。そこまで黙って歩き続けるというのも気疲れするし、自衛隊が学術調査に非協力的だと思われたくはない。そうでなくても世間の──一部ではあるだろうが──風当たりは強い。ひとを殺す兵器を所有し、いつでも使用できるように整備、訓練する組織なのだから、当たり前といえば当たり前だと二尉も思う。だからこそ自衛隊という組織は可能なかぎり開かれたものでなければならない。一般人と隔絶すると、あいつらはなにを考えているかわからない、という話になる。疑心暗鬼は妄想を生む。そうなると損をするのは自衛隊という組織であり、引いては国民全体となるわけだ。
石田とかいう准教授がここへやってきた目的は、立花二尉も聞いていた。
彼は、最近ここに隕石が落ちてこなかったか、探しにきたのだ。
それは自衛隊に対する正式な問い合わせで、どういうわけか組織は許可を出し、この准教授に演習場を案内してやれ、と立花二尉に命令が下った。
「隕石というのは、思ったよりも落ちてくるものなんですか?」
相手の専門分野なら話もしやすいだろうと二尉が問うと、准教授はやはりあたりを見回しながら、どこか上の空という顔でうなずいた。
「だいたい一年に五〇〇個程度が落ちてくるといわれています」
「そんなに、ですか」
「もちろん、陸地よりも海に落ちるもののほうが多くなるわけですが」
「そのわりに、隕石が落ちてきて被害が出た、という話はあんまり聞きませんね」
「地球には大気があります」まるで機械が答えるように、准教授は言った。「ちいさな隕石は、摩擦熱で燃え尽きます。数センチ程度の隕石は、跡形もなくなって地上には影響しません。大きくなってくれば、ばらばらになったその破片が地上まで落ちてくることもあります。それがたまたま人間が住んでいる地域であれば、建物などに被害が出ることもあります。もっと大きな、数メートルという隕石が落ちてくるのはごくまれで、人類史のなかでも数える程度しかありません」
「なるほど──恐竜を絶滅させたような隕石も、そのうち地球に落ちてくるんでしょうね。いつかは」
「確率はあります。しかしこの確率というのは──よく言いますが、十分の一の確率は、十回試行すれば確実に一回は成功する、というわけじゃありません。平均すればだいたいそのくらいの頻度だ、というだけで、運が悪ければ百回試しても成功しませんし、運がよければ一回目で成功します」
「ふむ──今回このあたりに落ちてきたという隕石は大きいんですか?」
「私の観測では、すくなくとも爆散はしなかったはずです。ある程度の大きさを保っているとは思いますが──なにしろ予測落下地点に幅があるもので、確実にこの演習場のなかに落ちたとは言えませんし、落ちたとしても、見つけられるかどうかは──」
准教授ははじめて人間らしい、どこか戸惑うような表情を浮かべてため息をついた。二尉は運動不足らしい准教授の速度に合わせ、ゆっくりと丘を上る。
丘の頂点までくると、演習場がぐるりと見渡せた。
東側に、自衛隊の施設がある。西側には巨大な富士山。その威容は、まっすぐ天に向かっているというより、見ているものに覆いかぶさるかのごとく反り返っているようにさえ見えた。
手をひさしに、それらしいものがないか見回してみるが、やはりよくわからない。
石、というならそこら中にあって、准教授がいうには、それは黒い石にちがいないのだが、それ以上の特性はわからないらしい。
「大気圏に突入したときに、表面が焼かれているのは間違いありません。ですから、色はこのあたりの石よりも黒いはずなんですが──」
「向こうに行ってみますか。施設に近いところに落ちていたら、だれかがその音を聞いていると思いますよ。職員に聞いてもだれも知らないと言っていましたから、もっと富士の近くかもしれない」
上った丘を、今度は下る。細かな砂利が人間よりも先に転がり落ちていく。
「先生には、笑われるかもしれませんが」
立花二尉は、これから言うのは冗談だと相手に理解させるように、わざと笑みを作って准教授を振り返った。
「天文学者の方から見て、宇宙人というのは、いると思いますか?」
准教授は笑わなかった。
二尉をちらりと見たあと、それまでと同じ表情でうなずいただけだった。
「いるでしょうね、まず間違いなく」
「……まず間違いなく、ですか」
聞いた二尉のほうが拍子抜けして呟くと、はじめて准教授は興味を持ったかのようにしゃべりはじめた。
「宇宙人という言葉からイメージするものは、わかりません。巨大な頭部を持った二足歩行の、ひとがたのものが存在するかどうか、というなら、それはむずかしい。ご存知とは思いますが、この地球上ですら人間とよく似た生物はほとんどいないのです。地球という、人類のふるさとにさえ人類と見間違えるほどのものはほとんどいないのは──考えてみればふしぎと思いませんか?」
「まあ、たしかに、そうかもしれませんが……」
「人類は地球で誕生し、進化しました。つまり地球の環境は人類という生物の形を作り上げるのに適している──いや、正しくは逆で、人類はこの環境に適応してこの形になったわけです。しかしほかの生物は、われわれと同じ環境に様々なアプローチで適応しました。ときには体重を支えるために四足歩行となり、ときには足を退化させ、ときには六本の足と外骨格で重力に耐え、ときには前足を羽根として空を飛び、ときには水中で繁殖する術を得た──そう考えれば、この広い宇宙空間、数えきれない様々な環境のなかで、それに適応して進化した生物がひとつもいないなんてことは考えにくい。同時に、その生物が人間と瓜二つである可能性は、限りなく低いと言わざるを得ない」
「しかし、ある種の知的生命……高い知能を持つ生物は、みんな似たような身体構造になっていくものじゃないんですか? たとえば地球上の動物でも、やっぱり人間から遠く離れた体を持つ生物より、チンパンジーやオラウータンのような霊長類のほうが高い知能を持っているでしょう」
「それは人間と似たような進化を辿ったせいでしょう。この形でなければ高い知能は生まれない、というわけではない。そして生存していくために必ずしも高い知能が必要だとは限りません。たとえば植物は、人間を基準とした知能は有していませんが、地球上のあらゆるところに生存している。環境に適応して生きていく、という意味では、人間などはむしろ知能を持ちすぎているともいえるわけです。ここまで知能が高くなくとも、地球上で生存して繁殖していくことは充分に可能なわけですから」
「まあ、それはそうですが、たとえば地球上から月や火星、太陽系の外へ出ていけるようなものは、やはり高い知能が必要でしょう。植物にロケットを作って地球上から飛び立つことはできない。ですから、もし宇宙人というものがいて、地球人たるわれわれと出会うとすれば、それは宇宙人が母星を離れて宇宙を旅してきたということになるわけですから、当然──」
ふと、二尉は押し黙った。
かすかに音が聞こえたような気がした。
丘を下りきって、富士山のほうへ歩き出したところだった。
明確な音というより、すこし離れたところで鳴っている音が、ふと風に乗って聞こえてきたような──となり町の町内放送が一瞬だけ聞こえたような、そんな音だった。
施設のほうでなにか放送でもしたのだろうか。それともただの気のせいか。
立花二尉はしばらく押し黙っていた。准教授もしゃべらなかった。音は聞こえなくなり、気のせいだったということにして、また歩き出す。
「あなたのおっしゃるような存在だとすれば、そうでしょうね」と准教授。「母星から離れ、遠い宇宙を旅して地球人と出会う生命体があるとすれば、それは間違いなく高度な知能と文明を持っているでしょう。しかしそれでも、姿形が人間と似ているとは考えにくい。腕は六本かもしれないし、八本かもしれないし、もっと多いかもしれない。腸で思考する生物かもしれないし、光合成を利用するため表面積を増大させる一方で臓器のほとんどを退化させているかもしれない……考えうるかぎりの可能性があるわけです。それに、宇宙人というより宇宙生命体だと考えると、なにも高度な知能など必要ない。宇宙環境に耐えられるある種の微生物やウイルスのようなものと遭遇するほうが、人間とよく似た宇宙人と遭遇するよりは可能性が高いでしょう」
「微生物やウイルス、ですか──それが地球上に広まると、やっぱり、まずいんでしょうね」
「どうでしょうか。微生物やウイルスというのは、案外、生存できるレンジが限られている」
「レンジ?」
「つまり許容できる外部環境です。周囲の気温や水分、大気の構成……酸素がなければ死んでしまう微生物がいれば、逆に真空状態のほうが活発になる微生物もいる。しかしそのどちらにも耐えうるという生物は決して多くない。温度にしても、三十五度なら生存できても、三十八度を超えると死滅してしまうような微生物、ウイルスもいる。ですから、宇宙空間に適応した生物が地球環境で繁殖できる可能性は低いですし、ましてや人間やほかの生物に感染するようなことは──なんの音でしょう?」
今度は先ほどよりも明確だった。
ぶうん、と蜂の羽音のような低い振動音が聞こえた。
モーターの振動音にも似ている、と立花二尉は思ったが、その音は常に低い振動音というわけではなく、急速に高くなったり、減退して聞こえなくなったり、またはっきりとわかるほど大きくなったり──自然現象ではない、明らかに人工的なものを感じさせる音だった。
音がどこから聞こえてくるのかはわからない。
ふたりはあたりを見回し、やがて歩き出す。自然とそれは音の発生源を追う方向になっている。
「不発弾などは、まあ、ないとは思いますが、一応足元に気をつけて、なにか変わったものがあったら踏まないようにしてください」
二尉は改めて言った。
なんとなく、実弾を使った訓練のときのような緊張感が生まれていた。
音は西の方向、富士山の方向から広がっているように思えた。
自衛隊が持つ装備の音ではない。いままでこんな音は聞いたことがないし、今日は演習場ではなにも行っていないはずだった。
米軍の施設も近くにある。その関係かとも思ったが、しかしいかに米軍といっても通達なしで自衛隊の演習場を使用することはあり得ない。
音は着実に近くなっていた。
ぶうん、ぶうん、と周期的に振動音を感じる。鼓膜だけでなく、肌で、それがわかる。空気が震えている。低い振動から高い振動。まるで、と二尉は思う、なにかが歌っているようだ──。
「あれは?」
准教授がふと指をさした。
前方──四、五十メートルほど離れたところに、なにか、黒々としたものが見える。
大きさは人間の頭部ほど。それが植物もない砂利の上にぽつんと置かれていた。
不発弾には見えなかった。
准教授が先に近づいていく。
「気をつけて」
二尉は言ったが、准教授にその言葉が聞こえているかはわからなかった。
振動はいよいよ大きくなっていた。
空気に合わせて、全身がびりびりと震える。自衛隊の迷彩服に振動体が織り込まれているかのように、強烈な振動があたり一帯に広がっていた。
二尉も准教授の後ろを追ったが、准教授はもはや目の前に現れた「それ」しか見えておらず、ずんずんと進んでいく。
あれは、准教授が探していた隕石なのだろうか。しかしこの音は?
二尉は足を止める。それ以上近づけない。振動が、まるでバリアのように行手を阻んでいる。准教授は前かがみになり、強風に立ち向かうような姿勢で、それでも近づいていた。
「それ以上は危険だ! 引き返してください、先生──」
声は届かない。
振動がさらに強くなった。
二尉は耳を塞ぐ。それでも振動がはっきりわかる。体が振動している。低音から高音。高音の震え。いままで聞いたこともない音楽を全身に浴びているような。
肌がぴりぴりする。二尉は自分の体を見下ろし、声にならない声を上げた。
迷彩服がぼろぼろにほつれていた。
何百年も雨風に晒されていたように端から繊維が分解され、空中に、まるで白い寄生虫がのたうつように漂っている。
なんだ、これは。
声にならない。
全身が振動している。
音を奏でているのだ。
二尉は視線を上げた。
准教授は隕石のすぐ近くまで進んでいた。しかしいまは動きを止めている。その黒い髪が逆立っているのが見える──と、不意に、髪が根本からちぎれて空中にさまよい出した。
まるで無重力の空間を見ているようだった。
髪の一本一本が振動に乗っているのだ。
髪だけではない。
准教授の周囲に、白い靄のようなものが現れている。
しばらくして立花二尉は、それが准教授の体を構成するものだと理解した。
皮膚が剥がされ、脂肪がぶるんぶるんと震えながら破壊され、血液が舞い上がり、細胞が破壊されていく。
准教授が分解されているのだ。
共振──。
准教授だったものは、いまでは、ひとの形を保っていない。
骨さえも細かな粒子になり、それが振動に合わせて奇妙な波紋を作り出していた。
二尉は踵を返そうとしたが、もう遅かった。
二尉は自分の体が分解されていくのを感じていた。
痛みはなかった。
それはむしろ甘美な感覚だった。
あまりにも美しい、天上に響き渡る音楽に身を任せているかのような、涙が出るほどに安らいだ気分だった。
ヴァイオリンやヴィオラ、チェロのような弦楽器に、シンバル、ドラム、ハープにシタール──ありとあらゆる音色が全身を包み込む。
リズムとメロディ。調と逸脱。刻一刻と変わっていくテンポと、そのなかに残るかすかなリフレイン。奏でているものと聴いているものが一体化する。
自分というものがほどけていく。
複雑に絡み合っていた糸が、するすると一本の糸へと解体されていく。
立花二尉は命を感じた。
なにかが自分のなかに入ってこようとしている──いや、ちがう、自分という振動体を、なにものかが鳴らしている。
この響き、振動、音楽は、命なのだ──宇宙から飛来したちいさな石が命を鳴らしているのだ。
あるいはこの音楽そのものが命なのかもしれない。隕石は単なる振動体でしかなく、音楽的生命体とでも呼ぶべきものがそこに宿っているだけなのかも──。
立花二尉だったものは目に見えないほどの細かい粒子となり、音楽に舞い、その振動体の一部となる。
やがて周囲には、その音楽を感じるものはなにもいなくなった。
それでも黒い石は歌っていた。
自らの命が尽きるまで。
■了




