Night of the Hunter's Moon
満月の夜は好きじゃない。
昔からそうだった。
コンビニで飲み物を買って、外に出る。
今は十月、呆れるほどの残暑もさすが何処かに去って、夜はだいぶ過ごしやすくなっていた。
そこかしこから虫の音が聞こえる。
空には煌々と輝く丸い月。
今年はちょうど今日が中秋の名月だったはず。
英語でも何か特別な呼び方があったな、十月の満月。
月を見上げてそんなことを考え、歩き出そうとすると声をかけられた。
「あの」
振り向くと、私に続いてコンビニから出てきたのは若い男。
地味なジャケット、地味なズボン。
きちんと刈り込まれた短髪に、眼鏡をかけていて、人が良さそう……それ以外には、これと言った印象が残らない、そんな感じの顔立ち。
「すみません、立ち入ったことを聞くようで恐縮ですが……どちらへ?」
私は無言でこれから向かおうとする方を指差す。
「ああ、やっぱり……あっちは人通りもないし、先へ行くにつれ、民家も街灯もどんどん少なくなるんです……危ないですよ、いくらなんでも、あなたのような年頃の……女性の一人歩きは……誰かに迎えに来て貰うとか、できないんですか?」
「無理、迎えに来てくれるような人はいないの」
私はふわふわとした口調で――なるべくそう聞こえるといいなと思いつつ答える。
「じゃあせめてタクシーを呼ぶとか……」
「それも無理、お金、あまり持ってないの」
「まいったな……」
男は、頭を掻きながら少し考える。
「――こうしましょう、僕も一緒に行きます」
「なぜ?」
「危ないからですよ、ご存知ないんですか?」
「何かあったの?」
「コンビニにも貼り紙があったでしょ? 行方不明事件が起きてるんです、この辺りで、二件ほど、いずれも若い女性で、しかも二件とも、今日のような満月の夜にね」
「見ず知らずの男の人と連れ立って歩くのも、それなりに危ないと思うけど?」
「ああ、ええ、そうですよね……仕方がないな」
男は懐に手を入れ、何かを取り出す。
「私服警官――刑事なんです、僕は」
男が取り出したのは、警官である事を示すバッジの付いた身分証、いわゆる警察手帳だった。
「事件のあった夜に似た状況――満月の夜なので、現場付近で不審な人物がいないか見回っていたんですが、まさかこんな無謀な女性がいるとは」
男の言った通り、歩くにつれ、道路脇の民家は少なくなってきた。
絶え間ない虫の音の他は、うら淋しい道に、二人分の足音が響くだけ。
時おりトラックや乗用車が音を立てて通り過ぎ、それが行ってしまうと再び虫の音が辺りを満たす。
やがて民家も途絶え、道の片側は雑木林、もう片側は工事現場か資材置き場か、コンクリートの塀が延々と続いている。
「それで、どこまで行かれるんですか?」
並んで歩いている男が訪ねてくる。
「そうね、もう少し先」
男と並んで歩きながら、私は話し出す。
「ニュースを知らないといったのは嘘、むしろ色々と調べてみたの」
「そうなんですか?」
「ええ、考えていたの、例えば、物陰から突然襲いかかったとか、あるいはずっと後をつけて、というのであれば、被害者が悲鳴を上げるのを防げないはず――最終的には口をふさぐとしてもね」
「かも、しれませんね」
「でも、誰一人悲鳴を聞いていないし、争う様子も目撃されてない、誘拐だとしたら、信じられないほど素早い仕事ぶり」
「確かに」
「ところで、犯人については年齢も性別も分かっていないはず、にもかかわらず、現場近くに現れた不審な行動を取る女を――私のことを疑いもしない、何故なのかしら? 例えば犯人を誰よりもよく知っているとか――」
突然、抱きすくめられ、口を塞がれる。
持っていたペットボトルが地面に転がり、音を立てた。
「探偵気取りの馬鹿女が」
さっきまで傍らを歩いていた男は、凄い力で私を抱きしめて両手の自由を奪い、口を塞いだまま、道路脇の雑木林の奥へと私を連れ込んだ。
「……この辺かな、うん、この辺なら良さそうだ」
雑木林の中、私を抱えたまま暗い獣道を信じられないほどの速さで駆けた男は、木々が開けた場所で乱暴に私の体を放り出す。
暗がりの中でも男の瞳が赤く光り、白い犬歯がひどく長く伸びているのが分かった。
「助かったよ、うん、本当に助かった、堪えようとしたけど、月が丸くなるにつれ、どうしても我慢できなくなってね、手頃なのを探していたんだ……君みたいな……馬鹿な女を」
倒れたままの私に男はのしかかり、右手を私の首にかける。
「泣いてもいいし、喚いてもいいよ、むしろ聞きたいなぁ、君がどんな風に泣くのか」
言いながら舌を、ひどく長い舌を伸ばし舌なめずりをする。
吐く息は微かに死者の匂いがした。
「……なぜそんなに落ち着いている? 自分がこれからどうなるか、想像できないほど馬鹿なのか?」
「馬鹿は貴方」
「なんだと!?」
男の手に力がこもる。
「やめて」
「はい」
男の動きが止まる。
首にかけられていた手が離れていく。
「下がれ」
「はい」
言われるまま、男は立ち上がり、一歩後ろに下がる。
私は立ち上がった。
「跪け」
「はい……ええ?」
男はその場で跪いた。
なぜ命じられるまま言う事を聞いてしまったのか、理解ができないという顔をしている。
「魅了よ、ただべらべらと喋っていたと思った? 言葉のリズムと抑揚、それにわずかの間でも私と目を合わせた、条件として充分だったわ」
「魅了って……まさか……」
もういいだろう。
「これだからなりたては駄目なのよ、狩りの獲物にしようとしている相手が、何者なのかも気付かないなんて」
私は抑えていた力をゆっくりと解いていく。
「同族……そんな……気配は少しも……」
「長生者にとっては気配を抑えて人間のふりをするぐらい朝飯前、教わらなかったの?」
男は黙って首を横に振る。
まるで子供がいやいやをするように。
「それに狩場の選び方もろくに教わらなかったの? 同じ場所で続けて二人も狩って、おまけに三人目もだなんて、駄目にも程があるわ」
言葉の合間に、私は思わずため息を漏らす。
「――でも良かったわ、貴方がほどほどのクソ野郎で……罪悪感に責め苛まれながら、仕方なく人の血を吸っているようなタイプだったら、こっちも心が痛むもの」
男は尻餅をつき、後退りを始めていた。
私の牙が伸び、爪が伸びるのを感じる。
「言ってたこと、良くわかるわ……昂るのよね、満月の夜は……魔物はみんなそう、そして私も」
視界が深紅に染まる。
我に返ると、足元には干乾びた襤褸が転がっていた。
辺りに飛び散った派手な血痕。
背後から声がした。
「お済みですか、お嬢様?」
セバスチャン、人間であるのにもかかわらず、吸血鬼の私に好き好んで仕えている変わり者。
セバスチャンというのも私が戯れに付けた呼び名。
付けた時には、呼び名のイメージとは程遠い若造だったのに、今ではすっかり家令姿が板について、まるで生まれたときからセバスチャンでございます、という顔をしている。
「……ごめんなさい、服を汚してしまったわ……それにこいつ、たいしたことは知らなかった……親の居所も」
そう、こいつはまだヴァンパイアになって間もない新参者だった。
つまり、こいつをヴァンパイアに変えた“親”がまだどこかに、おそらく、そう遠くはない場所にいるはず。
だけどこいつは自分の親の居所もろくに把握していなかった。
「お車に、替えの御召し物の用意がございます……洗濯も私めの仕事うちですので」
「ありがとう……これだから満月の夜は嫌いなの」
まあいい、時間はたっぷりある、私の縄張りを侵した者は、何処に居ようと逃がしはしない。
足元の襤褸が端からゆっくりと塵になっていく。
月を見上げ、思い出した。
狩人の月、十月の満月がそう呼ばれていたことを。
完