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歩く死亡フラグ(ヒロイン)とのエンカウント ①

イザベラの来訪という嵐が過ぎ去り、俺とリリアの生活には再び穏やかな時間が戻ってきた。いや、以前よりもずっと、温かく、満たされた日々だったと言えるかもしれない。

リリアは日に日によく笑い、よく話すようになった。俺が厨房に立てば、「今日のごはんはなあに?」と目を輝かせながらついてきて、小さな椅子に座って俺の手元をじっと見ている。その姿はもう感情の乏しい人形ではなく、父親に懐く、ごく普通の可愛らしい少女そのものだった。

彼女の笑顔は俺の心の何よりの栄養剤だった。この笑顔を守るためなら、どんな困難も乗り越えられる。そう、本気で思えるようになっていた。


屋敷での生活が安定する一方で、俺のもう一つの戦場――王立魔法学園での研究も少しずつだが進展を見せていた。

例の忌まわしき「自動吸収術式・魂喰いの揺り籠」。その複雑怪奇な構造を、俺は錬金術と化学、二つの知識体系を駆使して、連日連夜、解き明かし続けていた。

そして、ついにその核心部分の解析に成功したのだ。


「なるほど。術式の核はリリアに直接接続されているのか。そしてこの旧校舎からひそかに吸収し、届けられていると」


旧校舎の秘密工房で、俺は解析結果が記された羊皮紙を前に呻いた。

この術式が「パッシブ」で「制御不能」な理由はそこにあった。術者の意思とは無関係に心臓が鼓動するのと同じように半永久的に周囲のマナを吸収し続けるように設計されている。これを完全に停止させるにはやはり俺自身のマナ回路に深刻なダメージを与えるリスクを覚悟しなければならない。


「……だが、バイパスを構築する道筋は見えてきた」


術式を停止させるのではなく、そのエネルギー源を「生命力マナ」から、別のものに切り替える。例えば、特定の鉱石が発する微弱なエネルギーや、自然界に満ちる精霊の力。そういった、人体に無害なエネルギー源に接続を切り替えることができれば、ティアナを苦しめることもなく、リリアの身体を維持することも可能になるはずだ。

それはいばらの道だ。必要な素材も術式の改変も一筋縄ではいかないだろう。だが、ようやく一筋の光が見えてきたことに俺は静かな興奮を覚えていた。


「よし、今日はここまでにするか」


研究に一区切りをつけ、俺は工房を後にした。時刻はもう放課後をとうに過ぎている。夕暮れのオレンジ色の光が、校舎の廊下に長い影を落としていた。

早く屋敷に帰って、リリアに夕食を作ってやらなければ。今日のメニューは彼女からのリクエストで、もう一度オムライスを作ることになっている。


そんなことを考えながら、俺は中庭を突っ切って正門へと向かっていた。

学園の中庭はよく手入れされた美しい庭園だ。中央には女神像が水を噴き上げる壮麗な噴水があり、生徒たちの憩いの場となっている。

その噴水の近くを通りかかった、まさにその時だった。


「わわっ!?」


すぐそばで、間抜けな悲鳴が上がった。

反射的にそちらを向くと、一人の女生徒が、何もないはずの石畳につまずき、盛大にバランスを崩しているのが見えた。

小柄な身体が、大きくぐらりと傾く。その先にあるのは――噴水の硬い大理石の縁だ。あの勢いで頭でもぶつけたら、ただでは済まない。


(――危ない!)


思考よりも先に身体が動いていた。

俺はほとんど無意識に地面を蹴り、その女生徒の腕を掴んで、力任せに自分の身体の方へと引き寄せた。


どん、という鈍い衝撃。

俺の胸の中に柔らかく、そして温かい何かが飛び込んできた。甘い、焼きたてのパンのような匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

腕の中には小柄な少女がすっぽりと収まっていた。

俺は彼女がしっかりと自分の足で立つのを確認すると、すぐに身体を離した。


「大丈夫か。怪我は?」

俺はアレクシスの常として、抑揚のない声で尋ねた。

「ははい! だ、大丈夫です! ありがとうございます! あの、その助けていただいて……!」

少女は真っ赤な顔で何度もぺこぺこと頭を下げている。その慌てふためく様子はどこか小動物を思わせた。

赤みがかった茶色の髪を、快活なポニーテールに揺らしている。制服のリボンの色からして、新入生だろう。その大きな瞳はまだあどけなさが残る顔の中で、キラキラと輝いていた。


その顔を、俺は知っていた。

いや、知りすぎていた。

ゲームのパッケージで、オープニングムービーで、そして数多のイベントスチルで、嫌というほど見てきた顔だ。


(……うそ、だろ……)


背筋を、氷水のような悪寒が駆け上った。

目の前にいるこのドジで、天真爛漫で、そして底抜けにお人好しそうな少女こそが――

乙女ゲーム『星降りのシエル』の主人公。

そして、俺がこの世界で最も関わってはいけない、歩く死亡フラグそのもの。

シエル・クロウリー、その人だった。



「あの、先生、ですよね? 錬金術の臨時教官の、ヴァイスハイト先生……」

シエルは俺の顔を下から恐る恐る見上げてくる。その大きな瞳には戸惑いと、そして人命救助(?)への純粋な感謝の色が浮かんでいた。

俺は心の中で盛大に舌打ちをした。

最悪だ。最悪のエンカウントだ。

なぜ、よりにもよって、俺が。

原作ゲームではこの「噴水イベント」は彼女が第一王子であるラインハルトと出会う、記念すべき最初のフラグ成立イベントのはずだった。それを、こともあろうに俺が横から掻っ攫う形になってしまった。


(やばい、やばい、やばすぎる!)


脳内で警報が鳴り響く。

この少女と関われば、破滅は確定だ。今すぐにこの場から立ち去らなければ。

俺はシエルに何も言わずに背を向け、足早にその場を離れようとした。


「あぁどうしよう…。お昼ごはんが……」


彼女は濡れなかったが、代わりに昼食が噴水に落ちていた。

そうだ、確かこのイベントは王子が代わりにランチを奢るきっかけになるやつで――。

いや、俺が王子の代わりをやる必要はない。

変に恩や義理を持たれても困る。

かといって、無視をするのも恨みを買いそうだ。

わりと食い意地が張っているからな、このヒロイン。


「買えばいいだろう。購買にならまだ――」

「いえあの、えへへ。実は今手持ちが」

「わかった。今日は8ルド貸そう。後日でいいから返しなさい」


8ルド(この国の通貨)ぶんの硬貨を彼女の手に握らせた

手持ちがないからといって食事には誘わない。

お金もあげない。

なるべくケチで、暗く振舞い、嫌われておこう。

我ながら酷い選択を取った。


「あ、あの! 待ってください、先生!」

しかし、シエルはそんな俺の服の裾を、慌てて掴んできた。

「何だ」

俺は振り返らずに地を這うような低い声で答えた。少しでも威圧して、彼女が怯んでくれれば、という浅はかな期待を込めて。

だが、このヒロインはそんなことで怯むようなタマではなかった。


「お名前を、ちゃんとお聞きしたくて! 濡れないように助けていただいたのにお礼も言えないままでは失礼ですから!」

彼女はどこまでも真っ直ぐだった。

俺は観念してため息をつくと、ゆっくりと振り返った。

隠したところで教職ゆえにすぐわかるだろう。

あの不気味な男は誰か、でな。


「アレクシス・フォン・ヴァイスハイトだ」

「アレクシス先生、ですね! 覚えました! わたし、シエル・クロウリーと言います! 入学したばかりで、まだ何も分からなくて……」

彼女はぺらぺらと自分のことを話し始める。その屈託のない笑顔は確かに魅力的だ。攻略対象たちが、彼女に惹かれていくのも頷ける。

だが、俺にとっては悪魔の微笑みにしか見えない。


「そうか。もういいか。俺は急いでいる」

俺は会話を強制的に打ち切ると、今度こそ彼女を振り払って歩き出した。

「あ……、はい! 引き留めてしまって、すみませんでした! 本当にありがとうございました!」

背後から、彼女の元気な声が聞こえてくる。俺は一度も振り返ることなく、ほとんど逃げるようにして、学園の正門へと向かった。


辻馬車に乗り込み、屋敷への帰路につく。

俺は座席に深く身を沈め、大きく息を吐き出した。心臓が、まだドクドクと嫌な音を立てている。

たかが、ぶつかって助けただけだ。それだけのこと。

そう自分に言い聞かせようとするが、胸のざわめきは収まらない。

ゲームの強制力、というものがあるのなら。

俺が意図せずして、彼女の最初のイベントをこなしてしまったことはこれから先の物語にどんな影響を及ぼすのだろうか。


(いや、考えすぎだ)


俺はぶんぶんと頭を振って、嫌な想像を追い払った。

今回のはただの事故だ。幸い、俺は彼女に悪印象こそ与えなかったものの、好印象も与えてはいないはずだ。ただの、無愛想でちょっと怖い先生。その程度の認識だろう。

これからは今まで以上に彼女との接触を避けよう。半径五メートル以内への接近は絶対に禁止だ。


そう、自分に強く誓い、俺は思考を切り替えることにした。

そうだ、今はリリアのオムライスのことだけを考えよう。彼女の喜ぶ顔を思い浮かべれば、こんな胸のざわめきなど、すぐに消えてしまうはずだ。


しかし、この時の俺はまだ、知らなかった。

このささやかなエンカウントが、すでに運命の歯車を、原作とは全く異なる方向へと、静かにしかし確実に軋ませ始めていたということを。

そして、シエル・クロウリーという少女が、俺の想像を遥かに超える「トラブルメーカー」であったということを。

俺の平穏な日常はこの日を境に少しずつ、しかし確実に侵食され始めていくことになるのだった。

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