偽りの娘と、本当のオムライス ④
リリアの小さなスプーンが、皿の上の最後の一粒の米をすくい上げる。彼女はそれを名残惜しそうに口に運ぶと、満足のため息をついて、満面の笑みで俺とイザベラを交互に見た。
「ごちそうさまでした! とってもとっても美味しかったです!」
その声は春の陽光のように明るく、弾んでいた。
「お父様のお料理は世界一で、そして、お母様も一緒に食べてくださって……リリア、今日という日が、生まれてきて一番幸せです!」
そのあまりにも無邪気で純粋な言葉に俺は胸を打たれ、そして同時にイザベラの反応を窺った。
イザベラは娘のストレートな愛情表現に一瞬虚を突かれたように目を丸くしたが、すぐに扇で口元を隠し、ふい、と顔を背けた。
「……大げさな子ね。たかが食事くらいで」
その声はいつも通りの冷ややかさを装っていたが、耳の先がわずかに赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。おそらく、娘からこんな風に真っ直ぐな好意を向けられた経験が、彼女にはほとんどないのだろう。どう反応していいか分からず、戸惑っているのだ。
リリアはそんな母親の素っ気ない態度にも全くめげず、嬉しそうに続けた。
「いいえ、大げさではありません! お父様はわたくしのために毎日美味しいごはんを作ってくださるのです。お父様が変わってくださったから、こうしてお母様も会いに来てくださった。全部、お父様のおかげです!」
彼女はそう言うと、椅子からぴょんと飛び降り、俺のそばに駆け寄ってきて、ぎゅっと俺の腕にしがみついた。その小さな身体から伝わってくる絶対的な信頼と愛情。
その温もりに俺の中で、また一つ、硬い殻が音を立てて砕けていくのを感じた。
(ああ、もうダメだ)
可愛い。
可愛いすぎる。
なんだこの生き物は。天使か? 天使だな。
偽物の娘? ホムンクルス? そんな話、もはや些細なものだ。こんなに健気で、素直で、俺のことを「お父様」と慕ってくれるこの子を、可愛くないと思う方が無理だ。
俺の腕の中で、嬉しそうに頬をすり寄せるリリア。その柔らかい銀髪の感触に俺の心は完全に陥落した。
(守ろう。絶対に)
心の底から、そう思った。
破滅フラグが何だ。元妻が何だ。この子の笑顔を守れるなら、俺は悪魔にだってなってやる。
俺はリリアの頭を優しく撫でた。その手つきはもうアレクシスの記憶をなぞったものではなく、俺自身の不器用だが確かな愛情が込められていた。
「そうか。リリアがそういうのなら、また三人で食事を囲えるようにしよう」
「本当ですか!? やったあ!」
俺たちのやり取りを、イザベラは黙って見ていた。その金の瞳に浮かんでいるのはもはや嘲りではない。嫉妬、焦燥、そして自分でも理解できない、戸惑いの色だった。
彼女が捨てた男。
彼女が見向きもしなかった娘。
その二人が、自分の知らないところで、こんなにも温かく、完璧な「家族」の光景を作り上げている。
その事実が、イザベラの胸を、針で刺すようにちくちくと痛めつけていた。
「……くだらない」
イザベラは心の中で悪態をついた。
一度手放したおもちゃに他の子供が楽しそうに遊んでいるのを見て、急に惜しくなる。今、自分が感じている感情はそんな子供じみた独占欲に過ぎない。
私には若くて、情熱的で、私だけを崇拝してくれる騎士がいるじゃないか。こんな過去の男に今さら心を乱されるなんて、馬鹿げている。気の迷いだわ。
彼女は自分にそう言い聞かせるようにすっと立ち上がった。
「長居をしすぎたようね。私はもう王宮に戻るわ」
その声はいつもの冷徹な響きを取り戻していた。彼女は込み上げてくる厄介な感情を、プライドという名の分厚い氷で無理やり凍らせてしまったのだ。
「えっ、お母様、もうお帰りになるのですか……?」
リリアが、寂しそうな声を上げる。
イザベラはそんな娘の顔を直視せず、踵を返した。
「ええ。長官は忙しいの。リリア、あなたもあまり父を困らせるのではないわよ」
それは母親としての言葉というよりは上官が部下に注意を促すような、形式的な響きだった。
そして、食堂を出ていく直前、彼女は一度だけ足を止め、俺の方を振り返った。
「アレクシス」
「何だ」
「その料理の腕、どこで覚えたの? 新しい女でもできたのかしら?」
それは捨て台詞のようでもあり、あるいは未来への布のようでもあった。
彼女はそれだけを言うと、今度こそ、足音も高く去っていった。
後に残されたのは静けさと、パエリアの残り香、そして、しょんぼりと俯くリリアの姿だった。
「……行っちゃった」
「ああ」
「でもまた、会いに来てくださいますよね?」
潤んだ瞳で俺を見上げるリリア。俺はその問いに何と答えるべきか、迷った。
イザベラが、再びこの家を訪れることはあるだろう。だが、それは決して、リリアに会うためではない。今日の出来事で、彼女は俺という「過去の男」に新たな興味を抱いてしまったからだ。
だが、そんな残酷な真実を、この純粋な娘に告げることはできなかった。
俺はリリアの前にしゃがみこみ、その視線を合わせると、できるだけ優しい声で言った。
「さあな。だが、もしお母様が来てくれなくてもお父様はずっと、リリアのそばにいる。それじゃあ、ダメか?」
俺の言葉にリリアは数回、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、やがて、その顔にふわり、と花が咲くような笑顔が戻った。
「……いいえ。お父様がいてくだされば、リリアはそれだけで幸せです!」
彼女は再び俺の首に抱きついてきた。
俺はその小さな身体を強く、強く抱きしめ返した。
イザベラの来訪は確かに嵐のようだった。
だが、その嵐は俺とリリアの絆を、より一層、固く結びつけてくれたのかもしれない。
そして、俺の心に「父親」としての、揺るぎない覚悟を刻み付けてくれたのだ。
この温かい食卓を、この子の笑顔を、俺は絶対に誰にも壊させはしない。
たとえ、その相手が、この世界の理不尽な運命であろうとも。