偽りの娘と、本当のオムライス ③
穏やかな日々は突如として破られた。
その日も俺は厨房でリリアのための昼食の準備をしていた。メニューは最近リリアが気に入っている魚介のパエリアだ。サフランの鮮やかな黄色が米を染め、魚介の香ばしい匂いが厨房に満ちている。
「アレクシス様、味付けはいかがいたしましょう?」
料理長が、俺の隣で手際よく野菜を刻みながら尋ねてくる。今では俺が厨房に立つのは日常の光景となり、料理人たちとも奇妙な連帯感が生まれていた。
「ああ、塩は控えめに。魚介の出汁を活かしたい」
「畏まりました。さすがでございますな」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
「――まあ、みっともない。公爵家の嫡男が、使用人に混じってエプロン姿とは。聞いてはいたけれど、本当に人が変わってしまったのね、あなた」
氷のように冷たく、そして刃のように鋭い声が、厨房の入り口から響いた。
その声を聞いた瞬間、厨房内の陽気な空気が、ぴしりと凍り付いた。料理人たちは血の気が引いた顔で動きを止め、俺もまた、パエリアパンを握る手にぐっと力が入る。
ゆっくりと振り返ると、そこに彼女は立っていた。
炎のように燃える赤い髪を、最新の流行りであろう複雑な結い方でまとめ上げ、身体の線を惜しげもなく誇示する深紅のドレスを纏っている。その手には孔雀の羽で飾られた扇。全てを見下すように細められた金の瞳が、嘲りを含んで俺を射抜いていた。
イザベラ・ド・ヴァレンティン。
俺がこの世界で最も会いたくない人物の一人。彼女は俺の変化に関する噂を聞きつけ、わざわざそれを揶嘉いにこのヴァイスハイト家の厨房まで足を運んできたのだ。
「何の用だ、ヴァレンティン卿」
俺は努めて無感情に彼女の貴族としての姓で呼びかけた。もう彼女は俺の妻ではない。
イザベラは俺のその呼び方に面白そうに扇で口元を隠した。
「つれない挨拶ね、元夫殿。少しは驚いたらどうなの? それとも料理に夢中で、私という女のことなど、すっかり忘れてしまったかしら?」
「用件を言え。俺は忙しい」
俺の素っ気ない態度にイザベラの金の瞳がわずかに険しくなった。
彼女が知るアレクシスは彼女を前にすると怯えて何も言い返せない男だったはずだ。予想外の反応に彼女のプライドが刺激されたのだろう。
「用件なら、あるわ。あなたが変わったという噂を聞いて、この目で確かめに来てあげたのよ。それに……」
彼女は俺の背後、厨房の入り口で様子を窺っていた小さな人影に視線を移した。
「そこにいる私の“娘”にも久しぶりに会っておこうと思ってね」
その言葉に厨房の入り口に隠れるように立っていたリリアの肩が、ぴくりと震えた。
「……お母、さま……?」
リリアが、か細い声で呟く。その声には戸惑いと、そして確かな喜びの色が滲んでいた。
彼女は俺の後ろからそろそろと姿を現し、イザベラの方へとおずおずと歩み寄っていく。ホムンクルスとして生み出されてから、母親に会うのはこれが初めてのはずだ。だが、アレクシスの記憶と、血の繋がりが、本能的に彼女を母親の元へと向かわせているのかもしれない。
「お母様! リリアです、お久しぶりです!」
リリアはイザベラのドレスの裾に駆け寄り、その小さな顔を見上げた。その瞳は期待にキラキラと輝いている。母親に会えた、という純粋な喜びが、その全身から溢れ出ていた。
しかし、イザベラはそんな娘の姿を、まるで道端の石ころでも見るかのような、無関心な目で見下ろしただけだった。
「ええ、そう。元気そうで何よりだわ。ずいぶんと……地味になったのね。昔はもっと、騒がしい子だった気がするけれど」
彼女はそう言うと、リリアの頭に形式的にポン、と手を置いた。そこには母親としての愛情など、微塵も感じられない。彼女にとってリリアはかつて自分が産んだという事実だけが存在するアクセサリー程度の認識なのだろう。
アレクシスの記憶が、その事実を裏付けていた。イザベラは娘の子育てを全て乳母任せにし、親権にすら興味を示さなかった。
それでもリリアは嬉しそうだった。
ほんの少し触れられただけの手。無関心な言葉。それでも母親に認識されたという事実だけで、彼女は満たされているようだった。その健気な姿に俺は胸が締め付けられる思いだった。
「ちょうど良かったわ、アレクシス。お昼がまだなの。あなたが作ったその料理、私もいただこうかしら。かつての妻と、可愛い娘と、三人で家族団らんの食事なんて、素敵じゃない?」
イザベラはわざとらしくそう言うと、俺の返事を待たずに厨房を出て、食堂の方へと向かってしまった。それは拒否など許さないという、彼女の傲慢さの現れだった。
リリアはそんな母親の後ろ姿を、名残惜しそうに見つめている。
「リリア、おいで。食事にしよう」
俺が声をかけると、彼女ははっとしたように俺を振り返り、「はい、お父様!」と、弾んだ声で答えた。その顔には先ほどまでの輝くような笑顔がまだ残っている。
その笑顔を見ていると、俺の心は複雑な感情で満たされた。母親に会えて喜ぶ娘の姿は微笑ましい。だが、その母親が、娘に何の愛情も抱いていないという事実が、俺を苛立たせた。
俺は出来上がったパエリアを大皿に盛り付け、食堂へと運んだ。
食堂ではすでにイザベラが尊大な態度で席に着き、リリアがその隣で、少し緊張した面持ちで座っていた。
俺が三つの皿にパエリアを取り分ける。
それは奇妙な食卓の光景だった。
過去に憎しみ合い、別れた元夫婦。
そして、その間に座る一人は本物だと信じ、もう一人は偽物だと知っている一人の少女。
「ふぅん、パエリアですって? なかなか洒落たものが作れるようになったじゃない。どれ、お手並拝見といきましょうか」
イザベラは女王様のような口調でそう言うと、フォークでパエリアを一口、優雅に口に運んだ。
そして、その動きが、ぴたりと止まった。
彼女の金の瞳が、驚きに見開かれている。
「……なによ、これ……」
彼女は信じられない、というように呟いた。
「ただのパエリアじゃない……魚介の旨味が、サフランの香りと完璧に調和して……隠し味に使っているのは柑橘系のジャム? なんて繊細で、複雑で……そして、温かい味なの……」
イザベラの予想外の反応に俺は少し面食らった。彼女は俺の料理を鼻で笑うとばかり思っていた。
「あの木偶の坊だったあなたが……こんな……こんな料理を、作るなんて……」
彼女はまるで初めて見る生き物でも観察するかのようにじっと俺の顔を見つめてきた。その視線にはかつてのような侮蔑の色はなく、純粋な驚きと、そして微かな「混乱」が宿っていた。
一方、リリアはそんな母親の様子など気にも留めず、夢中でパエリアを頬張っていた。
「お父様のパエリア、世界で一番おいしいのです! お母様もたくさん召し上がってください!」
満面の笑みでそう言うリリアにイザベラは我に返ったように「え、ええ……」と曖昧に頷く。
そして、俺は彼女の状況を探るために当たり障りのない話題を振ってみた。
「近頃、騎士団が騒がしいと聞いたが。何かあったのか?」
イザベラは王宮魔道具管理局の長官だ。騎士団の動向にも詳しいはずだ。
俺の問いに彼女は少し間を置いてから答えた。
「ああ、例の若い騎士のことね。ええ、相変わらずよ。素直で、情熱的で、私の言うことなら何でも聞いてくれるわ。あなたとは大違い」
彼女はわざと俺を挑発するように言った。
近衛騎士団に所属する15歳年下の美青年。それが、彼女の現在の愛人だ。記憶によれば、離婚の原因も彼女が当てつけのようにその若い騎士と浮気をしたことだった。
原作知識によれば、彼女は若く素直な愛人に情熱的な愛を囁かれることに満足している。
「そうか。それは何よりだ」
俺は心からそう答えた。彼女がその愛人と幸せでいてくれるなら、俺にちょっかいをかけてくることもないだろう。
しかし、その俺のドライな反応が、またしてもイザベラのプライドを刺激したらしかった。
「何よ、その態度は。少しは嫉妬でもしたらどうなの?」
「なぜ俺が? あなたの幸せを願っているだけだ」
「……っ!」
イザベラは悔しそうに唇を噛んだ。
彼女が期待していたのは昔のように彼女の言葉に傷つき、狼狽える俺の姿だったのだろう。あるいは彼女の新しい恋人に嫉妬する惨めな元夫の姿だったのかもしれない。
だが、今の俺は彼女に対して何の感情も抱いていない。あるのは「面倒な元カノ」くらいの認識だけだ。
その事実が、彼女を苛立たせ、そして同時に彼女の中に新たな感情の火種を生み出していた。
(――この男、本当に私の知っているアレクシスなの?)
自分の手に入らないもの。
一度は捨てたはずの、価値のないもの。
それが、自分の知らないところで輝きを放ち始めた時、人はそれに再び、どうしようもないほどの興味と執着を掻き立てられることがある。
イザベラは目の前で娘に優しくパエリアを取り分けてやるかつての夫の横顔をじっと見つめていた。
その穏やかな表情。
自分には決して向けられることのなかった、優しい眼差し。
そして何より、自分に全く興味を示さないその態度。
「…バカみたい」
彼女の唇から、小さな、しかし憎悪に満ちた呟きが漏れた。
それは俺への当てつけ、というより、くだらない嫉妬心を自覚し、自分を諫めたようだった。
その呟きは俺の耳には届かなかった。
俺はただ、嬉しそうにパエリアを食べるリリアの姿に目を細めていただけだった。