偽りの娘と、本当のオムライス ①
秘密の工房での研究と、屋敷でのリリアとの奇妙な共同生活。俺の第二の人生はその二つを軸に回り始めた。
昼間は王立魔法学園の臨時教官として、生徒たち――特にシエル・クロウリーとの接触を極力避けながら、旧校舎の工房で魂喰いの揺り籠の解析に没頭する。
そして夜、屋敷に戻れば感情の乏しい偽りの娘とのぎこちない時間が待っている。
あの日以来、俺はリリアと食卓を共にするようにしていた。
しかし、その時間は苦痛ですらあった。
テーブルにはヴァイスハイト公爵家の名に恥じない、一流の料理人が腕を振るった豪勢な料理が並ぶ。だが、リリアは相変わらず、俺が「食え」と命令するまで、目の前の料理に手を付けようとしない。
そして、いざ食べ始めてもその所作はあまりにも機械的だった。味を確かめるでもなく、ただ口に運び、咀嚼し、嚥下する。まるで、燃料を補給する機械のようだ。
その姿を見るたびに俺の胸は重苦しい罪悪感で満たされた。
食事とは本来もっと温かく、楽しいものであるはずだ。前世の俺は孤食が当たり前だったが、それでも美味しいものを食べた時には心が満たされるのを感じた。
だが、この子にはそれがない。彼女にとって食事は生命維持のための「作業」でしかない。そして、そうさせているのは他ならぬ俺――彼女の創造主であるアレクシスなのだ。
「リリア、それは鶏肉のクリーム煮だ。美味しいか?」
ある晩、俺はたまらず尋ねてみた。
リリアはこくりとクリーム煮を飲み込むと、俺の顔をじっと見つめ、そして静かに答えた。
「はい、お父様。栄養価の高い、優れた食事です」
「そうか」
俺はそれ以上、言葉を続けることができなかった。
彼女の答えは百点満点の食レポだ。だが、そこには「美味しい」という、最も重要な感情が、綺麗に抜け落ちていた。
彼女は俺が望むであろう「模範解答」を、ただ返してきているに過ぎない。
このままではいけない。
そう強く思った。
破滅フラグの回避も重要だが、それ以前に俺はこの小さな少女に対して、人として果たすべき責任がある。
俺は彼女に本当の意味での「食事の楽しさ」を教えたい。それが、俺にできる最初の贖罪かもしれない。
その日から、俺のささやかな挑戦が始まった。
まずは彼女の身体の状態を正確に把握する必要がある。俺は錬金術師としての知識を使い、リリアの健康状態を慎重に診断した。
結果は芳しくなかった。
ホムンクルスとしての身体は完璧に作られている。だが、それはあくまで「生命活動を維持できる」というレベルの話だ。長期的な視点で見れば、栄養バランスは偏り、特に特定のビタミンやミネラルが慢性的に不足していることが判明した。おそらく、アレクシスが与える「命令された食事」だけでは成長期の少女に必要な栄養素を網羅できていなかったのだろう。
「食事療法、か」
前世で食品メーカーの研究開発職だった知識が、ここで役立つとは思わなかった。俺は早速、執事のバルモラルを呼び、厨房の使用を許可するよう申し出た。
「アレクシス様が、厨房に? 一体、何をお作りになるおつもりで?」
バルモラルは老いた顔に隠しきれない驚きを浮かべていた。無理もない。これまで料理など一切興味を示さなかった主人が、突然厨房を使いたいと言い出したのだから。
「リリアの健康管理のためだ。栄養バランスを考慮した、特別な食事を俺が作る」
「……しかし、そのようなことは料理人にお申し付けくだされば」
「いや、俺がやる。これは錬金術の一環だ」
俺はそう言って、半ば強引に彼の言葉を遮った。錬金術、と言えば、この世界の人間は納得しやすい。実際、栄養学は突き詰めれば人体の化学反応を研究する学問であり、錬金術と通じる部分がないわけでもない。
バルモラルの許可を得た俺はその日の午後、初めてヴァイスハイト家の広大な厨房に足を踏み入れた。
大理石の調理台、巨大なレンガ造りのかまど、壁一面に並んだ銅製の鍋や調理器具。何もかもが、俺が前世で使っていた小さなアパートのキッチンとはスケールが違う。
厨房にいた料理人たちは俺の姿を見ると一様に目を丸くし、慌てて作業の手を止めて頭を下げた。
「皆、そのままでいい。邪魔はしない。少し、ここを借りるだけだ」
俺はそう言うと、料理長にリリアのために必要な食材をリストアップして渡し、用意させた。
鉄分豊富なレバー、緑黄色野菜、新鮮な果物。俺が指定した食材に料理長は「お嬢様はレバーのような癖のあるものはお嫌いかと……」と難色を示したが、「俺が調理する。問題ない」と一蹴した。
俺が最初に作ろうと決めたのはレバーパテと、ビタミン豊富な野菜をたっぷり使ったポタージュスープだった。レバーの臭みを消すためのハーブや香辛料の選定には錬金術の知識が役立った。特定のハーブの組み合わせが、素材の化学変化を促し、風味を向上させる。まさに味覚の錬金術だ。
慣れない厨房での作業は思った以上に時間がかかった。だが、食材に触れ、自分の手でそれを調理していく過程は不思議と俺の心を落ち着かせた。無心で包丁を動かし、鍋をかき混ぜる。それは前世の俺が唯一、仕事のストレスから解放される瞬間だった。
夕食の時間。
俺は自分が作った料理を自らリリアの前に運んだ。
「リリア、今日の夕食だ」
テーブルに並べられたのは俺が作ったレバーパテを添えたパンと、温かいポタージュスープ、そしてシンプルなサラダだけ。いつもの豪華な食事に比べれば、ずいぶんと質素に見える。
リリアは目の前の食事と俺の顔を交互に見た後、小さな声で尋ねた。
「これは……お父様が?」
「ああ、そうだ。お前のために作った。栄養がある。残さず食え」
俺はぶっきらぼうにそう言うと、自分の席に着いた。内心では彼女がどんな反応をするか、緊張で心臓が張り裂けそうだった。
リリアは俺の言葉に促され、おずおずとスプーンを手に取った。そして、スープを一口、ゆっくりと口に運ぶ。
その瞬間、彼女の紫の瞳がほんのわずかに見開かれた気がした。
ほんのわずかな変化。だが、これまで能面のように無表情だった彼女が見せた、初めての「反応」だった。
彼女は何も言わず、ただ黙々とスープを飲み進めていく。そして、パンにパテを塗り、小さな口で頬張った。
レバーが苦手な子供は多い。彼女も嫌がるかと思ったが、意外にも彼女は眉一つ動かさずにそれを食べた。
やがて、皿の上のスープもパンも全てが綺麗になくなった。
俺は固唾を飲んで彼女の言葉を待った。
「ごちそうさまでした」
リリアはナプキンで口元を拭うと、静かにそう言った。
「味はどうだった?」
俺の問いに彼女は少しの間、逡巡するような素振りを見せた。
そして、こう答えた。
「温かい、味がしました」
その言葉に俺は息を呑んだ。
「美味しい」でもなく、「栄養がある」でもない。「温かい」という、あまりにも純粋で、そして的確な感想。
俺がこの料理に込めた、不器用な想い。それが、この感情の乏しいはずの少女に確かに伝わったのだ。
その事実に俺の胸は熱くなった。まるで、凍てついた心の奥に小さな灯火がともったような感覚だった。
「そうか。なら、良かった」
俺は照れ隠しのようにそう言うと、自分の分のスープに口をつけた。
うん、我ながら悪くない出来だ。
その日の夕食は初めて少しだけ、味がしたような気がした。