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破滅フラグ回避マニュアル ③

食事という名の作業を終えた後、俺はリリアを寝室へ下がらせ、再び書斎の膨大な資料と向き合っていた。あの忌まわしき「魂喰いの揺り籠」の解析と無効化。それが、俺がこの世界で生き延びるための最優先事項だ。


「……やはり、術式の核が複雑すぎる」


アレクシスの知識を総動員してもこの禁術の構造はあまりにも入り組んでいた。術を完全に破壊するには下手をすれば術者である俺自身の生命に関わるリスクがある。となれば、狙うべきは術式の停止、あるいは活動エネルギーを生命力以外の何かで代替する「バイパス」の構築だ。

前世の化学知識と、この世界の錬金術。二つの異なる体系の知識を頭の中で融合させ、新たな理論を構築していく。それはまるで、誰も解いたことのないパズルに挑むような、困難だがどこかやりがいのある作業だった。研究者としての血が、この状況下で不謹慎にも疼くのを感じる。


まず無理やり停止させる方法はすぐに見つけた。術式を破壊してしまえば魂喰いの揺り籠は停止する。

しかしそれはリリアの生命維持装置。止めた末路がどうなるのは明白だ。

慌てて再度構築した時、それが安定する保証もない。


止めるにしても代替手段が必要となる。

原作でこのいけにえシステムに学園を利用していた。

アレクシスはまどろっこしいように学園でいけにえの選定をしていたが、マナの相性、強さ、そして騒ぎにならないよう目立たぬ相手、という条件がいるわけだ。


◇◇◇


数日が過ぎた。

俺は昼間、ある場所へ向かうために屋敷を出た。行き先は王都グランディルトにそびえ立つ「王立魔法学園」。そう、俺の現在の職場であり、乙女ゲーム『星降りのシエル』のメインステージだ。


なぜ俺が破滅フラグの巣窟である学園で教鞭を執っているのか。それは転生前の俺――本物のアレクシスが、自らの研究のために望んだことだった。

学園には錬金術科が使用していた旧校舎がある。老朽化を理由に今はほとんど使われておらず、人の出入りも少ない。アレクシスはその旧校舎の一室を秘密の工房として確保し、禁術の研究を誰にも知られずに進めるつもりだったのだ。

そして素晴らしい能力を持ついけにえを見つけ、ひそかに吸収しつづける。


(好都合、ではあるんだが……)


辻馬車の窓から見える壮麗な学園の姿に俺は重いため息をついた。

研究場所の確保はありがたい。しかし、そこは原作主人公と攻略対象たちが闊歩する地雷原のど真ん中だ。

特に原作ヒロインのシエル・クロウリー。彼女との接触は何があっても避けなければならない。


「ヴァイスハイト教官、ごきげんよう」

校門で馬車を降りると、見回りをしていた騎士科の生徒に敬礼された。俺は無言で頷き、足早に校舎へと向かう。

周囲の生徒たちが「あれが噂の……」「冷血漢っていうけど、顔は綺麗よね」「目を合わせたら呪われそう」などとひそひそ話しているのが聞こえるが、構っている余裕はない。


目指すは旧校舎の奥にある俺だけの秘密の工房。

重い扉を開けて中に入り、すぐに鍵をかける。中は薄暗く、埃っぽい。しかし、部屋の中央にはアレクシスが運び込ませた最新の錬金術設備が鎮座しており、壁際には俺が屋敷から持ち込んだ研究資料の山ができていた。

ここだけが、俺が誰にも邪魔されずに思考に没頭できる唯一の聖域サンクチュアリだ。


「さて、続きをやるか」


俺は上着を脱ぎ、早速魂喰いの揺り籠の解析に取り掛かった。屋敷から持ち出した資料の中に一つの黒い革張りの手帳を見つけていた。それはアレクシスが誰にも見せることなくつけていた、禁術に関する極秘の研究日誌だった。

ページをめくっていく。そこには術式の構築過程が、彼の冷徹な筆致で詳細に記されていた。


『――術式は安定。学園内での継続的なマナ吸収を確認。吸収効率は対象の生命活動レベルに依存する。次は特定の個体からの吸収効率を重点的に観測する必要がある』


その記述に俺は嫌な予感がした。ページをさらにめくると、それは現実のものとなる。

そこにはおぞましい「観測記録」と題された項目があった。


『観測対象:ティアナ・ミルフェ』

『所属:王立魔法学園 高等部1年生』

『特記事項:ハーブ園を営む家の長女。元来、健康体でマナの巡りも良好。パッシブ吸収の観測対象として最適と判断』


俺は息を呑んだ。ティアナ・ミルフェ。その名前には覚えがある。原作ゲームにおいて、ヒロイン・シエルの最も大切な親友であり、物語の序盤から原因不明の体調不良に悩まされる儚げな上級生だ。

1年生と言うとは去年から術式の対象になっていたらしい。

ゲームの中では彼女の病はアレクシスの悪事を暗示する単なる舞台装置の一つだった。しかし、今、俺の手の中にあるこの日誌はそれがただの設定ではなかったことを、冷酷な事実として突きつけている。


『観測記録:一日目。対象の顔色に変化なし。授業中の集中力、やや散漫か。誤差の範囲』

『観測記録:七日目。対象が軽い立ちくらみを訴える。マナ吸収による初期症状と推察。術式は正常に機能』

『観測記録:三十日目。対象の欠席が目立ち始める。シエルという友人が心配している様子が見える。顔色は明らかに悪化。歩行時にふらつきが見られる。顕著な効果を確認』


手帳を持つ手が、怒りと罪悪感で震えた。

これはただの研究記録ではない。一人の健康な少女が、その日常と健康をじわじわと奪われていく様を、冷酷に観察し続けた、悪魔の所業の記録だ。

アレクシスはリリアのためという大義名分のもと、何のためらいもなく、無関係な少女を実験動物のように扱っていたのだ。


そして、その記録に何度も出てくる名前。

友人シエル・クロウリー


その名前に俺の心臓は警鐘を乱れ打った。

そうだ、ティアナの親友こそ、この物語の主人公、シエル・クロウリー。

原作の彼女は困っている人を見ると放っておけない、お人好しで正義感の塊のような少女だった。少しドジでトラブルメーカーなところはあるが、その明るさと優しさで、心に闇を抱えた攻略対象たちの心を溶かしていく。

そんな彼女がもし、自分の親友を苦しめている元凶が俺だと知ったら?


(……間違いなく、俺を断罪しに来る)


彼女は持ち前の行動力と、無自覚な人たらし能力で、周囲を巻き込んで真相を暴こうとするだろう。王子様も騎士様も天才魔術師もみんな彼女の味方につくに違いない。そうなれば、俺に待ち受けているのはゲームと同じ、破滅の運命だ。


「最悪だ」


俺は頭を抱えて呻いた。

ティアナを救わなければならない。このまま放置すれば、彼女はいずれ命を落とすかもしれない。それは俺が転生前の生きてきた倫理観が絶対に許さない。

しかし、彼女を救うために迂闊に動けば、必ずシエルに勘付かれる。

そうなれば破滅フラグが即座に起動する。

まさに八方塞がり。


(どうすればいい? ティアナを救い、なおかつシエルに気づかれない方法……)


そんな都合のいい方法が、あるのだろうか。

いや、考えるんだ。俺は研究者だ。どんな難問にも必ず解決の糸口はあるはずだ。


まずは敵を知り、己を知るだ。

俺はティアナ・ミルフェという生徒について、アレクシスの記憶とゲームの知識を照合した。

高等部二年生。シエルより一つ年上。物静かで、心優しい少女。実家はハーブ園を営んでおり、薬草の知識が豊富。そして、シエルにとっては姉のような存在であり、何よりも大切な親友。


(ティアナの体調不良の原因は魂喰いの揺り籠だ。ならば、術式を解けば症状は緩和されるはず)


しかし、それでは根本的な解決にならない。

別に好き好んでやっているわけではない。

リリアという、やらねばならない理由があるのだから。


焦りが募る。俺がこうして悩んでいる間にもティアナは苦しんでいるのだ。

俺は手帳を閉じ、工房の窓から外を眺めた。窓の外では生徒たちが楽しそうに談笑しながら中庭を歩いている。

平和な光景だ。だが、その平和の裏で、俺という存在が、一人の少女の未来を蝕んでいる。


その時、ふと、視界の隅に儚げな人影が映った。

栗色の長い髪を三つ編みにした、線の細い少女。彼女は友人に肩を支えられるようにして、ゆっくりと歩いていた。顔色は青白く、その足取りは見るからに覚束ない。

間違いない。彼女がティアナ・ミルフェだ。

そして、彼女を心配そうに支えている太陽のような明るい笑顔の少女。赤みがかった茶色の髪をポニーテールに揺らし、その大きな瞳には親友を気遣う優しさが満ち溢れている。

彼女こそが、この物語の主人公にして、俺にとっての歩く死亡フラグ。

シエル・クロウリー。


「……っ」


俺は咄嗟に窓から身を隠した。見られたわけではない。だが、彼女の姿を直接目にしただけで、心臓が凍りつくような恐怖を感じた。

あの笑顔の裏には友人への深い愛情と、不正を許さない強い正義感が隠れている。彼女を敵に回すことだけは絶対に避けなければ。


俺は壁に背を預け、荒い息を整えた。

罪悪感と、恐怖。二つの感情が、俺の中で渦巻いている。


(だが、逃げるわけにはいかない)


俺はもうアレクシスではない。だが、この身体と、彼が犯した罪を引き継いでしまった。ならば、そこから目を背けることはできない。

ティアナを救う。それは俺がこの世界で、人間として生きていくために最初に果たさなければならない贖罪だ。


方法はまだ見つからない。

だが、俺はもう立ち止まらないと決めた。


まずはあの忌まわしき魂喰いの揺り籠の解析を、一刻も早く終わらせる。そして、ティアナに直接的な効果のある何らかの対策を講じる。

それは栄養豊富な食事の差し入れか、あるいはマナの消耗を補う錬金薬ポーションの開発か。

いずれにせよ、シエルに怪しまれないよう、細心の注意を払って。


俺は再び研究資料に向き直った。その瞳には先ほどまでの絶望ではなく、困難な問題に立ち向かう研究者としての、静かな闘志が宿っていた。


破滅フラグ回避マニュアルの、記念すべき第一項目。

俺は震える手で、そこにこう書き記した。


『第一条:ティアナ・ミルフェを救済し、シエル・クロウリーには絶対に捕捉されないこと』


あまりにも矛盾した、無茶な目標。

だが、これを成し遂げなければ、俺に明日はないのだ。

俺の静かで壮絶な戦いが、今、静かに幕を開けた。

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