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血の錠剤 ④

儀式を始めてから、二度目の夜が来た。

工房の中は血の鉄錆びた匂いと、俺自身の汗の匂いで、むせ返るようだった。

三日三晩。

それが俺が自らに課した儀式の期間。リリアの魂が、外部からのエネルギー供給なしに自立できるだけの力を取り戻すために最低限必要だと算出した時間だ。

しかしまだ半分も過ぎていない。


最初の夜のあの激情的な嗚咽はとうに枯れ果てていた。

今の俺の心にあるのはただ、どこまでも続く凪のような絶望、鈍い痛みだけだ。

胸の傷口から流れ出た血は一度乾き、かさぶたとなって傷を塞ごうとする。

魔法陣の光が、弱まり始める。

それは儀式が滞り始めている証拠だ。


「……っ……」


俺は力の入らない腕を必死に持ち上げた。

そして、乾いた傷口の上に再び、ナイフの切っ先を当てる。

躊躇いはもうない。ただ機械的にそれを抉る。


「ぐ……ぅ……っ!」


新鮮な激痛が、脳を焼く。

再び生温かい血が、じわりと溢れ出し、魔法陣がそれに応えるように再び紅い輝きを取り戻した。

この繰り返しだ。

血が乾き、傷が塞がりかける。

そのたびに俺は自らの手で、その傷を再び開く。

終わりなき自傷行為。

それは俺の肉体だけでなく、精神をも確実に少しずつ削り取っていく。


喉が焼けるように渇いていた。

俺は震える手で、あらかじめ用意しておいた水差しを掴んだ。

そして、その水を口に含む。

冷たい液体が、干からびた喉を潤していく感覚だけが、今の俺がまだ「生きている」ということを実感させてくれた。

それと持ち込んだ気付け薬の錠剤を書き込む。

血の味しかしない錠剤だった。


水を飲む。意識を保つ。そして、願い続ける。

ただ、ひたすらに。


時折椅子に座り、タバコを飲む。

なんてまずいタバコだろうか。

これも血の味しかしない。気分が悪い。

タバコを持つ手が震えているのが見えた。


(リリア……。生きてくれ……)

(ティアナ……。許してくれとは言わない……。ただ、健やかに……)


それはもはや祈りというよりも呪詛に近い、執念だった。

俺の意識は朦朧とし始めていた。

目の前に幻覚が見える。

リリアが俺のそばに来て、「お父様、もうやめて」と、泣きながら俺に訴えかけている。

シエルが「先生の馬鹿!」と、怒った顔で俺の頬を叩いている。

ティアナが、悲しそうな顔で、ただ黙って俺を見つめている。


(……ああ、これは罰なのだな)


俺はぼんやりと、そう思った。

俺が彼女たちから奪った、穏やかな日常。

その代償として俺はこの終わりのない地獄の中で、永遠に一人で苦しみ続けなければならないのだ。


その贖罪をするために俺が呼ばれた。

死せる者ならば、一度死んだところで問題あるまい。

アレクシスは身勝手なやつだ。


時折、意識が完全に途切れそうになる。

その度に俺は自分の太ももを、ナイフの柄で力任せに殴りつけた。

痛みで無理やり意識を覚醒させる。

眠ってはダメだ。

ここで眠ってしまえば、儀式はリリアへの供給がおろそかになり、全てが無に帰す。

リリアは死ぬ。

俺の贖罪は果たされない。


「……俺は……、パパなんだ……」


かすれた声で、誰に言うでもなく呟く。

そうだ。俺はアレクシス、あの子の父親なのだ。

娘を守るのが父親の務めだろう。


自らの地位のため、親のいいなりで進めた結婚。

愛もなく妻と結婚し、娘は俺の人生の成功のために生まれてきた。


ならばなぜ俺は娘のために自らの命を絶とうとしているのか。

矛盾している。

自らのために作った娘のために苦しむなんて。

たとえ、そのためにこの身がどうなろうとも。


俺は再び、自分の体に傷にナイフを当てた。

もう痛みにも慣れてきた気がする。

いや、違う。感覚が、麻痺してきているだけだ。

肉体が、魂がその終わりに向かって、ゆっくりと、しかし確実に壊れていっている。


紅い魔法陣の光。

それはまるで、地獄の業火のようだ。

俺はその業火の中で、焼かれ続けている。

俺の罪、完全に燃え尽きるその時まで。

この終わりのない苦痛と地獄と贖罪の夜は、まだ明ける気配を見せなかった。

俺はただ、ひたすらに耐え続けた。

たった、一人で。


あぁだめだ、意識がまた落ちていく。

暗闇の中におちていく。

1メートル。

10メートル。

100メートル。


走る。走る走る。

俺はトマト、ニンジン、ピーマン。

バターを100g。砂糖を200g。

1000メートル。

今日の天気は渋滞ののち値下がり傾向。

気温は映画館で待っている。

らりるれろ。

10000メートル。

走る。走る。

100000メートル。

意識深度の底へ、走る。


【補足】精神深度をメートル法で定量化する精神物理学的アプローチの提唱 和訳引用


(前略)従来定性的に記述されてきた無意識の階層構造に対し、観測可能な物理指標を導入する新たな試みである。被験者が内観状態に入る際に特定周波数帯の脳波(シータ波)が示す信号減衰率と、脳磁図(MEG)で観測される皮質下活動の空間的移動との間に、強い正の相関関係があることを見出した。この神経活動の減衰プロファイルは、媒質中における物理的な距離依存性減衰と極めて高い類似性を示す。


この知見に基づき、神経信号の減衰率を物理的距離のアナロジーとして変換した新指標「精神深度(Mental Depth, 単位: m)」を提唱する。本モデルを用いることで、個人のトラウマ記憶や抑圧された衝動が格納されている精神領域の「深さ」を定量的にマッピングすることが可能となり、精神分析療法の効果測定に応用された。 (民明書房より出典)

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