血の錠剤 ③
地下に隠された秘密工房。
その冷たい石の床に俺はいた。
外界から完全に遮断された、静寂と暗闇の中。
床に描かれた巨大な魔法陣だけが、俺が灯した数本の蝋燭の光を浴びて、不気味な文様を浮かび上がらせていた。
ここが俺の最後の場所だ。
俺は工房に入ってすぐ、震える手で、一つの作業を終えていた。
禁術「魂喰いの揺り籠」の強制停止。
術式の核に俺が編み出した遮断のルーンを刻み込むことで、外部からのマナ吸収を完全に断ち切った。
これでいい。
これで、ティアナはこれ以上生命力を奪われることはない。
王都で広がる「枯渇病」もこれ以上は悪化しないだろう。
かつての俺が犯した罪の一つは今、確かに止められた。
だがその代償はあまりにも大きい。
揺り籠からのエネルギー供給を絶たれたリリアの命は今この瞬間も砂時計の砂のように刻一刻とこぼれ落ちていっている。
彼女の命の灯火が、完全に消えてしまう前に。
俺は始めなければならない。
この自らの命を燃やし尽くす、最後の儀式を。
俺は床に描かれた「魂の分与」の魔法陣の中央へとゆっくりと足を踏み入れた。
ひやりとした石の感触が、足の裏から伝わってくる。それはまるで墓石の上に立っているかのような、冷たい感触だった。
俺は魔法陣の中央に静かに膝をついた。
そして、懐から、儀式用の銀のナイフを取り出す。
ろうそくの光を受け、その刃が、鋭く、妖しく煌めいた。
(……怖いか?)
自問する。
答えは決まっていた。
怖い。死ぬのは怖い。
ようやく手に入れた温かい日常を、手放したくはない。リリアの笑顔を、もっと見ていたい。
だが俺はもう迷わないと決めたのだ。
これは俺が背負うべき罪なのだから。
俺は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
震える手でそのナイフの切っ先を、自らの腕に押し当てた。
ひんやりとした金属の感触。
俺は一気にそれを突き立てた。
「……っぐ……!」
肉を裂き、骨にまで達するかのような、鋭い激痛。
思わず、声にならない呻きが漏れる。
温かい血が傷口から溢れ出し、俺の服を、そして、床の魔法陣を赤黒く染めていく。
血が魔法陣の溝を満たした瞬間。
工房の空気がびりびりと震えた。床の魔法陣が禍々しい紅色の光を放ち始める。
儀式が始まった。
俺の血を触媒として、俺の魂そのものをエネルギーへと変換する。
その生命力を眠るリリアの魂へと送り届ける。
それがこの儀式の全てだ。
「……う……ぁ……っ」
儀式が始まると同時に俺の身体を、これまで経験したことのない、凄まじい苦痛が襲った。
それはただの肉体的な痛みではない。
魂をその内側からやすりでじりじりと削り取られていくような、耐え難い感覚。
全身の血が逆流し、沸騰するかのようだ。
視界が赤く点滅する。
(耐えろ……。耐えるんだ……)
俺は歯を食いしばり、意識を保つことだけに全神経を集中させた。
この儀式は続けなければ意味がない。
リリアのあの高熱が下がり、彼女の魂が安定するその時まで。
俺はこの身を彼女のための生きた祭壇としなければならないのだ。
◇◇◇
どれくらいの時間が、経っただろうか。
一時間か、あるいは半日か。
苦痛の中で、時間の感覚はとうに麻痺していた。
俺の身体からは絶え間なく、しかしゆっくりと苦しめるかのように少しずつ血が流れ続け、意識は朦朧とし始めている。
魔法陣の光はその勢いを増すばかりだ。それは俺の命が、順調に消費されている証拠でもあった。
(……リリア……。苦しくないか……? 楽になったか……?)
薄れゆく意識の中で、俺はただ、娘の安否だけを想っていた。
この苦痛が彼女の命を繋ぎとめている。
そう思えば、不思議と耐えられた。
これは罰なのだ。俺が彼女を、そして、多くの人々を苦しめた罰なのだ。
だが人間の精神は俺が思っていたよりもずっと、脆かったらしい。
激痛と疲労と、そして孤独。
その全てが、俺の張り詰めていた覚悟の糸を、ぷつりと断ち切った。
「……う……うぅ……っ」
俺の目から熱い雫が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
一度、溢れ出した涙はもう止まらなかった。
「……いたい……。……こわい……」
まるで、子供のように。
俺は声を殺して、泣いていた。
情けない。みっともない。覚悟を決めたはずではなかったのか。
だが、止められないのだ。
痛い。苦しい。寂しい。
誰か助けてくれ。
「誰か、ここから出してくれ!」
俺は工房のドアに向かった。
しかし開くはずもない。
俺が俺を閉じ込めたのだ。
「嫌だ、こんなに痛いだなんて…!」
俺は呼吸を整え、水を飲み、その場にヘタレこんだ。
覚悟は良かったが、実際に痛みを感じると、その覚悟は容易に崩れるのである。
どんなに格好をつけて一世一代の覚悟を用意しようとて、いざ我が身が苦痛に晒されれば、情けない男に成り下がる。
所詮は悪役、正義のヒーローではない。やることなすこと、滑稽で無様だ。
きっとゲームの台本だったら(SE:笑い声)なんて書かれているだろうか。
もちろん、そんなことは冷静だった俺が折り込み済みだ。
「まってくれ、やめろ、わかったから。離してくれ!!」
血に飢えたルーンの中から、どす黒い、無数の手が伸びてくる。
その手が俺の足を掴むと、ずる、ずる、とルーンの中に引きずっていった。
血で滑る体がルーンの中央に引きづられたとき、俺の中にまたあの耐え難い痛みが走ってきた。
いけにえが逃走ができないよう呪いが施された禁術をさらに改造した非人道的な禁術である。
これを自分で自分に仕掛けるのだから、俺は頭が狂っている。
「……リリア……っ」
俺は娘の名前を、嗚咽と共に何度も何度も呟いた。
会いたい。
もう一度だけでいい。あの笑顔が見たい。
頭を撫でてやりたい。
抱きしめてやりたい。
だがそんな願いが、叶うはずもない。
俺はここで一人で死んでいくのだ。
それでも。
俺は儀式をやめなかった。
涙で視界が滲み、身体が痙攣し、意識が明滅する中でも。
俺は血を流し続けた。
ナイフを握る手にさらに力を込めて。
これは俺が選んだ道なのだから。
父親として、罪人として。
俺が果たさなければならない、最後の約束なのだから。
たとえこの身体が塵になろうとも。
俺はこの儀式をやり遂げなければならない。
工房の冷たい床の上で。
一人の男の孤独な嗚咽だけが、紅く輝く魔法陣の光の中で静かに響き続けていた。




