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血の錠剤 ②

俺はリリアの寝室を後にすると、まっすぐに屋敷の地下へと向かった。

俺だけの秘密の工房。

そして俺の最後の贖罪の場所。


父ヴァルターに助けは求められない。彼はティアナは見殺しろで終わる。それは原作の破滅ルートをたどるだけだ。

この罪は俺一人が背負って終わらせる。

それがアレクシス・フォン・ヴァイスハイトとして、俺が果たさなければならない最後の責任だ。


夜の闇の中を俺はただひたすらに歩き続けた。

その足取りにもう迷いはなかった。

これから俺が向かうのは死地だ。

だが、その先には愛する娘と罪なき少女の未来があると信じている。

俺は破滅を自らの手で選び取る覚悟を決めたのだった。


俺は地下工房の扉に幾重もの防音と認識阻害の結界を張り巡らせ、外界から完全に遮断された空間を作り出した。

ここが、俺の最後の戦場だ。墓地になる。

俺は震える手で、工房の明かりを灯した。壁一面に広がるのは俺がこれまでに書き溜めてきた、膨大な研究資料の山。その一枚一枚が、俺の苦悩と、そして犯してきた罪の記録でもあった。


(わかっているはずだ、自分が何をすればいいのか……)


俺は机の上に広げられた術式の設計図を、睨みつけるように見つめた。


”魂喰いの揺り籠”


この忌まわしき禁術の構造を、俺は誰よりも理解している。

エネルギー供給を止めれば、リリアが死ぬ。

止めなければ、ティアナが死ぬ。

それは変えようのない、絶対の法則のはずだった。


だが本当に道は二つしかないのだろうか?

第三の選択肢。二人を同時に救う、そんな都合のいい道は本当に存在しないのか?

俺は諦めきれずに思考を続ける。

前世の科学者としての思考回路と、この世界の錬金術師としての知識。

その全てを総動員して、この絶望的なパズルの解を探し求める。


「……エネルギーの、代替……」


術式のバイパス構築。俺がこれまで目指してきた道だ。

だが今から新しいエネルギー源を探し、術式を改変するにはあまりにも時間が足りない。

リリアもティアナもそれまで持たないだろう。


では他に今すぐ用意できる安定的で、強力なエネルギー源は?

原作通りの相性の良いいけにえを、数分たらずで見つけて贄できることに賭けるか?

いや当然それも無謀だ。

しかしその問いの答えは実はすでにあったのだ。


(あるじゃないか。ここに)


俺は自分の胸にそっと手を当てた。

心臓が、ドクン、と大きく脈打つのを感じる。


(俺、自身の……マナが)


そうだ。

全ての俺は術者だ。

この工房で最も強力で、そして、術式との親和性が最も高いエネルギー源。

それは俺自身の生命力そのものだ。


「魂喰いの揺り籠」のエネルギー源を、外部の生命体から術者である俺自身に切り替える。

そうすれば、ティアナたちはこれ以上、生命力を奪われることはない。

そして俺の生命力を直接、リリアに供給すれば、彼女の命を繋ぎとめることも可能かもしれない。

それはまさに一石二鳥の、完璧な解決策に思えた。


だがその考えがいかに危険で、無謀なものであるか俺自身が一番よく分かっていた。

自分の身体を生きたままエネルギー供給源にする。

それは自らの血肉を、魂を、絶え間なく他者に分け与え続けることに等しい。

その先に待っているのは緩やかで、確実な「死」だ。


「準備がいい。お前も初めからわかってたんだよな、なぁアレクシス」


俺は一度はその考えを打ち消そうとした。

しかし、俺の脳裏に古代の禁書で一度だけ目にした、ある秘術の記述が鮮明に蘇ってきた。

それはあまりにも危険すぎるため、ヴァイスハイス家ですら、理論上の存在として封印してきた禁術中の禁術。


「魂の分与ソウル・ディバイド


術者が自らの魂を「媒体」として、複数の対象に生命力を分け与える秘術。

それは本来、瀕死の仲間を救うための自己犠牲の究極奥義として、禁書の中にのみ存在する術だった。

古文書にはその代償も明確に記されていた。


『術者はその魂を分かつ故に二度と完全なる自己に戻ることはない。その肉体は魂の器としての負荷に耐えきれず、いずれは朽ち果てるであろう。それは救済にあらず。ただの、共倒れに至る道なり』


共倒れ。

そうだ、この術は救済の術ではない。

だが実際の運用は悪質極まりないものであり、やがて禁術となった。

いけにえありきの一方的な犠牲を強要する術だ。

俺がリリアを同時に救おうとすれば、俺の魂は引き裂かれることになる。

意識もなく、一生涯彼女の中でエネルギーとして食われるだけ。

その負荷は想像を絶するだろう。

廃人になるか、それより先に死ぬか。

どちらにせよ、まともな未来はない。


「……だが」


俺は机の上の、一枚の紙に目を落とした。

リリアが一生懸命に描いてくれた俺の似顔絵だった。

歪んだ線でお世辞にも上手いとは言えない。だが、その絵の中の俺は確かに笑っていた。

彼女が俺に見ていてほしい、偽物の父親の姿。


この笑顔を俺は守りたい。

そしてこの笑顔の犠牲になった、ティアナという少女を救いたい。


(もう迷っている時間はない!)


俺は覚悟を決めた。

たとえ、その道が共倒れに至る道だとしても。

俺一人の犠牲で彼女たちが救われるのなら。

それで、いい。

それがアクレシスの贖罪だ。


まず俺は工房の出入り口に厳重な鍵をかけ、内側から鍵を魔力で溶かした。

もう鍵はあかない。誰も出入りできない。

それは邪魔が入るのを防ぐためではない。

俺が逃げ出さないようにだ。


それから震える手でチョークを握りしめた。

そして、工房の冷たい石の床に巨大で、そして恐ろしく精密な魔法陣を描き始めた。

「魂の分与」の魔法陣だ。

古文書の記憶だけを頼りに一本一本、線を描いていく。

それはまるで自分の墓標を自らの手で刻んでいるかのような作業だった。


一つの円を描き、一つのルーン文字を刻むたびに俺の心は戸惑いと恐怖に揺れた。

本当にこれでいいのか?

まだ他に道があるのではないか?

死ぬのは怖い。

生きたい。リリアと、もっと、一緒に。


だが、その度に俺はリリアの笑顔とティアナの苦しむ顔を、そして、転生前の「アレクシス」の悲痛な願いが俺を止めてくれない。

『この身をもって、全てを償おう』

そうだ。俺はそのためにここにいるのだ。


使命や義務など無視して走れ。逃げろ。俺には元々関係のない存在のはずだ。

理性が言っている。だが俺と混ざり合うアレクシスの意思が正しい心を拒否している。


転生で生き返らせてもらって、最後に家族の愛を教えてもらったアレクシスには感謝する。

その代償が苦しんで死ねというのは酷いと思うが。


俺は全ての迷いを押しつぶした。

チョークを置くと、儀式用のナイフを手に取る。

その冷たく鈍い輝きが、俺の覚悟を静かに映していた。


魔法陣は完成した。

あとは俺がこの中央に座り、自らの血を触媒として、この地獄の儀式を開始するだけだ。

俺は天を仰いだ。

工房の高い天井。

その向こうにある星空を思う。

前世の俺もそして、転生前のアレクシスも決して掴むことのできなかった、ささやかな幸福。


(リリア。ティアナ。……シエル)


俺はもう会うことのないであろう少女たちの顔を、一人一人、思い浮かべた。

すまない。

俺は君たちを、俺の罪に巻き込んでしまった。

この命で、全てを償う。

だから、どうか、君たちだけは幸せになってくれ。


俺はゆっくりと、魔法陣の中央へと足を踏み入れた。

その一歩は俺の短い第二の人生が終わりへと進む第一歩だった。

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