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破滅フラグ回避マニュアル ②

ヴァルター・フォン・ヴァイスハイトの書斎はアレクシスのそれとは比べ物にならないほど巨大で、異様だった。壁一面の本棚には禁書と思しき禍々しい装丁の本が並び、部屋のあちこちには得体のしれない生物の骨格標本や、不気味な液体に満たされたガラス瓶が置かれている。まるで、悪趣味な博物館のようだ。


その部屋の中央、巨大な黒檀の机に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。

「来たか、アレクシス」

白髪混じりの銀髪をきっちりと撫でつけ、鋭い眼光を眼鏡の奥から覗かせる。歳の頃は六十を過ぎているはずだが、その背筋は真っ直ぐに伸び、声には張りがあった。彼こそが、この屋敷の主、ヴァルター公爵。


「お呼びと伺いました、父上」

俺はアレクシスの記憶に従い、完璧な貴族の作法で一礼した。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。この男の前に立つと、身体が本能的に萎縮するのを感じた。


「うむ。お前に頼みたい研究がある」

ヴァルターはこともなげに言うと、一枚の羊皮紙を机の上に滑らせた。

「王宮から、新たな依頼だ。隣国との緊張が高まっている。より殺傷能力の高い、新たな毒ガスの開発を急げとのことだ」

「……毒ガス、ですか」

「そうだ。だが、ただの毒ではない。敵兵のみに作用し、味方には影響のない、選択的な毒性を持つガスだ。お前の錬金術ならば可能であろう」


俺は息を呑んだ。人道的にも倫理的にも許される研究ではない。

アレクシスの記憶の中の彼はこのような非道な研究を強いられるたびに激しく抵抗していた。「命への冒涜だ!」と。


(どうする? ここで抵抗すべきか?)


しかし、今の俺にそれはできない。下手に反抗すれば、俺の変化を怪しまれるだけだ。それに今の俺には優先すべきことがある。

俺は感情を押し殺し、努めて無表情に答えた。

「承知いたしました。仕様書を」

「よろしい」


ヴァルターは俺の従順な態度に満足げに頷いた。

「それでこそ我が息子だ。感傷を捨て、真理の探求に身を捧げる。お前は正しい道を歩み始めたようだな」

彼の言う「正しい道」とは俺が自らの意志で禁術を使い、リリアを創り出したことを指しているのだろう。その事実に俺は吐き気にも似た嫌悪感を覚えた。


「ところで、例の“人形”の調子はどうだ?」

ヴァルターはまるで実験動物の様子を尋ねるかのようにリリアのことを口にした。

「……問題ありません」

「そうか。お前が創り出した器は確かに見事な出来栄えだった。だが、魂の定着率がまだ不安定なはずだ。いずれ、より純粋で強力な魂を持つ、新たな“器”が必要になるだろう。その時は私が力を貸してやろう」


その言葉に俺は背筋が凍るのを感じた。

新たな器。それは原作におけるシエル・クロウリーのことを暗示している。この父親は息子が禁忌を犯したことを咎めるどころか、さらに深い地獄へと誘おうとしているのだ。


「……お心遣い、感謝いたします」

俺はそれだけを言うのが精一杯だった。この男の前では一瞬でも気を抜けば、心の奥底まで見透かされてしまいそうだ。


「下がってよい。研究、期待しているぞ」

「はっ」

一礼し、俺は書斎を後にした。扉が閉まる瞬間まで、ヴァルターの冷たい視線が背中に突き刺さっているのを感じていた。


自室に戻る廊下を歩きながら、俺は大きく息を吐いた。短い時間だったが、精神的な疲労は計り知れない。

同時に新たな決意が胸の内で固まっていた。

俺が戦うべき相手は単なる「破滅フラグ」などではない。あの冷酷非情な父親、ヴァルター・フォン・ヴァイスハイトその人だ。彼から、リリアという「未来」を守り、俺自身の「過去」から解放されなければならない。


俺の部屋の前に着くと、扉の前で小さな人影が佇んでいた。リリアだ。

「……何をしている?」

「お父様をお待ちしておりました」

彼女は俺が書斎を出てからずっと、ここで俺の帰りを待っていたらしい。その健気さに胸が締め付けられる。

「入れ」

俺は扉を開け、彼女を部屋に招き入れた。部屋の中にはバルモラルが手配してくれたのだろう、豪勢な食事が並んだテーブルが用意されていた。


俺は椅子に座り、リリアにも向かいの席を促した。彼女は戸惑ったように俺の顔を見上げたが、俺が無言で頷くと、おずおずと椅子に腰かける。


目の前にはローストされた鳥の丸焼き、彩り豊かな温野菜のサラダ、湯気の立つポタージュスープ、そして焼きたてのパン。どれも実に美味そうだ。

しかし、リリアは目の前の食事に一切手を付けようとしない。ただ、姿勢を正して、じっと俺を見ているだけだった。


「なぜ食べない?」

「……命令がありませんでしたので」

その言葉に俺は絶句した。そうだ、この子は命令がなければ、食事すらできないのだった。

俺は自分の迂闊さに頭を抱えたくなった。俺の常識はこの子には通用しない。一つ一つ、丁寧に教えていかねばならないのだ。まるで、生まれたての赤子に接するように。


「……リリア」

俺はできるだけ穏やかな声で彼女の名前を呼んだ。

「これから、食事は俺の命令がなくても食べていい。腹が減ったら、いつでも好きなものを食べるんだ。分かったか?」

リリアは紫の瞳を数回またたかせた。俺の言葉の意味を、懸命に理解しようとしているようだった。

やがて、彼女は小さく頷いた。

「はい、お父様」


それでも彼女はまだ動かない。

俺はため息をつき、目の前のパンを一つ手に取って、彼女の皿に置いた。

「いいか、まずはこれを食え。……命令だ」

ようやく、リリアは小さな手でパンを取り、おずおずと口に運んだ。そして、小さな口で、機械的にもぐもぐと咀嚼を始める。

その姿を見ていると、胸の奥がずきりと痛んだ。

これは食事ではない。ただの、栄養補給という作業だ。


俺は前世での数少ない趣味を思い出した。仕事が休みの日に少しだけ凝った料理を作ること。誰に食べさせるでもなく、ただ自分のために作っていた。だが、誰かのために何かを作り、それを「美味しい」と食べてもらうことが、俺が知る唯一の、そして最も分かりやすい愛情表現だったのかもしれない。


(そうだ。いつか、この子に……)


いつか、この子に心から「美味しい」と言わせてみたい。

そのためにもまずはこの危機的状況を乗り越えなければ。


俺は決意を新たに目の前のスープに口をつけた。

味はしなかった。

破滅フラグ回避マニュアルの、最初のページはまだ、白紙のままだった。

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