破滅フラグ回避マニュアル ①
床に座り込んだまま、俺は自分の掌をじっと見つめていた。先ほど少女の頬を打った鈍い感触と、微かな痛みがまだ残っている。現実逃避をしようにもこの身体に染みついたアレクシスの記憶が、俺が置かれた状況の深刻さを繰り返し突きつけてくる。
悪役令息、アレクシス・フォン・ヴァイスハイト。三十歳。
職業、王宮錬金術師。
家族構成、妻とは離婚済み。一人娘のリリアは病死。
そして、目の前にいるのはその亡き娘の亡骸から作り出した、禁断のホムンクルス。
(……情報量が多すぎる)
頭痛をこらえるようにこめかみを押さえる。
過労死した社畜研究員としての俺の常識が、このファンタジーすぎる現実を受け止めきれずに悲鳴を上げていた。
乙女ゲーム『星降りのシエル』。前世で息抜きにプレイした、剣と魔法の王道ファンタジーだ。
俺は主役のシエルの親友である商家の娘ロゼッタという女の子が好きで、彼女の幸せを見届けるためだけに全てのルートをクリアした記憶がある。
俺はアニメ版PVで彼女に一目惚れし、ゲーム中のボイスを目覚ましに設定するほど、熱を上げていたのだ。
そのゲームで、アレクシスは隠し攻略対象だった。
しかし、彼のルートは陰惨極まりない。娘を失った哀しみに心を病み、禁術に手を出した彼はやがて主役の魂をホムンクルスの器に移し替えようとする。
バッドエンドではシエルの魂を奪われた人形を「完璧な娘」として抱きしめ、どこかへ消えていくという、後味の悪さだけが残る結末だった。
その罪が露見し、彼は王都の広場で処刑される。それが、この身体の持ち主の確定した未来。
(冗談じゃない。過労死したと思ったら、次はギロチンとか、どんな罰ゲームだ)
どうにかして破滅フラグを回避しなければならない。そのためにはまず現状の正確な把握が必要だ。研究者としての性分が、混乱した頭の中でも冷静な分析を求めていた。
「リリア」
俺は床に倒れたままだった少女に声をかけた。いや、俺ではない。この身体が、そう呼んだ。アレクシスの声は俺が思っていたよりも低く、感情の抑揚に乏しい。
少女はびくりと肩を震わせた。そして、壊れ物を扱うかのようにゆっくりと俺の方へ向き直る。その瞳はやはり空っぽのままだった。
「はい、お父様」
「……そこにいろ。俺が許すまで、一歩も動くな」
それはほとんど無意識に口から出た言葉だった。どう接していいか分からず、とりあえず距離を置きたかった。
リリアはその命令にこくりと小さく頷くと、本当にその場から一歩も動かなくなった。
まるで美しい彫像のように。ただ、じっと俺を見つめている。
その視線が俺の罪悪感をじりじりと炙った。
俺はふらつく足で立ち上がり、部屋の隅にある大きな姿見の前に立った。
鏡に映っていたのはゲームのスチルで何度も見た、美貌の貴族の姿だった。
色素の薄い銀髪は窓から差し込む月光を浴びて淡く輝いている。
通った鼻筋に薄い唇。そして、全てを見透かすような鋭いアメジストの瞳。
顔はいい、という周囲の評価は事実なのだろう。
だが、その表情は能面のように固く、目の下には深い隈が刻まれて、生気が感じられなかった。
三十歳という年齢より、ずっとやつれて見える。
「ひどい顔だ……」
自分のものとは思えない声で呟き、俺はため息をついた。
これからどうする? まず、破滅の直接的な原因を洗い出す必要がある。
俺は指を折りながら、思考を整理していく。
まず、第一のフラグ。
鏡の向こう、部屋の隅で彫像のように佇む少女――リリア。この子の存在そのものが、全ての元凶だ。この禁忌が露見すれば、即ゲームオーバーだろう。
第二に、彼女を生かすための術式。
アレクシスの記憶によれば、あの術式は周囲から無差別に生命力を吸い上げる代物だ。放置すれば「枯渇病」の噂が広まり、いずれ俺の犯行が暴かれる。
そして、第三。最悪の地雷。
原作ヒロイン、シエル・クロウリー。
アレクシスは最終的に、彼女をリリアの「次の器」として狙った。あの歩く死亡フラグにだけは、何があっても関わってはならない。
回避すべきは、三つの巨大な破滅フラグ。
俺はこめかみを押さえた。
やるべきことは、山積みだ。
(……だが、やるしかない)
俺は心の中で固く頷いた。社畜人生で培った問題解決能力を、今こそ発揮する時だ。
まずはあの忌まわしき術式の詳細を調べる必要がある。
俺はアレクシスの記憶を探り、彼の私室であり研究室でもある書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉を開けると、インクと古い紙の匂いが鼻をつく。壁一面に作りつけられた本棚には錬金術に関する専門書がぎっしりと並んでいた。その光景に研究者だった俺の血がわずかに騒ぐ。
(だが、感心している場合じゃない)
机の上には書きかけの研究資料が散乱していた。その羊皮紙に踊る流麗な文字で書かれた術式や数式の数々。それは転生前の俺が扱っていた化学式とは全く異なる体系だが、不思議とその意味が理解できた。アレクシスの知識と経験が、俺の中に根付いている証拠だ。
「これは……生命力変換効率に関する計算か……」
資料を読み解くうちに俺は顔をしかめた。そこには人間から抽出した生命力を、いかに効率よくホムンクルスの活動エネルギーに変換するかという、おぞましい研究の記録が克明に記されていた。
そして、その資料の最後に俺は決定的な記述を見つけてしまった。
『試作型自動吸収術式、魂喰いの揺り籠の構築に成功。
ホムンクルス生命活動を維持するために必要なエネルギー量を常に計算し、不足分を自動的に周囲の生命体から吸収(捕食)する。24時間、半永久的に作動し続ける。
術式は効率を最優先し、同じエネルギー量を得るなら多くの雑多な生命体から少しずつ吸収するよりも、単一の、より強力な生命力を持つ個体から集中的に吸収することを好む。
当然ながら術者等や非術者の血縁はこれの対象から除外される。
ただし現段階では制御不能。発動を停止するには術式そのものを破壊、あるいは完全に無効化する必要あり』
(制御不能!?)
俺は血の気が引くのを感じた。つまり、歩行型の災害のようなものではないか。これではリリアを屋敷に閉じ込めていてもいずれ使用人の誰かが「枯渇病」を発症し、騒ぎになるのは目に見えている。
「くそっ、なんてものを作ってくれたんだ、元のアレクシスは……」
まずはこの魂喰いの揺り籠をどうにかしなければ話にならない。
俺は書斎中を探し回り、関連する資料をかき集めた。アレクシスほどの天才が、作っただけで放置しているはずがない。
きっとどこかに解除方法や制御方法に関する研究記録があるはずだ。
夢中になって資料を漁っていると、不意に背後で扉がノックされた。
「アレクシス様、旦那様がお呼びでございます」
感情の抑揚がない、老人の声。執事のバルモラルのものだと、記憶が告げていた。
旦那様、というのはこの身体の父親であり、ヴァイスハイト公爵家の当主であるヴァルター・フォン・ヴァイスハイトのことだ。
(最悪のタイミングで、ラスボスのお出ましか……)
アレクシスの記憶によれば、父親のヴァルターは息子であるアレクシスですら恐れるほどの冷酷非情なマッドサイエンティストだ。アレクシスの錬金術の才能を見出し、幼い頃から非人道的な研究を強制してきた張本人でもある。禁術に関する知識も元はと言えばこの父親から授けられたものだった。
「……すぐに行くと伝えろ」
俺は努めて冷静に答え、散らかった資料を素早く机の引き出しに隠した。ヴァルターに俺が禁術の制御方法を探っていることなど、絶対に知られてはならない。彼はアレクシスが自らの意志で禁術を使ったことを、「ようやく感傷を捨てた」と歪んだ形で喜んでいるのだから。
廊下に出ると、バルモラルが蝋燭の燭台を手に静かに佇んでいた。彼は俺の顔をちらりと見ると、わずかに眉をひそめた。
「アレクシス様、またお食事を抜かれておりますな。お顔の色が優れませんぞ」
「……構わん」
「左様でございますか。ですが、リリアお嬢様も昼から何も召し上がっておられないご様子。厨房の者が心配しておりました」
バルモラルの言葉に俺ははっとした。
そうだ、リリア。俺は彼女に「そこにいろ」と命令したきり、何時間も放置していた。食事も忘れて、あの部屋でずっと俺の命令を守り続けているのだろうか。
(なんてことだ……)
俺は自分の配慮のなさに愕然とした。彼女は人形かもしれないが、身体は人間の少女のものだ。食事を摂らなければ、衰弱するに決まっている。
アレクシスの記憶の中の彼女は確かに食事を摂っていた。だがそれは全てアレクシスが「食え」と命令した時だけだった。彼女は自らの意思で食事を摂ることすらしないのだ。いや、できないのだ。創造主であるアレクシスの命令がない限り。
「すぐに食事の用意をさせろ。俺も食べる。リリアも俺の部屋で一緒にだ」
俺の言葉にバルモラルは驚いたように目をわずかに見開いた。
「畏まりました。すぐに準備させます」
彼は深く一礼すると、音もなく廊下の闇に消えていった。彼が驚くのも無理はない。記憶の中のアレクシスはホムンクルスのリリアと食事を共にすることなど、一度もなかったのだから。
父親の部屋へ向かう足取りは鉛のように重かった。
俺がこれから為すべきことは破滅フラグの回避だ。そのためにはこの屋敷の支配者であり、俺の人生を狂わせた元凶であるあの男との対決は避けられないだろう。
覚悟を決めろ。
お前の第二の人生は始まったばかりなのだから。