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ワガママ添えの破滅回避マニュアル

馬車の中で眠ってしまったリリアを、俺は自室のベッドにそっと寝かせた。

その寝顔は天使のように穏やかで、まともな心があるなら殺そうとは到底思えない。

しかし、ヤツはまともではない。

まともな心がなくなった時、まともな心があれば大丈夫だったものはどうなるのか…。


俺は彼女が目を覚まさないように静かに部屋を出ると、疲れた身体を引きずるようにして、自分の書斎へと向かった。

今日の出来事を整理し、今後の対策を練らなければならない。


しかし、書斎の扉を開ける前に俺は居間のソファに座る厳格な人影に気づいて足を止めた。

銀髪をきっちりと撫でつけ、その手には黒檀の杖。冷たい光を宿す瞳が、眼鏡の奥から、まっすぐに俺を射抜いていた。

父、ヴァルター・フォン・ヴァイスハイトだった。


「父上。何か御用でしょうか」


俺は平静を装って声をかけた。こんな時間に彼が居間で俺を待っているなど珍しい。いつもなら、自分の研究室に籠っているはずだ。

ヴァルターは俺の問いには答えず、ただ冷ややかにそして侮蔑を込めた声で言った。


「随分と、楽しそうな休日だったようだな、我が息子よ」


その言葉に俺は背筋が凍るのを感じた。彼が、俺の今日の行動を知っている。どこかで見張らせていたのか、あるいは屋敷の使用人から報告を受けたのか。


「何を血迷ったか知らんが、あの“失敗作”を、白昼堂々、外に連れ出したそうではないか」


ヴァルターの言う「失敗作」とはもちろんリリアのことだ。

彼はリリアの正体を知る屋敷で唯一の人物。

そしてアレクシスと同じく、亡き孫娘の姿をした人形を心の底から不気味がり、嫌悪している。


「愚か者めが」


ヴァルターは静かに立ち上がると、杖を手にゆっくりと俺に近づいてきた。

その一歩一歩が、まるで断頭台への階段のように俺の心に重くのしかかる。


「あれが自分の娘どころか人でないと、万が一にも他人に気づかれたらどうするつもりだった?」

「いえ、そのような疑いは決して――」

「なんとかあのワガママ令嬢のイザベラ・ド・ヴァレンティンと結婚したと思えば、娘をあっさり死なせおって!」

「父上、その件はもう――」

「もし気づかれてみろ、政府機関からの追放どころではない!」

「彼女はもう、我々になんの興味もありませんよ」

「どうだか。あの女、つい最近も娘を見に来たそうじゃないか」


それは俺の飯を食いに来ただけ。

と言っても信じてはもらえないだろう。

アレクシスの記憶の父は、下の者の話を聞くタイプではなかった。


「我らヴァイスハイト家が代々受け継いできた禁術の研究。その全てがお前のくだらん論理のせいで、水泡に帰すところだった!」

「しかし効果は着実に」

「なにが器に入れる心を育てるだ。器が壊れれば、入れたものは全て無意味に地へ流れ落ちるのみだ、作った我々を巻き込んでな!」


彼の声は静かだった。だが、その静けさの奥に煮えたぎるような怒りが渦巻いているのが分かる。

そして、次の瞬間。

風を切る鋭い音と共に彼の持つ黒檀の杖が、俺の頭めがけて振り下ろされた。


ゴッ、という鈍い衝撃。

視界が、一瞬、白く染まった。

側頭部から、じわりと熱いものが流れ出すのを感じる。床にぽた、ぽたと、赤い滴が落ちていく。

だが俺は倒れなかった。歯を食いしばり、その場に仁王立ちになって、父親の怒りを、その暴力の全てを、ただ黙って受け止めていた。


「情に流され、大局を見失う。いつまで経ってもお前はその甘さが抜けんな」


ヴァルターは血を流す俺の姿を見ても眉一つ動かさなかった。


「いいか、アレクシス。あの人形はお前の娘ではない。あれは我ら一族の悲願である『生命の完全な設計と制御』への、貴重な第一歩。死者の魂を、新たな器に定着させるという、前人未到の研究におけるかけがえのない“研究素材”なのだ」


彼はリリアを「商品」とでも言うかのように冷たく言い放った。

「商品にはそれにふさわしい管理が必要だ。壊れぬように誰にも盗まれぬように厳重に保管する。それだけだ。そこに情などという不純物を挟む余地はない。そんなもの、探求者にとってはただの枷だ。捨てろ」


彼の言葉は正論だった。

いや、彼自身の、歪んだ論理の中では完璧な正論だった。

俺が今日、リリアを外に連れ出したことで感じたあの恐怖。

マリアンヌの過剰な干渉がリリアの秘密を暴くかもしれないという、あの危機感。

それらは全て、ヴァルターの言う通りなのだ。


(バレたら、全てが終わる)


その一点において、俺と父の考えは皮肉にも一致していた。

俺が守りたいのはリリアという「娘」との温かい日常。

彼が守りたいのはヴァイスハイト家の「研究成果」と、その名誉。

目的は全く違う。だが、そのために「リリアの正体を隠さねばならない」という結論は同じだった。


「配慮が足りず、申し訳ありませんでした」


俺は床に落ちる自分の血を見つめながら、低い声で謝罪した。

それは父の暴力に屈したからではない。俺自身の、認識の甘さに対する自戒の念から出た言葉だった。

俺はリリアを愛しいと思うあまり、彼女が抱えるリスクを、どこか軽視していたのかもしれない。今日の出来事はそのことを、俺に痛いほど思い知らせてくれた。


ヴァルターは俺の謝罪を聞くと、フン、と鼻を鳴らした。


「分かればいい。二度とこのような愚行は犯すな。いいな」

「はい」


彼はそれだけを言うと、俺に背を向けた。まるで、汚れた物でも見るかのように俺の血が落ちた床を忌々しげに一瞥してから、自分の書斎の方へと去っていく。


後に残されたのは静寂と、俺の側頭部から流れる血の鉄錆びた匂いだけだった。

俺はその場にゆっくりと膝をついた。頭がずきんと痛みを主張している。

だが、それ以上に心が痛かった。


父はリリアを「失敗作」と言った。

だが、それは違う。

彼女は失敗作などではない。

彼女は感情を学び、笑顔を覚え、そして、自らの意志で俺に「そばにいたい」と願ってくれるかけがえのない存在だ。

それをあの男は理解しようともしない。


(だが、父の言うことにも一理ある)


この痛みは己への戒めだ。

俺はリリアを守らなければならない。

それはただ、彼女を甘やかし、外の世界に触れさせることだけではない。

彼女の秘密が誰にも知られることのないように細心の注意を払い、時には彼女を厳しい現実に触れさせないように守ってやることも父親としての、俺の務めなのだ。


愛情と、管理。

自由と、安全。

その二つの間で、俺は正しいバランスを見つけ出さなければならない。

それはきっと、茨の道だ。


俺は袖で乱暴に額の血を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。

痛みはまだある。だが、心の中は不思議と冷静だった。

今日の出来事は俺に父親としての新たな課題を突きつけてきた。


世間には気づかれてはいけない。

だが人として育てる。

温かい食事を与え、喜ばせる。

愛情を与え、あの子もまた、誰かに愛情を与えられるようにする。

あの無垢な寝顔を守るためにも。

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